キャンディひとつと


昼の喧騒が静まり、日中に働く者たちが眠っている時間。ヒカリゴケが地面を照らす道を名前は重だるそうに下駄を鳴らして歩いていた。ふあ、と欠伸をこぼすのは何度目か、目尻に浮かぶ涙を拭っては、肩の金棒を担ぎなおした。
やがて見えてくる閻魔殿の門をくぐり抜けると、迷うことなくまっすぐに鬼灯の執務室へと向かった。
ノックをして返事を待つも声は聞こえず、集中しているのだとそっと扉を開けると、いつもの席に鬼灯の姿はない。金棒を持つ手と逆に握っていた巻物を見ながら、名前は大きくため息を吐いた。疲れもあるが、面倒ごとに巻き込まれたことに対しての不満も込められており、いつもより長めに息を吐き出した。

「電気がついているということは、まだいるはずだけど……」

手をつけてそのままの書類が机の上に広げられており、厠でも行ったのかとしばらく待っていることにする。普段鬼灯の座っている席に腰掛けて、暇つぶしに書類を覗き込む。定例会議の議題や今後の政策について書かれているその束を見て、頭が痛くなるとすぐに視線を外した。

「残業代だけじゃ足りないなあ」

机に両肘をつき、足をぶらぶらさせて鬼灯を待つ。今が何時かと机の上の時計を見ると再び欠伸がこみ上げて、目を瞑るとそのまま眠ってしまいそうだった。いけない、いけない、と頬を叩きなんとか目を覚まして数十分。鬼灯はなかなか戻ってこなかった。

「長いな……お腹壊したのかな」

厠に行っていると決め付けて、そんなことを呟く。手持ち無沙汰の名前は、先ほど視線を外した書類をもう一度目を通して、白紙になっている項目に筆を走らせた。勝手に書いては怒られるだろうかと思いつつも名前に恐れはない。

「こんなものかな」

できた、と筆を置いたとき、執務室の扉が開いた。顔を上げた名前は、ようやく戻ってきたのだと気がついて席を立った。
文句の一つでも言ってやろうと口を開いた名前は、部屋に入ってきた鬼灯の姿を見て一瞬言葉を飲み込んだ。鬼灯は厠に行ってきたとは思えない、なんとも色のある姿で戻ってきたのだった。

「ああ、名前さん。待っていましたよ」

頼み事について言っているとはわかっていても、その姿で言われるとどうにも別のことを考えてしまいそうになる。
妙に衿元が肌蹴け、着物には皺がついていて崩れていた。不自然に髪が乱れており、目つきもどこか冷たく澄んでいて、様子から見るととても残業をしている鬼の姿とは思えないのだ。
名前が何も言わずに目を瞬いているのを見て、鬼灯はキュッと衿元を正し、着物の乱れを整えた。
我に返る名前は、不潔そうに鬼灯を見つめた。

「仕事中に何をしていたんですか?私はせっせと頼まれ事をこなしていたというのに」
「誤解ですよ。少し絡まれただけです」

疲れたように息を吐く鬼灯は机に置かれた巻物を手に取る。中身を軽く確認して名前に礼を言うと、まだ疑っている様子の名前に説明でもしようかと考える。その前に名前が鬼灯の近くに寄ってきて、やはり軽蔑したような眼差しで見つめるのだった。

「鬼灯様、甘い香りがします」
「抱きつかれましたから」
「頬についているの、口紅を拭ったあとでしょう」
「キスも迫られましたね」
「……むっつり」

説明をするたびに名前が引いていくのを見て、酔っ払った衆合の鬼女に絡まれたと説明する。名前は疑いながらも納得するように頷いた。鬼灯がそういう鬼ではないと知っているため、本気で疑っているわけではないのだ。ただ、濡れ衣を着せられそうになって困っている鬼灯が少しだけ面白くて、名前はまだ疑って見せるのだった。夜中まで仕事させられた仕返しだ。

「本当ですか?迫られて抱いちゃったんじゃないんですか?」
「しませんよ、そんなこと」
「鬼灯様はもっと硬派なひとだと思ってました」

わざとらしくため息を吐いて見せると、鬼灯の顔を盗み見る。軽蔑した目をしたのが意外にも堪えたのか、鬼灯の表情は険しく、どこか困っているようで、名前は思わず顔を隠して顔を緩めた。そして、そんな様子に気がついた鬼灯は、名前を強引に振り向かせた。

「名前さん、面白がっています?」
「な、なんのことですか?」
「あなたわかっているでしょう。そのにやついた顔はなんですか」
「これはその……面白くて」

眼前に怖い顔が広がってつい白状してしまう。誤解されていないと確かめると、鬼灯は名前から手を離した。

「でも最初は驚きましたよ。あまりにもそれっぽくて」
「仕事中にそんなことするはずがないでしょう」

呆れるように言う鬼灯に名前は唇を尖らせる。仕事中でなければ受け入れていたのかと意地悪を聞けば、鬼灯は首を横に振った。また疑いの眼差しを向ける名前に鬼灯は鋭く視線を刺した。

「誰でも彼でもなわけないでしょう。私にだって好みはありますよ」
「じゃあ、好みだったら仕事中でもお楽しみでした?」

けろりと聞いてくる名前に鬼灯の表情が険しくなる。名前に頼んだ仕事は確かに急ぎだったが、深夜にわざわざ届けさせるほど急いてはいなかった。それをわざわざ急かした理由は下心があったからだ。残業に彼女を巻き込んで、疲れを彼女で紛らわせようと企んだ。残業疲れを利用して手でも握ってやろうかとは考えていた。
しかし、こうもこんな時間にそういう話題でからかってくるとなると、鬼灯としても理性と反発心に火をつける。
困らせてやろうと鬼灯は名前の瞳をじっと見つめた。

「そうですね。名前さん、あなたのことなら日中だろうが手篭めにしてやりたいと思っていますよ」

低く囁いた不穏な言葉に名前の目が点になる。え、と表情を引き攣らせた名前はすぐに冗談だと思って笑顔に戻る。しかし、冗談を言った雰囲気ではない重い空気にその笑顔も消えていく。

「冗談ですよね?鬼灯様も面白いこと言いますね。でもちょっと笑えない冗談かなって」
「本気ですよ。まあ、こちらとしてはそうやって警戒心ないほうがやりやすいですけど」
「なんか、さっきからかったの怒ってます?」

変なことでからかったのが悪かったのかと先ほどの言動を後悔する名前は、仕事に戻り始める鬼灯を目で追う。眠気もすっかりどこかに追いやられて、今言われた言葉にドキリとした心臓を押さえ込む。

「おや、議題考えてくれたんですか」
「え?ああ……」
「いいですね、これで行きましょう」

暇すぎて勝手に書いた書類を採用され、普段なら軽口の一つや二つ当たり前だが、今はそれどころではない。
急に静かになってそわそわしている名前に鬼灯は気を良くすると、戸惑う名前の顎をそっと持ち上げた。大きな瞳が鬼灯を見つめて揺れる。鬼灯はすっと目を細めると顔を少しだけ近づけた。

「こんな夜遅くに頼んで、残業代だけでは足りないですよね」

両手で手を握られ、名前の心音は少しずつ早まっていく。先ほど自分で残業代だけでは足りないとぼやいたが、一体何をするのだろうか。このままでは、とこれから起こることを想像して緊張していく。
戸惑いながら顔を赤くする名前に鬼灯は少しずつ近づいた。名前は耐え切れなくなって目を瞑った。

「お疲れ様でした、名前さん」

そう労いの言葉を囁き吐息が肌に触れる近さになる。ぎゅっと手を握り締めて自分を待つ姿に、鬼灯は這い上がってくる本能を何とか抑え込む。からかうつもりが予想よりも心を乱され、名前に何もせずに離れた。このままでは本当に手篭めにしてしまうところだ。
気配が遠くなったのを感じた名前はそっと目を開ける。ドキドキと高鳴る心音が何を期待していたのかを自覚させ、それがなかった寂しさを一瞬感じて恥ずかしくなる。何もしてこなかった理由を考えてからかわれたのだと理解すると、名前は期待していたことを悟られないよう鬼灯を睨みあげた。
鬼灯もその様子に気がついて、焦っていることを悟られないよう身構えた。

「何するんですか」
「労いですよ」

それ、と指摘されて握り締めていた手の中を見ると、キャンディが一つ握られていた。咄嗟にそうした鬼灯はからかってやったのだと言うように、いつもの表情で名前を見下ろす。

「何か別のものでも期待しました?」

やっぱりそうからかわれるのかと名前は恥ずかしさと悔しさに苛まれる。最初にからかった自分が悪いが、鬼灯のはより性質が悪い。言い返してもどうせからかわれるのだと知っている名前は、いっそ正直に立ち向かう作戦に出た。もう後がなくて投げやりだとも言う。

「期待というか、今のは勘違いするでしょう」
「顔が真っ赤ですよ」
「当たり前です!変なこと言い出すし、意識するに決まってます」

睨んで威嚇するも効果はなく、逆に睨み返されその視線にたじろぐ。名前は視線を逸らして真っ赤な顔を隠した。これ以上恥ずかしい目に遭う前に逃げてしまおうと考えながら、居心地が悪くて手に握っていたキャンディを口の中に放り込んで紛らわす。じっと見つめる視線が痛くて、恥ずかしくてどうにでもなってしまいそうだった。口の中に広がる甘さが思考を少しだけ冷静にさせる。そこでふと考えてしまった寂しさが心を占領する。
誰のために夜遅くまで残業をして、少しでも話がしたくてからかったのだ。性質の悪い冗談言われて、期待が裏切られて、ちょっぴり残念だった気持ちが顔を出して離れない。

「鬼灯様の馬鹿」
「怒らないでください。ただの冗談でしょう」
「冗談だから怒ってるの。こんな、キャンディ一つじゃ全然足りない……」

そう零してから名前はハッと我に返る。一体何を口走っているのかと顔を上げて鬼灯の反応を窺う。思ったとおり黙ってしまっているのを見て、慌てて手を振った。

「いや、今のはなんでもないです!鬼灯様が紛らわしいことするからもう、冗談に引っかかるなんて私もまだまだですね!」

ははは、と引き攣った笑顔で紛らわすも鬼灯の表情は変わらず、名前は今度こそ逃げようと踵を返した。しかし、逃げる前に鬼灯に腕を掴まれ、そのまま強く抱き寄せられた。いつにも増して表情のない鬼灯に名前の笑みも消えていった。

「そんなことを言うと、本気で噛み付きますよ」

せっかく繋いだ理性が遠のいていくのを感じながら、鬼灯は名前を捕まえて離さない。疲れて磨り減った思考と部屋を満たす雰囲気に飲まれ、鬼灯も限界だ。期待しているのはどちらか、名前の言葉一つで鬼灯の理性が揺らぐ。

「どうせ、また冗談でしょう?」

とことんからかいにきているのだと思っている名前はそう呟く。その言葉が鬼灯の努力を一瞬にして砕くのだった。

「…鬼灯様?」

黙ったまま見つめる視線がいつもと違うことに気がついて、何か嫌な予感がした名前は戸惑いの声を上げる。何の警戒もせずに名前を呼ぶその唇に、鬼灯は自分の唇を重ね合わせた。貪るような激しい口付けに名前はどうすることもできずに立ち尽くす。ふらりと腰を抜かしそうになるのを支えられ、名前も鬼灯に抱きついた。しかし、あまりの激しさに名前は息継ぎもできないでいた。呼吸は早まり心音がうるさいくらいに鳴り響く。とろけそうになりながら、休憩をと抵抗してみるも効果はなく、とうとう立っていられなくなった名前を鬼灯は机へと押し倒した。机の上の書類が床に散らばるが、そんなものは視界にも入っていない。
ようやく唇から離れた鬼灯の下で息を切らした名前が濡れた瞳で見上げる。鬼灯は名前の首筋に痕を残すと、満足そうに彼女を見下ろした。

「キャンディでは足りない分、いくらでも満たしてあげますよ、名前さん」

耳元に低い声で囁かれ、名前は金縛りにあったかのように抵抗さえできない。口付けひとつで乱されてしまった名前は恥ずかしそうに視線を逸らした。文句の一つも言わない名前の様子から無言の了承を得ると、鬼灯はそのまま事を進めていく。
突然机に押し倒され、普段仕事のしている執務室、煌々と部屋を照らす明かりと書類の山に囲まれながら、雰囲気の何もないその場所で、名前は少し不満げに、それでもちょっぴり嬉しそうに顔を隠した。

「鬼灯様の馬鹿」
「あなたが煽るからですよ」

二度目の悪態を零しながら、名前は鬼灯にすべてを委ねた。
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