ビターチョコレート


「鬼灯様は甘いもの得意ですか?」
「甘ったるすぎると苦手ですが、基本得意ですよ」

ふむ、頷く名前に鬼灯は首を傾げ質問の理由を考えた。この時期にこの話題とくれば思い当たることは一つ。
昨日もテレビでアイドルがバレンタインソングを歌っていたなと思い出しながら名前の表情を窺う。

「何の調査かと思えばバレンタインですか?」
「はい」
「あなたがくれるなんて初めてですね」

いつもならチョコレートをたくさんもらう鬼灯をからかい、毒見と言ってつまんでいく。職場では基本禁止というのを守っているのか、名前は一度も鬼灯にチョコレートを渡したことがなかった。
そんな名前からの意味ありげな質問に鬼灯は内心そわそわとしていた。彼女のほうに興味はなくとも鬼灯にとっては少しばかり期待してしまうイベントなのだ。他の女性なら寄ってくるというのに、名前はなかなか興味を示さない。ただの上司と部下の関係が随分と続いていて、それにも少々物足りなくなっていた。義理でもバレンタインにチョコレートを渡すだけで進歩。少しは自分に興味を持ってくれたのかと感じてしまう。
だが、名前はきょとんとした表情で小首を傾げるのだ。

「私は誰にもあげる予定はないですよ?今のはちょと頼まれて」
「頼まれて?」
「はい。鬼灯様が甘いもの大丈夫かと。あ、外で待ってるので伝えてきますね」

そう言って執務室を出て行ってしまう。鬼灯はその様子をじっと見つめると小さく息を吐いた。

「……だと思いましたよ」

戻ってきた名前は落ち込んでいる鬼灯なんて気にも留めずに、ワゴンの中身と机の書類を入れ替えていく。テキパキと確認済みの書類を仕舞うと、鬼灯の机には新たな書類が積み上がった。
甘い期待も彼女の前では打ち砕かれる。すっかり仕事に戻ってしまった名前に鬼灯は睨みを飛ばした。その鋭さに名前はぴたりと手を止めた。

「何でしょう……」

まだ確認できていない書類まで仕舞ってしまったかと名前はワゴンのほうを振り返る。鬼灯は違うと言うように彼女を引きとめた。
なんだか不機嫌な上司に名前は訳が分からず苦笑する。怒られるのだろうか、理由はなんだろうか、とぐるぐるしながらじっと鬼灯を見つめ返す。睨みにも怯まないまっすぐな視線に、鬼灯も思わずその瞳を見つめた。

「少しくらい期待させてくれてもいいと思うのですが」
「え、何のことですか?」
「まあ、それなら私から出るまでですが」

一体何の話をしているのか名前にはさっぱりで、まさか色恋のことなどとは思いもしない。
バレンタインの話も名前にとってはただの頼まれごと。「鬼灯様はまたたくさんもらうんだろうな」程度にしか考えていない。
鬼灯は名前の反応に脈のなさを感じながらもじっと彼女を見据えた。待てども来ないのならば行くしかない。

「私はあなたから欲しいんですよ」
「欲しいって何を……あ」

ようやく仕事のことではないと気が付いた名前はさっきまでの会話を思い出す。バレンタインのことを言っているのだと分かれば鬼灯の言いたいこともおのずと理解できる。
彼は自分に期待している?そんな考えが名前の頭を過った。

「チョコレート欲しいんですか?」
「はい」
「たくさんもらうのに私からも欲しいんですか?」
「あなたから欲しいんです。他のはいりませんよ」

その意味を理解して言葉に詰まる。名前の表情が戸惑いの色に変わった。
鬼灯はそんな様子を見てそっと視線を外す。彼女の表情を見れば「急にそんなことを言われても」と困惑している様子が見てとれた。
面と向かって想いを伝えればいいものを、チョコレートを要求することで遠回りに示した。それで振られるならはっきり言ってしまえばよかったかもしれない。鬼灯は心の中でため息を吐くと新しい書類を手に取った。

「すみません。迷惑だったなら忘れてください」

書面に視線を落としながら口早に言う。我ながらみっともないことをしていると考えていると、名前がそっと口を開いた。

「あの……渡してもいいんですか?職場では基本……」

それが暗黙の了解でこっそり行われていることも、誰も咎める人がいないことも知っている。鬼灯も黙認していることだ。それも欲しいと言っている彼が駄目だと言うはずがなかった。
それでも聞きたかった。先ほどの言葉が冗談ではないと確認したいのだ。
愚問だというまなざしに名前は無言で納得した。

「鬼灯様にそんなこと言われたら渡さないわけにはいきませんね」
「……チョコレートが欲しいと言っているわけではありませんよ」
「わかってますよ」

言葉の意味が伝わっているのかと疑いの視線を送る鬼灯に、名前はいつものように笑い声をあげた。

「鬼灯様はバレンタインなんて興味ないと思っていたのに」
「私だって人並みに期待しますよ。気になる相手がいれば、ですが」
「面と向かって言われると照れてしまいます」

にやにやと楽しそうに笑うのは恥ずかしさと嬉しさを我慢できないからだ。じっと見つめられて遠まわしに想っていることを伝えられれば好意が恋慕に変わってしまいそうになる。
名前は鬼灯のまなざしから逃れるように視線を外した。いつか遠いと感じた彼への想いが叶うのかもしれない。名前は再熱する想いを胸にその嬉しさを隠すように表情を引き締めた。

「では、私は視察に行ってきます。今日は衆合地獄でしたよね」
「視察?ああ、はい」

急に仕事モードに戻った名前は必要な書類を確認して準備を進める。少しだけ甘い空気だったのにも関わらず名前はその余韻にも浸らない。まだまだ一方通行だと突きつけられているようで鬼灯としては少々残念だ。
しかし準備を終えた名前は鬼灯に振り返ってにこりと笑った。

「衆合の鬼女はバレンタインに詳しいでしょうからね。いろいろレクチャーしてもらわなくちゃ。14日、楽しみに待っててくださいね」

そう言って部屋を出て行く名前を、鬼灯は不満げに見つめた。どうにも名前の言動は思い通りのものではない。不意打ちを喰らって一喜一憂するなど、我ながら女々しいと心の中でぼやくと机の上のカレンダーに視線を向ける。

「楽しみにしていますよ」

バレンタインデーまであと何日か数えながら、鬼灯も仕事に戻るのだった。
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