−この雨に傘はいらない−



雨が降っていた。
限りなく細く、こまやかな雨が。
しっとりと地を濡らすものの、水溜まりはできない。
ただ、空気をひんやりと冷やすだけの霧雨だ。

「なあ、千鶴」

ふと、前を行く夫に呼び掛けられる。

夫…

その響きに頬を染めてしまうような時期は、すでに過ぎた。
しかし、夫を思う時はいつも、微かに痛みを伴う。
今だって。

「何でしょう」

彼は振り返ることはない。
けれど、少しだけ歩く速度を緩めた。

「雨ってえのは、なんたってこんなに冷てえのかね」
「急にどうしたの」
「いや、なんとなくな…」

背の高い彼の背が、僅かに震える。
千鶴は黒い羽織を着た背中を、じっと見つめた。

あの人もよく、こんなような羽織を着ていたっけ。

「寒いなら、傘を持ってこればよかったわね」
「いや、必要ねえよ。かえって傘は邪魔になる」

そこで初めて、彼はちょこりと振り返った。
口元には小さな微笑。

「そういやあおめえ、利吉から聞いたぜ」
「何をです」
「あの時の傘、とってあるんだってな」

「あの時」がいつを指すのか即座に分かったし、すでに夫婦となった男の言うことに赤面することなどないと思っていた。
それでもなお顔が熱くなってしまうのは、どういうわけか。

「…捨てました」
「はあ?」
「あの傘は、もう捨てました」

きっぱりと言ってやる。
すると、彼の足がつと止まった。

「なんで捨てたんでえ」

その口調は、いささか不満そうである。
千鶴はそっぽを向き、「必要ないでしょう」と言ってやった。

「必要ないって、おめえなあ…おめえには思い出を大切にしようってえ人情はないのかね」
「あるわよ。人並みには」
「じゃあなんで」
「もういらないじゃない」

ものすごい雨の中、彼は傘を差し出してくれた。
久しぶりの再会であったけれど、どうしようもできなかったあの頃。
雨の簾(すだれ)の向こうに消えていく彼の背を、ただ見送るしかなかった。
それでも、彼の傘は千鶴の側で異様な存在感を示してくれていたのだ。

あの傘がなかったら、今のわたしたちはない。
分かっているけれど、もう必要ない。

「なぜ」

再び、彼はそう尋ねた。
その瞳は丸いけれど、ちらちらと鋭さが見え隠れしている。
今度は千鶴が微笑んだ。

「あの時みたいな雨は、降ってないでしょう」

桶を引っくり返したような豪雨ではないのだ。
あの時のための傘は、もう必要ないのである。

「…そうだな」

千鶴の言葉に、ははっと彼は目尻に皺を寄せた。
どこか緊迫していた空気が、ふるりと崩れる。
そして、彼は額に落ちる雨粒を手の甲で拭った。

「もういらねえな」
「ええ」
「じゃあ、行こうか」
「ええ」

再び、二人は歩き始めた。
夫は前を歩き、妻は後ろを歩く。
その距離感は、立ち止まる前と変わらない。

−−ああ。

千鶴は、僅かに左肩が下がっている夫の後ろ姿を見つめた。

わたしたちは、幸せだと言っていいのかもしれない。

こんなに穏やかで、こんなに心が凪いでいる。
これを幸せと言わず、何と言うのだろう。

千鶴の頬を、雨が濡らす。

けれど、彼女は拭わなかった。
なぜなら、拭ってはいけないからだ。

−−わたしたちは、一生背負っていかなければならない。
幸せを、甘んじて受け止めてはならないのだ。

そう、傘を差すことは許されない。
けれど、傘を差す必要もない。
この雨に、傘はいらないのだ。

受け止めよう。

千鶴は空を見上げる。
さらさらと細かな粒が、彼女の顔全体を濡らす。

大丈夫、わたしたちは背負える。

以前は夫だった男の顔がちらりと頭に浮かぶが、その幻影を振り払うようなことはしなかった。

ただ目を閉じて、その姿を大事に奥へしまいこむ。
そして、彼女は今愛すべき人の背に目を戻した。

「ねえ、新しい傘を買いましょうよ」


【終】


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