雨が降りそうだった。夏の終わりだというに、空は濃灰色の禍々しい雨雲にすっぽりと支配されていて、空気は湿っており、重たかった。9月の日本海側にはよくある天候である。

  僕は東京の大学に通うため都内で一人暮らしをしていたが、この度知りたいことがあって地元の新潟へと一時的に帰ってきたところであった。金もないので金券ショップで買ったバラ売りの青春18きっぷで夜行列車のムーンライトえちごに滑り込み、約五時間、駅で待合二時間、始発の鈍行に乗って揺られること一時間。ようやく家から最寄りの駅に辿り着いたところであった。

 僕は列車から降りて潮風を浴び、ぶるりとひとつ身震いをした。それから誰もいないホームを歩き、改札を通った。くたびれた小さな駅舎だった。駅員は休憩中でいなかったので切符は備え付けの箱にくしゃくしゃにして突っ込んだ。
それからやけくそのように故郷の砂利を踏んだ。

 僕には自分の名前が無かった。より正確に言えば、元はあったが、ある日より突然名前だけが僕の世界からすっぽりと抜け落ちた。僕の中だけの記憶喪失じゃあない。ただ僕の名前というものが、僕の記憶からも僕の周りの人の記憶からも全て失われたのだった。誰も僕の名前を呼べなかった。免許証や住民票を見ても、その他あらゆる資料を見ても、僕の名前だけが空白になって見えなくなっていた。可笑しな話だが本当のことである。
だから僕はふるさとへ戻れば何か思い出すきっかけになるものがあるかもしれないと思い、ここに帰ってきた次第だった。
 
 駅の外には一人の男が自転車を携えてこちらを見ていた。兄だった。それ以外には、駐車場に一つの車もなく、その奥の道路にも、生き物何一つ居なかった。道路の奥には海が広がっていて、波が少し荒れていた。兄はそれらの背景に同調するように、静かにこちらに手を振っていた。僕はポケットに手を突っこんだまま、兄に小走りで近づいていった。

「久しぶり、おかえり」兄は穏やかな笑顔で言った。
「迎えなんて別にいいのに」
「ちょうど早く目覚めたんだよ。あと久しぶりじゃん、お前、ここ出て大学行ってからずっと、正月も帰ってこないんだもん」
「すいません」
「なんで敬語なんだよ。」
「すいません」
「まあ雨降りそうだし行くか」
「あ、あそこに寄ってくから先行ってて」
「あ、いいね。俺も途中まで一緒に行く」

兄は明るい声で話しながら、僕の持っていたかばんを奪い取って自転車のかごに放り込み、自転車をからからと引いて歩き始めた。彼は僕と十も歳が離れていて、ゆえに少し距離を感じるものが昔からあった。顔はよく似ていた。中身は兄のが数倍おとなしくて、落ち着いていて、勉強ができた。実家の近くの町役場で公務員をやっていて、一昨年の夏に長年付き合った彼女と結婚した。

 兄と僕は並んで海岸へと向かった。僕は道路を横切って、ガードレールとコンクリート壁を乗り越え砂浜に降りた。兄は自転車を引きながらそのまま道路を歩いていたが、しばらくすると自転車を路肩に止め、のそりとコンクリート壁をつたい、砂浜に降りた。そして海へ向かう僕を呼び止め、後ろからついて来た。海が少し荒れていた。汚い淀んだ色をしていた。一つ、ごみのボトルが漂着するのが見えた。

「スーツ汚れるんじゃないの。やめといたら」
「大丈夫大丈夫」

 僕は正直一人になりたかったのでこんな兄をうっとおしく思ったが、言っても聞かなさそうなので放ってついてこさせることにした。僕らが真っ直ぐに歩み寄ったのは、砂浜と海の境目からどんと伸びる、コンクリートの防波堤だった。それはそれはなかなかの存在感を放つ、長くて大きな防波堤であった。まるでここを境に海が区切れてでもいるかのように思えるもので、そのぐらい真っ直ぐ、野太く水平線に向けて伸びているのであった。
 その横には、座礁したまま廃棄された小さな漁船の残骸があった。この舟はちょうど逆さまにひっくり返ってテトラポッドに立て掛けた形になっていて、下に潜り込めばまるで屋根のように雨風をしのげる空間になっていた。ここは、僕と兄と、そして祖父との秘密基地だった。

「いや懐かしいな」兄が聞いてもいないのに呟いた。「俺もここに来たのは高坊のころ以来かなあ、じいちゃんの死ぬ前」

僕は兄をよそに、一人で身を屈めてテトラポッドと舟の隙間に潜り込み、体育座りをした。兄は中に入ろうとはせず、舟の横にしゃがんで中を覗いただけだった。壊れたビーチチェアがそのまま置いてあった。他にも釣り道具や浜辺で拾い集めたゴミ小物のなんやかんやが、もう使えないぐらいに錆びついて、ごろごろと転がっていた。

「兄ちゃん」
「なんだ」
「赤ちゃんの名前とか決めたの」
「なんだ、知ってたのか。お前にはまだ言ってなかったと思ってたけど」
「いや、勘。そろそろかなあと。まじなんだ。」
「名前はーーまだだよ。男か女かもまだ分かんないからね。こんなのがいいな、っていう漠然とした希望ならあるけど」
「例えば」
「例えば。そうだな。姓名判断なんかも使って考えたいんだけど、嫁はとりあえず男の子なら四文字がいい、とか言ってたな。思いっきり日本っぽい名前。女の子ならひらがなの名前がいいとか」
「ふうん」
「何にせよ、大事に決める予定なんだ。一生付き合っていくものでしょ、名前って。その人を、こう、形づくる一番大切な部分でもあると思うし」
「そうかな。俺はそうは思わない。人から言われないと、自分がいまどのようなものなのか、わからないんだもの」

僕がそう小声で呟くと、兄はよく分からないといった風に顔少ししかめた。
海が荒れていた。汚い淀んだ色をしていた。また一つ外国語のごみボトルが漂着するのが見えた。

自分という存在は、はたして本当に無色透明なものでしかない。これは僕が最近ようやく気づいたことなのだが、僕は僕の匂いを感じることはできないし、自分の顔もよく分からない。えいえんに他人にはなり得ないし、固くもなければ、柔らかくもなく、何ものでもない中性的な、それでいて無性的な、熱くもなく冷たくもなく、ひたすらに無味無臭、ぬるま湯のごとく低刺激の、水のごとく感触のない、実に無害なものなのだ。それに比べて他人というものは、僕とは大きく一線を画したいきものである。触れば熱いか冷たいし、たまに変な匂いがするし、固くて、柔らかくて、ぼくの意思とは反対に動いて、僕に出来ないことを容易くやってのけやがる。そしてたまにすぐに死ぬ。彼らは僕にもまた他人であることを要求してくる。僕に色を求めてくる。僕に服を着せてくる。マネキンのぼくに服を着せてくる。僕は服を着る。言われるがままに服を着る。彼らは服を誉めてくれる。たまに服を着替えると、変わったね、とか抜かしやがる。奴らにとって僕の本体は服なのだ。名前なんて関係がない。僕はからっぽだ。

「兄ちゃん」
「なんだよ」
「俺の名前わかる?」
「当たり前だろ、なんだよそれ」
「俺がどんなやつなのか、わかる?」
「そんなもん自分で考えろよ」
兄はそう吐き捨てるように言った。そしてすくりと立ち上がり、
「じゃあ俺仕事行かなきゃだ。また夕飯の時にな」
と穏やかな声で言って、スーツについた砂を2、3回払ったあと、砂浜をさらさらと走っていった。

 兄が去った後、僕は壊れた舟の下の隙間で、体育座りの膝小僧に顔をうずめた。舟の下は薄暗くて、磯臭かった。小さな空間は沢山の釣り道具とガラクタで埋まっている。僕はボロボロのビーチチェアに腰掛け、そのまま目を閉じた。

 夢を見た。海辺を兄と歩いている。天候は曇り。暗い雨雲が空を覆っていて、海の色は淀んでいる。二人は無言だった。僕らは防波堤の上に乗り、再び海に沿って歩き始めた。すると足元のコンクリートがぐにゃぐにゃとやわらかくしなって、兄はいつのまにか父になった。父が口を開いて――僕の名を呼んだ。だけど波の音でかき消されて聞こえなかった。気づいたら父は祖父に変わった。祖父は僕に笑いかけると、最後に小さな子供に変わった。

「お前誰?」僕は尋ねた。子供は何も答えずにじろりと僕を睨みつけていた。
「きみの、なまえは、なあに?」僕はやさしく言った。
「おしえてよ」子供が言った。
「ごめんな、君の名前はわかんないや」
「わかんないの?」
「うん。でも名前なんて要らないだろ?」
「じゃあ、つけてよ」
子供はそう言うと、目を閉じた。僕もまた、目を閉じた。波の音が聞こえた。雨が屋根を打ちつける音も聞こえた。海辺を兄と歩いている。天候は雨。暗い雨雲が空を覆っていて、海の色は淀んでいる。二人は無言だった。すると足元がぐにゃぐにゃとやわらかくしなって、兄はいつのまにか兄の嫁になった。彼女は僕に微笑んだ。それからーー

思い出した! 僕は飛び起きて、プレハブを出て砂浜を駆けた。雨が降っていたが、僕は構わず家に向かって走り出した。波が荒れ始めていた。また一つ外国語のごみボトルが漂着するのが見えた。
  
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