面倒くさがりのあなたへ
定時を数時間過ぎた部屋はしんと静まり返り、節電の取り組みだといって誰もいない部屋半分の電気は落とされ暗くなっている。キーボードやマウスのクリック音がやけに大きく響くその部屋で、名前はコピー機から出した資料を持って椅子を転がせた。
「加々知くん、これ」
ごろごろと音を立ててやって来た名前から資料を受け取った加々知は簡単に中身を覗くと名前に突き返した。
「これ、前回の内容と一緒じゃないですか」
「いいじゃない。一から作るのは時間がかかるし。変更点だけ見直しておいたから、それでいいでしょう」
ね?と資料を押し付けた名前はまた椅子を転がしてデスクへと戻っていく。加々知は眉間に皺を寄せながら資料を眺め、そんな様子を名前は面白そうに観察していた。
「研修内容は効率よく、かつわかりやすくを重視して、あなたが任されたんでしょう。同じものではその意味がない」
「研修は効率よくなるかもしれないけど、私の仕事効率が悪くなるじゃない。何が業務改善よ、こっちのが無駄だわ」
おかげでこんな時間だと時計を見てうなだれると、名前は文句を言い始める。他にもっとやるべきことがあるじゃないかと言い始めれば長いため、加々知は適当に返事すると資料を机の上に投げ出した。
「要するに面倒なんですね」
「さすが加々知くん。最もな理由つけてみてもさすが気がつく」
「あなたはいつもそうです。肝心な時にしか力を発揮しない」
「省エネなのよ、エコよエコ。流行りでしょう?」
そう言って笑うと、名前は画面の中のファイルを閉じていく。カチカチとマウスが数回鳴って、画面は真っ黒に落ちた。
「いつまでもパソコン付けてたら地球に優しくないし帰りましょう。加々知君もほら」
「私はもう少し」
「真面目よね。だからたくさん仕事押し付けられるのよ。もう少しできないアピールした方がいいよ」
加々知の隣の椅子に座ると作業画面を覗き込む。面倒そうだと呟くと、勝手にキーボードを手繰り寄せた。触ってもいいかと確認をとると、加々知が作っていたコードに何行か付け加えた。
「こんなのはどう?」
「……あなたが真面目にやれば私の残業が減る気がします」
「やだなあ、楽してるだけで真面目ではあるのよ」
ちょうど迷っていたところに良い案を入れてくれた名前に鬼灯はしみじみ思う。この面倒くさがりは案外できる奴なのだ。
加々知はパソコンに向かうと続きの処理を打ち込んでいき、キリのいいところまで終えると手を止めた。隣で座った椅子をくるくると回していた名前は手の止まった音に気がついて振り向く。
「帰る?」
「帰りたいなら帰りなさい」
「ほら、エレベーターも人を運ぶのは一回がいいじゃない」
「エレベーターの心配なんてしなくていいです」
むう、と膨れた名前は椅子を一回転させて戻ってくると、画面に向かう横顔を見つめた。
「ねえ、もう面倒くさくなっちゃった」
「何がです」
「少しずつ加々知くんと仲良くなる作戦。私駆け引きとか向いてないと思うの。だからさ」
振り向く加々知に名前は笑顔を向ける。残業続きの疲れた心がほぐれるようなその笑顔に加々知も思わず彼女を見つめ返す。名前はいつもの調子で呟いた。
「好き」
たった二文字の短い言葉は、面倒くさがりの名前らしい言葉だった。的確に気持ちを伝えるその言葉が、名前の仕事ぶりと重なった。
「驚いた?」
「いいえ。なんとなく知っていました」
「やっぱり、そんな気はしてた。加々知くんエラーチェック得意だもんね。細かーいことにすぐ気がつく」
「それとこれとは別に関係ないでしょう」
ふふ、と笑い声をこぼす名前は口元を緩めながらまた椅子を回す。よく見てみればほんのりと頬を染めていて、案外照れているのだと思うと面白くて、加々知は椅子ごと名前を手繰り寄せた。勢いよく引き寄せられた名前は加々知と近距離で顔を合わせる。
「私はあなたばかり見ているから気がついたんですよ」
「そうやってまた、私が手を抜いているのを見抜くのね」
「違いますよ。私もあなたのことが好きですから」
名前の瞳が少しだけ揺れ感情が読み取れる。加々知はそっと触れるだけの口づけを落とすと名前を見つめた。数十秒見つめ合って、何も言わない名前から視線を外すと、パソコンの電源を落とした。もう仕事をやる集中力など残ってはいない。
「驚きましたか?」
「……なんとなく知ってた」
「そんな気はしてましたよ。仕事中よく目が合いますから」
握った手を弄びながら名前は椅子から立ち上がる。にこりと微笑むと、加々知の手を引いた。
「帰ろう」
楽しそうに歩き出す名前に引かれ部屋を出ると、誰もいない廊下に二つの靴音が寄り添うに鳴り響いた。