阿鼻地獄主任


「あれ、今日も誰か来るんですか?」

先日衆合地獄の主任が閻魔殿にやって来た際、大勢の獄卒が集まっていたように、今日もなにやら騒がしい。茄子は事情を知っているだろう鬼灯に尋ねた。

「阿鼻地獄の主任が来るんです」
「へえー!こんなに集まるってことは衆合の主任さんみたいに着飾って来るとか?」
「いいえ、至って普通ですが、衆合同様滅多にこちらに来ないので、一目見たいのでしょう。噂もありますし」
「噂?」

首を傾げた茄子と唐瓜の耳に、集まっていた獄卒の話声が入ってきた。

「3メートルの巨体なんだろ?」
「え?普通のゴツい鬼だろ?顔がめっちゃ恐いって聞いたけど」
「いやいや、阿鼻の主任は女性だろ?」
「え……ゴリラみたいな女ってこと?」
「めっちゃかわいい女の子なんじゃなかったか?」

容姿の全く一致していない阿鼻地獄の主任は、さぞかし気になる存在だろう。
阿鼻地獄といえば最も過酷な小地獄であり、そこで働く獄卒も古株が多く、屈強な鬼である。そんな阿鼻地獄をまとめる主任となれば、想像される容姿もそれ相応となるが、正しい情報と想像が混ざり合い、阿鼻の主任を知らない鬼たちは混乱しているのだった。
今日はなかなか表へ出ない主任がやって来ると、衆合のときと同様、獄卒たちは集まっているのだ。

「結局どんな鬼なの?」
「まあ、見ればわかりますよ」

人混みの中を颯爽と歩いてやって来る姿を見ながら鬼灯は説明するより見た方が早いと視線を促す。やって来たのは身長3メートルの巨体の鬼と、普通の女鬼だった。
迫力のある姿に、阿鼻主任を見に来た獄卒たちから感嘆の声が聞こえる。厳つい顔は泣く子も黙る、まさに鬼の中の鬼。阿鼻地獄をまとめるに相応しい、ある意味予想通りの容姿に、唐瓜と茄子も「おお〜」と思わず声をあげた。

「阿鼻地獄から遥々お疲れ様です」
「お疲れ様です、鬼灯様。しかし、この人だかりは何なんだ?」
「阿鼻主任を見に野次馬共が集まっているだけです。気にしないでください」
「はあ、なるほど。だってよ姐さん、人気者だな」

ガハハと豪快に笑う巨体の鬼は、隣の女鬼をからかうように彼女の背中を叩く。全身を掴めそうなほどの大きな手で背中を叩かれ、普通ならば飛ばされるところ、彼女はなんともなさそうに、迷惑そうな顔で見上げ呆れるだけだった。そして野次馬には目もくれずに鬼灯へ書類を手渡した。

「閻魔殿は遠いから、今度は鬼灯様が取りに来てよ。これ、大きいから目立つのよね。いらないって言ってるのについてくるし」
「いいではないですか。阿鼻の猛者って感じで威圧感あっていいですよ。まあ、実際の猛者は名前さん、あなたなんですけどね」

鬼灯の何気ない会話に周りにいた獄卒は首を傾げる。鬼灯は「やっぱりか」と内心思いながら獄卒に向けて声をあげた。

「阿鼻地獄の主任は彼女、名前さんです」
「え、こっちの大きい人じゃないの!?」
「彼は主任補佐です。間違わないように」

どよめくのは無理もない。二人が並べば誰もが彼を主任と思うだろう。阿鼻の猛者と云うには彼女の背丈や風貌は一般人すぎるのだ。

「この人、強いの?」
「ええ。阿鼻の男共を蹴散らして頭になった実力者です」
「そうそう、俺なんか姐さんに手も足もでなくてよ。姐さんは強いぜ!」

再びぽん、と背中を叩く。名前はため息を吐きながらその手を追い払った。

「その言い方は語弊がある。鬼灯様に騙されてなったようなものじゃない。けしかけたのは鬼灯様なんだから」
「いやだって、あれは衆合でくすぶらせておくには勿体ない」

元々衆合地獄で働いていた名前を阿鼻地獄の主任に推薦したのは鬼灯だ。
まだまだ男社会だった当時、特に阿鼻地獄は実力主義で、女性の名前は歓迎されなかった。それなら実力を示せば良いと、鬼灯は当時の主任と名前を戦わせたのだった。

「俺はあの決闘を見て、姐さんについていくと決めたんだ」

戦ってる姿はまさに歴戦の獄卒。なんといっても立ち振舞いが美しかった。

「あの件で姐さんに惚れた奴も多かった。なあ?」

バシバシと背中を叩かれるのは何度目か。名前は主任補佐を睨み上げるも、本人は気づいていない。

「でも「自分より弱い男は論外」って、何人もの男をちぎっては投げ……」

いつまでも調子よく話し続ける補佐に名前はうんざりしていた。面白がって聞いている野次馬共も気に入らない。鬼灯まで黙って聞いているのを呆れながら、そろそろ鬱陶しくなってきた背中を叩く手を掴んだ。

「いい加減、口を閉じなさい」
「え?ああ、すまねえ。でも、姐さん滅多にこっちまで来ないから、知らない奴に姐さんのこと自慢できるいい機会だと思って……」

懲りずに笑う補佐を見て名前は小さく舌打ちをこぼした。そして、次の瞬間3メートルもある体を背負い投げするように軽々と投げ飛ばした。

「黙れって言ってるのよ」

床には穴が空き、周辺にはクモの巣のようなひび割れが広がった。しんと静まり返った空間で、誰もが目の前の光景に戦いた。
誰も言葉を発しない中、鬼灯は緊張感のない声で呟く。

「床、弁償してくださいよ」
「え、そこ?」

思わず茄子が反応して、ようやく周りもざわざわとどよめきの声が広がっていく。今の光景を見れば、名前が実力者であることは一目瞭然。投げ飛ばされた補佐は、すみませんと小さく謝り頭を下げていた。

「私はこの辺散策してから帰るから、あなたは先に帰ること」
「へい、姐さん」
「じゃあ鬼灯様、確かに書類は渡したから」

名前はひらひらと手を振って部屋を出ていく。それを見送った獄卒たちは、一気に盛り上がりを見せていた。

「すげーな、阿鼻地獄の主任!」
「本当に強いんだな」
「だろ!!」

自慢できて嬉しいのか、主任補佐はガハハと大笑いする。また投げ飛ばされますよ、と鬼灯は釘を刺すと、皆に向かってパンパンと手を叩いた。

「皆さん、仕事に戻ってください」

キッと睨むと獄卒たちは蜘蛛の子を散らしたように仕事に戻っていく。主任が来る度にこうして騒がれては仕事にならないなと、呆れながらため息を吐いていると、阿鼻の主任補佐が帰るか、と呟いた。

「そうだ、鬼灯様。姐さん久しぶりに鬼灯様に会うの楽しみにしてたぜ」
「そう言っていたんですか?」
「いや、俺の勘だけどな。でも、姐さんに唯一勝てるのは鬼灯様だろ?姐さんはきっと鬼灯様のこと気に入っていると思って」
「そんなこと言っているから痛い目見るんですよ」

さ、帰った帰ったと鬼灯は書類を抱えて自分の仕事に戻る。つれないな、と頭を掻きながら主任補佐も帰路へとついた。


***


書類を抱えて執務室へ戻った鬼灯は、机に寄りかかりながら手持ち無沙汰にしている名前を見つけた。

「やっと戻ってきた」
「あなたの話で盛り上がってましたよ」
「だから直接来るの、嫌なのに」

一度そうなれば、噂は広がり次に足を運んだときにも同じ状態になる。それがここ数年続いて、野次馬も増えている。やけに主任を自慢したがる補佐もいて、正直面倒だとこぼす。
鬼灯は書類を振り分ける手を止めると、首を傾げた。

「いいではないですか。正直、あれほどまでに小地獄の主任を認識できていないとは思いませんでしたし。毎年新人研修の時に一通り紹介してるのですがね」
「ま、うちにはそれっぽい獄卒も多いし」
「ですから、再認識できていいと思いますよ」
「仕事にならないじゃない。しかも、どうでもいい話ばかりして」

当時の主任を捩じ伏せたことや、主任補佐による名前の自慢、おまけに決闘で惚れた獄卒もいたという話まで。名前は深くため息を吐いた。

「全部本当の話でしょう」
「誇張しすぎなのよ」
「そうですかね。私もあの決闘で惚れた一人ですから、間違ってはいないと思いますよ」
「は……え?」

初めて聞く話に名前は動揺を見せる。昔に一度だけ鬼灯と手合わせをしたことがあり、そこで負けてから名前は鬼灯に想いを寄せるようになった。それが始まりだと思っていた。しかし、鬼灯の言い分は違うようだ。

「私が先に名前さんに惚れたのですよ。言ってませんでしたか」
「聞いてない……じゃあ、あのとき私と手合わせしたいと言ったのは……」
「他の輩同様、あなたに気に入られるためですよ」

当時は敵なしだと調子に乗っていたこともあった。だから、思い上がらぬように、力で捩じ伏せられたのだと思っていた。さすが第一補佐官の鬼神だと負けを認め、自分より強い男に興味を持った。それが単なる色恋を理由に倒されたのだと知ると、なんともいえぬ気持ちになるのだ。

「なんだか、ますますプライドが傷つけられた気がする」
「昔のことでしょう」
「そうだけど、はあ……鬼灯様、久々に手合わせ願えないかな」
「忙しいので無理です。というか、相当目立ちますよ。第一補佐官と阿鼻地獄主任の決闘」

そう言われて想像してみる。祟り神とも云われる鬼神と、阿鼻地獄の猛者の決闘は鬼なら誰もが興味を惹かれるカードだ。自分がヒラ獄卒だったとしても絶対に見たいと思うだろう。かなりの面倒事になるとわかって名前は口を閉じる。しかし、軽くあしらわれているようで納得はいかない。

「それなら、こっそりやれば……阿鼻の人目のつかないところで」
「あなたに勝ち目はないですよ」
「やってみなきゃわからないでしょ?」

見つめ合うとは違う、鋭い瞳が鬼灯を睨む。この好戦的な瞳が好きだとは言ったことはないが、言えばまた馬鹿にしてると文句を言われるのだろう。睨み返しても全く怯まない名前に鬼灯は圧をかけるように顔を近づけた。

「無理ですよ」

耳元で低い声が断言する。言い返そうとする名前の口を塞ぐように、鬼灯は彼女に短く口付けた。かあっと顔に熱が集まるのを感じて、名前は飛び退いた。

「ほら、こんなことで動揺しているようでは」
「な、今はこういうことするようなあれじゃ」
「阿鼻の猛者が聞いて呆れますね。隙がありすぎです」

この話はおしまいですと言うように鬼灯は腰を下ろして机に向かう。涼しい顔で書類を読んでいるのを名前はふてくされたような顔で見つめた。

「恋人の前で隙ができるのは当たり前でしょう」

ぼそっと呟いた声を鬼灯はかろうじて聞き取った。強気な彼女が珍しい、と言ったら怒られそうなので言わないが、つい視線を向けてしまった。その様子で聞かれたのだと察して、名前はふいとそっぽを向いた。

「何でもない。そろそろ帰ろうかな。忙しそうだし」
「もう少しいたらどうです」
「忙しいんでしょう?」

目線は書類のまま何を言ってるのかと名前は踵を返す。まっすぐ帰ればよかったとドアに手をかけたところで、鬼灯が声を上げた。

「恋人と少しでも長くいたいと思うのは当たり前でしょう」
「……嫌みな奴」

はあ、と一息吐いて名前は鬼灯の方へ戻ってくる。仕方ないなと机に寄りかかって山のような書類を恨めしそうに眺めた。

「ねえ、今度の休み付き合ってよ」
「手合わせはしませんよ」
「いいストレス発散になるよ。それとも、負けるのが怖い?」
「挑発にも乗りませんよ」

面白くないなと唇を尖らせながら、名前は首を横に振った。

「手合わせじゃなくて、普通の」

言い淀む様子に鬼灯は書類から視線を名前に移す。その先を言うのが恥ずかしいのか、何度か目線をあちこち動かしたあと、鬼灯を睨んだ。

「とにかく、そういうことだから。時間、取れそう?」
「ええ。デートしましょう」
「……別に急がなくていいから、空いたときで」

書類の山を視界に入れつつそう呟くと、名前は机から体を離した。

「鬼灯様が手合わせしてくれないから、亡者叩きに帰る」

じゃあね、と今度こそ名前は部屋を出ていく。顔色を隠しきれても耳が赤くなっていたことは黙っておこうと、鬼灯は口元が緩むのを抑えながら手帳を開く。早めに休みを入れるため業務調整を行うのだった。
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