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「――でな、そんときフッたんが店長の愛娘やって」
「嘘、じゃあもしかして、お店……」
「おう、クビよ。最後やし腹立ったから文句言いまくったら、あの店長、脅迫された言うて警察呼びよってな。まあ事情説明したらお巡りさんも同情してくれたけど」
「災難だったね……ふは、千寿さん運悪すぎだよ」

 クスクスと笑い声を立てて、弦は目尻に浮かんだ涙を袖で拭いた。随分と強張りの解けた様子が嬉しく、千寿は肘をついて頭を起こす。空いた手で頬を撫でても、笑って気が抜けているのか弦は嫌がらなかった。

「俺な、好きな奴のこと、めちゃくちゃ甘やかす癖があんねん」
「……?」
「多少の無理しても構うし、欲しいもんは買うたるし、我儘聞くん楽しいし、とにかく可愛がりたくてな」
「うん……」
「そしたら段々、相手にとって甘やかされるんが当たり前になってきてな……そうなると、めっちゃ疲れるんや。満タンやった愛情が気づいたら空になって、一緒におんのがしんどなって別れる。勝手で、最悪な男やねん」
「千寿さんは最悪なんかじゃないよ」
「でも、お前が思うほど完璧ちゃうで」

 は、と目を見張った弦は、何故千寿が自分に情けない過去を語ったのか悟ったようだった。

「な、んで……そんな優しいの」
「そりゃあ、お前が好きやからやろ。でもな、今までと同じ轍は踏みたない」

 与える行為に満足し、与えることを望まれて熱の冷める千寿は、思えば自己中心的な愛し方ばかりだった。
 そして、尽くすことで得られる優しさの見返りに縋った弦は、それが義務でも道理でもないことを未だ知らない。
 誰かに傾倒し、自分を捧げているのは同じはずなのに、千寿も弦もうまくいった例がない。だったら今度は間違ってきた者同士で、自分達なりの正しい恋愛を模索し、迷い、複数ある正解を選び取って寄り添い生きていきたいと思うのだ。

「せやからお前が俺を好きになってくれたら、今度は与え合える関係になってみたい」

 小首を傾げる弦は、ゆっくりと頭を振る。

「……ごめん、よくわかんない。優しくしてくれて、家に置いてくれる千寿さんに、俺がなんでもしたいって思うのは与え合える関係じゃないの?」
「似とるけど、ちゃうな。……ゆっくり考えたらええ。俺の気持ちは変わらんから、返事くれるときまで待つし」
「でも、千寿さんは……」

 遠慮がちに千寿の腕へ手を置いた弦は、最後まで口に出すことなく目を伏せた。明らかに何かが引っかかっているくせに、それをぶつけてこようとはしない。
 彼には彼なりの順序や、気持ちの整理が必要だろう。一先ずは弦の過去を共有し、千寿の想いを伝えることができたのだから及第点だ。あの男との接触があったことや、異動の件まで今話すのは酷に違いない。
 時間ならたっぷりある。
 思うように口説けない歯痒さも丸ごと愛しく感じる千寿は、弦の目元にかかる長めの前髪を耳にかけた。

「明日可燃ゴミの日やろ。あれ、捨てとき」

 なんのことかと弦の目が丸まる。純粋で、何度見ても、どんな表情を浮かべていても、不思議なほど綺麗な瞳だ。
 千寿は臆病で繊細なこの男が、無邪気に幸福を知る日を深く願った。もちろん、傍にいるのは自分がいい。

「飼育マニュアル」

 ただでさえ丸まっている瞳が、驚愕に大きく見開かれた。僅かに絶望すら漂っているように思え、穏やかな声で言い聞かせる。

「ごめんな。昨日たまたま見つけたんや」
「そう、だったんだ」
「もういらんやろ。捨ててまい、お前の手で」

 私物を覗き見てしまった千寿を、弦は咎めなかった。その代わりにか、上着の裾が皺になるほど強く握り締められる。

「ごめんね、千寿さん」

 か細い謝罪が何に対してか、推測する材料はない。だから千寿は、彼自身から胸の内を語ってくれる日が来るよう、自分より若干大きな男を大事そうに抱き締めた。

「謝るより、好きやって言うてほしいわ」

 弦は素直だ。傍で愛情を注げば想いは通じるはずだし、好かれている手応えも十分にある。千寿はそう感じていたし、信じて疑わなかった。
 ――しかしそれは自惚れで、己への過信だったのだろうか。


 GW休暇に入る前日の、夕方のことだった。
 本社への異動を休暇明けに控えたその日、千寿は社の計らいで昼に退勤し、所用を済ませてから自宅マンションへ帰った。
 そして玄関扉を開けてすぐ、座って靴を履く弦と出くわしたのだ。

「え、千寿さん……?」

 ポカンと口を開ける弦の傍には、パンパンに膨らんだボストンバッグがある。
瞬間的に、彼が出て行くつもりなのだと察し、頭が真っ白になった。

「……、お前」

 住宅街を走る車のエンジン音や、買い物帰りの主婦グループの笑い声が聞こえるはずなのに妙に遠い。自分の発した声さえも意識の外にあり、千寿は瞬きを忘れていた。


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