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プロローグ


心が震えるほど甘くて切ない夢を何度も見る。
まるでショパンかシューマンのピアノの旋律のような……

見る場面は断片的で少しずつちがうけれど、たぶん同じ夢。
目覚めた脳裏には色や匂い、それにぬくもりまで残っている。

「へぇ……温度まで?さすが芸術家の見る夢は違うなあ」

DEUから帰国して一年。
吹雪が開いた小さな音楽学校で声楽の指導と総務全般を任う緑川は、吹雪の夢に感心しきりだ。

「芸術……?」

夢の中……あの鍵盤の上を滑る褐色の長い指。
それが心と身体の熱を優しく、狂おしく掻き立てるあの感覚は――たしかに音楽に似ていた。


「そういや校長、出張されてる間にピアノが全部届いたんですよ」
「……全部?」

ピアノ購入に捻出した予算は一台分のはずだった。
何のことだかわからず目をぱちくりさせている吹雪に、緑川は得意気に微笑む。

「ええ。結局三台も揃ったんです」
「三台?」

信じられない様子で目を輝かせる吹雪を、緑川が教室へと案内する。
三台もあれば、各学年で一台ずつ使える……。

「上の階と……ここにあるのは同じもので、店の人が新品同様の中古を安値で売ってくれたんで、二台買えたんです」

戦争の痛手をうけたこの国を、音楽で一日も早く元気にしてくれるなら……と快く譲ってくれたのだという。
物不足で品薄の……あの楽器屋の店主の顔を思い浮かべながら、吹雪は綺麗に磨かれたアップライトのピアノの鍵盤に触れた。
託された“希望”を、その指先でそっと受けとるかのように。


「でも、どういうこと?」

こんな良品を二台も買えば、当然お釣りなんてないはずだ。

「もう一台は寄贈品なんですが……」

普通の教室には収まらないので―――と連れていかれた音楽室を陣取る立派なグランドピアノを見た途端、吹雪は目を見開き「あっ!」と声をあげた。

「これ……豪炎寺先生の……」
吹雪は顔色を変えてピアノに駆け寄りそっと蓋を開ける。

「ええ、やっぱり分かりましたか。午前に業者が運んできたんです。この手紙と一緒に……」

「見せて」
吹雪は緑川に振り返り、受け取った手紙に目を通す。
そして固い表情で唇を結んだまま、それを背広の胸ポケットにしまった。

「ちょっと……出かけてくるね」

「えっ、はい……お気をつけて」

吹雪は居ても立ってもいられない様子で音楽室から姿を消す。
緑川はその背中を哀愁を帯びた眼差しで見守る―――。


「吹雪くんか。調子はどうかね?」

「はい。おかげさまで僕は……大丈夫です」

吹雪が訪ねたのは、自分が子供のころからお世話になっている豪炎寺勝也医師の病院だった。

診療の手が空くのを待って吹雪が診察室を覗くと、まだそこにいた勝也医師が表情を変えずに机から顔を上げた。

「あの、ピアノのこと……ありがとうございます」

「ああ。届いたのなら良かった」

「でも……」
頷いて机に視線を戻す勝也医師を呼び止めるように、吹雪は身を乗り出す。
「お気持ちは嬉しいですが、あれを頂くわけにはいきません」

厳格な見た目だが、この主治医は吹雪にとって数少ない心許せる部類の人間だった。
「奥様の……形見ですよね?」
思い切って本音で訊ねると、真っ直ぐに答えが返ってくる。

「いや、あれは妻が息子に譲ったものだ。今は弾き手がいないので持ち腐れになってしまうから、君に預かって貰った方がいい」

息子さんのものだとしても、大切なものに違いないのに。
困惑の色を隠せない吹雪の表情を意に介さず、勝也医師は付け足す。

「詳細は手紙に書いたとおりだ。修也が生きて帰って来たなら直接相談するといい」

「…………」
ドキンと吹雪の胸が高鳴った。

「君のところに置いておくことに不都合でもあれば別だが……」

「……いえっ、僕の方は……すごく助かります」

西欧製のグランドピアノを生徒たちに触れさせる機会があるなんて、願ってもない教育環境なのは間違いない―――

「なら決まりだな」

「……ありがとうございます」

改めて深々と頭を下げる吹雪は、どこか夢見心地な顔をしていた。
“あの名前”を聞いたせいだ―――。

「礼はいい。私も修也から頼まれたことをしているだけだから」

ああ、またズキンと胸が疼く。
その名を聞くと琴線がつまびかれるのだ。

豪炎寺修也。

DEUに今も住んでいるらしき先生のご子息。
吹雪が西欧の音楽を求めて渡った時、世話をしてくれた男でもあった。
この不穏な時世下のDEUでファシズムの残党から吹雪を守り、望みを叶えた上で無事帰国させてくれた恩人。

だが、訳あって今の吹雪の中には豪炎寺修也に関わる記憶はすべて消えていたのだ。


 
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