「今日はお父さんが帰ってくるから、学校が終わったらすぐ家に帰っておいで」
「わかったよ、おじいさん」
「行ってらっしゃい」

 ぼくはいい子のような返事をして、鞄を持って家を飛び出した。むろん、鞄はカラである。僕は学校を避けるようにして、一目散にトーポリの木の元へと向かった。ごめんなさいおじいさん、今日は何よりも早く、お父さんと、あとぼくの初恋の人に会いに行きたかったのだ。

 ぼくの住む町には中心に大きな樹が生えている。人間の大人5人くらいが手を繋いで囲うのがやっとくらいの太い胴体を持っていて、幹は空に霞むほどに高い。この大木は名前をトーポリという。ポプラの木の亜種らしいけれど、これはこの大木自体の名前なのか、それともそういう木の種類の名なのかぼくは忘れてしまった。なのでぼくはどちらでもいいようにこれを「トーポリの木」と呼んでいる。
 おじいさんはこの町の人はみんなこの木から生まれたと言っていた。人だけではなく、獣も虫も、花も、命は全てこの木から生まれたという。ぼくは学校で医学や生物学を学んでいるのでそんなの馬鹿げた幻想だって知っている(そもそも、そんなの学ばなくても文学の一つや二つを読めば、男女のセックスの末に子供が生まれるのだなんてすぐわかる)。けれども「人間はトーポリの木から生まれた」説を信じてしまうおじいさんの気持ちもぼくはなんとなく理解している。なぜってそれほどまでにトーポリは町の人々の生活の中心となっているからだ。

 おじいさん曰く、いまわかる限りこの木の樹齢は約五千年でこれから研究を進めればもっと古いということがあきらかになるらしい。
 ぼくのお父さんはまさに樹を専門に研究している学者であって、樹齢を測るスペシャリストだった。いつもは海外の大学院で木の研究をしているのだけれど、今回ついにこのトーポリの木の樹齢を測るプロジェクトを行うということで、まさに今日、一年ぶりに町に帰ってくるのだった。

 昨日まで降っていた雨のせいで、空気がやけに湿っている。遠くまで霧がかすみ、それとともに、白い綿毛が散り散りに舞っている。毎年この五月になると、このトーポリの木やその周りのポプラの木々が一斉に種子のついた綿毛を飛ばす。町中に白い、時には茶色ばんだ綿毛が雪のように舞い散って、町はかすんだ幻想郷のようになる。そう、それほどまでに木々は綿毛を飛ばすのだ。ぼくはこれらを直に吸い込まないべく、学校から支給されたマスクをつけた。そして息苦しさにあえぎながらポプラの林を突っ切って行った。

 林を抜けると、町の中心である商店街があらわれて、さらにその中心の広場に、トーポリはそびえ立っていた。
そしてそれを取り囲むようにして、白衣を着た男たちが数人話し込んでいた。ぼくはその内の一人、最も若くて背の高い男に向かってまた走り出した。

「父さん!」
「おお、久しぶりだなあ。お前学校はどうした」
「臨時休講さ。……あのさ、あの子は?」
「さあ、まだ見てないな。丘の方にいるんじゃないか。探してみたら?」
「いや、いい。しばらく父さんの仕事を見てる」

 ぼくは久しぶりに父さんに会えた喜びの顔をうまいことマスクで隠しながら、トーポリの木の根に座った。こころなしか父さんも少しにやけているように見えた。ぼくは積もる話もそっちのけで、科学者の人達と何やら神妙に話している父さんの少し老けた顔を眺めていた。そして隙を見つけるとこれみよがしに父さんに質問をした。

「ねえ父さん。これも穴を開けて年輪を数えるの? 昔、庭の樹を調べていたときみたいに。」
「いや、これだけでかいとそれは無理だな。調べ方はいろいろあるんだけれど、今回は木の根にある特定の放射性炭素を調べることで樹齢を測るのさ」
「ふうん。やっぱり五千歳ぐらいなのかなあ」
「いやあ、それが、われわれ科学者はこの木はもっと新しいものだと踏んでいるよ。
というのも、この町に残る様々な文献を調べてもらっているんだが、
どうも五百年より以前に、こんな大きな木の記述がない」

父さんは、表情ひとつ変えず、木の根をかりかり削りながらそう言った。父さんが言うのだからそうなのだろうとぼくは思う。その確信に誇りを感じるとともに、心のどこかでおじいさんに対して後ろめたい気持ちがふつふつと湧いてきた。五千年という数字にぼくは少し、夢をみていたのかもしれなかった。

「五百年前、だと、ちょうどこの地で大きな戦争があったころじゃない? 先週、歴史の授業で習ったよ。戦争で文献が消えたとかじゃないの?」ぼくはなにやら焦った様子で言いかえした。
「ほら、『あの子』の父さん、有名な考古学者だろう。
彼がきちんと調べてくれているから、間違いはないはずだよ。
戦前の文献にもまるで記載がない」
「おじいさんは、この木は紀元前からあると言っていたよ」
「はははまさか」

白衣の科学者たちは一斉に笑い始めた。マスクごしにこもった笑い声が、誰もいない平日の広場に響いた。僕はなんだか居場所を失ったような気になって、すくりと立ち上がった。

「じゃあ父さん、僕はちょっとあの子に会ってくるね」
「ああ、あの子もお前に会いたがっていたぞ。早く行っておいで」

 僕は一目散に走った。ポプラの林を走り抜けて、丘に出た。町を一望できる、少し高い丘だった。枯れかけた低木や草が生えているので、僕はそこをはげ山と呼んでいた。そんなロマンの欠片もない寂れた丘で、ぼくは細く伸びた低木に寄りかかって町を眺めるあの子を見た。

「ひさしぶり」彼女は変わらぬ表情でぼくを見た。
「……ひさしぶり」
「一ヶ月ぶりだよ、短いじゃない」
「僕はさびしかった。お父さんに着いて外国にいっちゃうだなんて」
「だって、私のお父さんが、きみのお父さんに、研究のためと言ってお呼ばれしたんだもの。期間も一ヶ月って定まっていたし、私も着いていって、勉強したいなあと思ったの」
「楽しめたかい?」
「うん」
「それはよかった」

僕は彼女との再会で、彼女の肩をがしりと掴みかかりたくなるくらい嬉しかった。でも息苦しさで頭がもうろうとし始めたので、とりあえず急いでマスクを脱いで、丸腰の彼女にすぽりとマスクをつけてやった。彼女は嫌そうに首を振り、ぼくのかぶせたマスクを脱ぎとった。

「ねえ知ってた? トーポリの木よりもこっちの木の方がよっぽど長生きしてるのよ」
彼女はマスクをその低木の枝に引っ掛けながら、大人びた表情で話し始めた。
「この木はね、ヨールカっていうの」
「それは、この木につけた名前? それともこの木の種類の名前?」
「わからないし、どっちでもいいよ。でもね、不思議なものだよね、こんなにちっさな木が、あんなにおっきなトーポリの木よりも長い時をここで過ごしてきたんだもの。」
「へえ、そりゃすごいや。どのくらい生きてるの?」
「きみのお父さんが言ってたよ、一万年近く生きているって」

彼女はまっすぐと僕を見た。僕はもう今日はだいぶポプラの綿を吸い込んでしまっていたことが気がかりだった。それからおじいさんのことがひっかかっていた。彼女はそんなこと気にも止めず話を続けた。彼女は、もともと知的で冷静な女の子だったのだけど、ひさしぶりに会って、その冷徹さが助長されたようにも見えた。小雨が降り始めていた。ぼくの足元で死んだ小枝がぱきりと鳴った。

「というのもね、根が一万年生きているんだって。この表層の、幹とか枝とかはね、何度も何度も生まれ変わっているんだって」

「そうなんだ。じゃあさ、きみも知っているのかな。トーポリの木が実は全然古くないものなんだって」

「うん。町のおじいさんたちはいろいろ言うけれど。あのトーポリの木はね、害よ、根からたくさんの栄養を吸って、町に日の光が届くのを遮っているから。この町の他のポプラの木は、どれも細くて低いでしょう? ねえ、知ってた? トーポリの木がこんなに大きくなる前は、この町はとても豊かな農村だったのよ。それが、あの木のせいで、何もかも枯れ果ててしまった」

綿毛がしんしんと降っていた。小雨がそれに便乗してぼくらの身体を汚していった。ぼくは丘のふもとに生えるトーポリの木を見やった。ぼくらの町の中心で、ぼくらの心の支えとなっていた大きな木は、これからその意外なる歴史をあばかれ、あわよくば悪役にもなり得るであろうその大木は、あいも変わらずその堂々とした胴体を貫いていた。

「あのさ」ぼくは彼女の肩を掴んだ。

「僕はきみが好きだよ」
「……うん」

「大きくなったら結婚しよう、そして僕らは子供もつくろう。」
「うん」

「そしてあの木を切ろう、あの大きなトーポリの木を切ろう」
「……うん。」

ぼくも彼女も、だいぶポプラの綿毛を吸い込んでいた。空気は湿気を帯びているのに、喉はひどくからからしていた。ぼくらはあのトーポリの木を殺そう。そう言いながら、愚かなぼくらは手をつないで丘を離れ、おじいさんのいる家へと帰っていった。

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