拠りどころ


「はあ……どうしてこんなときに限ってこんな天気なのかしら……」

じりじりと容赦なく地上を照らす太陽に名前は文句を垂れた。隣を歩く加々知は空を見上げ、同意しながら額の汗を拭った。
こんな日にスーツを身にまとい足を動かさなくてはいけないのが社会人というもの。名前はため息を吐くと足を止めた。

「誰よ徒歩で行けるって言ったのは」
「会社の車がこの暑さでオーバーヒート起こしたんですから、仕方ないですよ」
「本当についてないわ。だいたい、こんなに暑いんだからわかるでしょうに。おかげで私たちはこんな地獄を歩く羽目に……」

同僚が車を潰したばかりに二人は徒歩での外回りをする羽目になっていた。
恨めしそうに太陽を見つめる名前に加々知は「まあまあ」と軽く宥める。暑苦しいにも関わらずいつもの涼しい顔を崩さない加々知を見て、名前は口を閉じた。

「主任が愚痴なんて珍しいですね」
「私だって一つや二つくらいあるわよ。加々知君にはないの?」
「まあ、ありますけど。例えば……」

そう言って加々知は両手に持つ紙袋を流し見た。名前も暑さよりも愚痴りたいのはこっちだろう。察したのか頭に手を置き、あからさまに疲れた表情を見せた。
二人は部下の起こした問題の尻拭いをして回っているのだった。

「監督責任は私にあるから仕方ないけど、加々知君まで被らなくても良かったのに」
「未然に防げなかったのは先輩として指導していた私です」
「本当、真面目よね。そういうところ嫌いじゃないけど」

肩を竦めて見せると、名前は日陰を探して建物の影に移動した。日差しがなくなるだけで多少は涼しく感じる。リストを見ながら名前はため息を吐いた。

「今日中に終わるかしら」
「終わらせないと帰れませんよ」
「確かに」

出かける際に見た課長の顔はそれはそれはお怒りな様子で、「お詫びして回るまで帰ってくるな!!」と鬼の形相で二人は外に放り出されたのだった。
思い出したのか名前の表情はさらに沈んで行き、暑さも相まって身体的にも精神的にも疲れ始めていた。理不尽なことばかりだ、と零した名前はなんともないように顔を上げた。

「さ、休んでいられないわ。行きましょう」
「少し休憩したほうがいいですよ。どうせ今日中は無理なんですから」
「最初からそんな気じゃ終わるものも終わらないわよ」
「主任こそ真面目ですよね。嫌いじゃないですけど」

地面に下ろしていた紙袋を再び手に持ち、加々知は名前に歩幅を合わせた。


***


今日は最後だと訪問した先で、二人はどっと疲れ果てていた。お客様のお怒りは最もであり、頭を下げなくてはいけないのもわかってはいる。しかしよく考えてみればなぜ自分たちが謝っているのかと、問題を起こした張本人がいないことに疑問も浮かぶ。
考えたところで「誰が悪いんです」と言えるはずもなく、ただただ「申し訳ありませんでした」と頭を下げ続ける。
部下の責任は上司のもの。だがしかし、思うところもあるのだ。
今日いくつ回って歩いただろうか。これまでこういうことは経験している名前でさえ心が折れそうになる。頭を下げた際に見た名前の悔しそうに拳を握る姿に、加々知は何もしてやることもできずに同情した。
誠心誠意に謝り続けても、起こしたことが大きすぎて頭を下げる意味もなさない。

「もういい、帰ってくれ!!」

顔を上げたところで、冷たい麦茶が名前を濡らした。顔が濡れシャツに染みを残していく。髪からぽたぽたと雫が落ち、その場が一瞬静まり返った。さすがに酷いだろうと、相手を睨む加々知は口を開こうとする。しかし名前がその手を止めた。

「いい、少し涼しくなった」

俯く表情からは感情が読み取れないが、本人が一番腹を立てているだろう。そう考えると加々知は口を開くことはできなかった。今ここで口を開けば、謝っていた意味がない。
名前はハンカチを取り出すと顔を拭う。もう一度頭を下げるとその場を後にした。

外に出るとすっかり日は沈み暗くなり始めていた。早歩きで歩く名前は訪問先から離れた場所で足を止めた。

「主任、泣いたら負けですよ」
「…わかってるわ。加々知君こそ、私が止めてなかったら同じことし返したでしょう」
「ええ。あれはさすがに頭にきましたよ」

唇を噛んで乱れた心を落ち着かせる名前は、包み隠さず怒りを露にする加々知に「珍しい」と感じながら少しだけ笑みを浮かべた。あの場で加々知がその素振りを見せなければ名前がやり返していたかもしれない。助かった、と思っているのは互いだ。
はあ、と顔を仰ぐと名前は頭を振った。

「こんなことでへこたれていたら駄目よね」
「少しくらい弱音を吐いてもいいと思いますよ。課長のやり方はあまりにも」
「加々知君」

理不尽に押し付けられたことに対し文句を言いかけた加々知に名前が咎めるように声を張る。加々知は大人しく口を閉じた。

「外にいるときくらいいいではないですか」
「誰がいるかわからないから。そういうのはもっと狭いところで、ね」
「口にすること自体を咎めているわけじゃないんですね」
「私だって一人だったら文句言ってるわ」

唇を尖らせ顔を顰める姿に加々知は少しだけほっとする。酷い罵声を浴びせられても、お茶をかけられても、外ではしゃんと背筋を伸ばして堂々としている。けれど同時にその強さに不安が募る。いつどこで折れてしまうか、彼女の心はおそらく限界が近い。主任としてまとめる立場であり、責任を取る立場の名前は色んなものを抱えすぎている。

「加々知君、聞いてる?いい時間だし一度帰ってまた明日にしましょう。次の訪問先はこの先の駅の近くだから…集合はそこの駅に」
「主任、ちょうど駅の近くにホテルありますし、今日はそこに泊まりましょう」
「え、別に泊まらなくたって一時間もあれば自宅に帰れるでしょう」
「明日わざわざ来るの面倒でしょう。泊まったほうが早い」
「じゃあ、加々知君はそうすれば……ちょっと、ねえ」

加々知は名前の手を掴み無視して歩き出す。いきなり強引な加々知に名前はわけがわからず着いていく。
別に泊まってもいいとは思っていたため抵抗する理由はない。けれど急に加々知が行動したため驚いている。

「加々知君、自分で歩く」
「すみません、少々強引でした」
「いいけど…どうしたの?急に」

聞いても理由は話さないまま駅近くのホテルに入っていく。フロントでチェックインするのを不思議そうに見ていれば、加々知は「行きますよ」と名前の背中を押す。自分の分のチェックインを、と言っても「しておきました」と部屋へ向かう。
仕事中でも強引なことはままあるため、またその癖かと名前は諦めて促されるまま歩いた。

「ここです」
「ありがとう」

カードをかざしてドアを開けると、名前は部屋の中に入る。そして一緒に中に入ってきた加々知に首を傾げる。

「加々知君は隣じゃないの?まさか同じ部屋なんてこと……」
「ええ。他の部屋が空いていなかったので」
「そんなバレる嘘ついて、からかってるの?」

パタンとドアが閉まり二人だけの空間になる。加々知は紙袋を机に置くとネクタイを緩ませた。ジャケットを脱ぎシャツのボタンを一つ外す。そのゆっくりとした動きを名前は訝しげに見つめた。そして近づいてくるのを見て頭の隅に身の危険を感じた。
密室に男女の二人きり。まさか……と考えてしまってもおかしくはない状況だ。
名前は少しだけ後ずさり、加々知は名前に視線を向けた。

「脱がないんですか?」
「何のつもりなの?」
「暑くないんですか?クーラーつけますけど、部屋が涼しくなるまで少しかかりますよ。それに濡れてますし」

ピ、と電子音が鳴り涼しい風が少しずつ部屋に流れ込んでくる。名前はクーラーを見上げながら加々知に他意がないことを感じる。
同時に加々知がそんなことをする人ではないと思い出すのだった。いくら女性社員に色目を使われようが揺らがない彼が、こんな非常識なことをするはずがないと。それもこんな大変なときだ。
名前ははあ、とため息を吐くとジャケットを脱いでベッドに腰掛けた。

「なんというか、誤解されるわよ」
「何がですか?」
「いや、別に。で、どうして同じ部屋なの?」
「二人一部屋の方が安かったので、いいかなと。どうせ経費で落とせないんですし」
「だからって……」

聞けばチェックインの際に色々リサーチしたらしく、あの短い時間で最も安いプランを聞き出し選んだとか。
抜け目がないと思う半分、誰相手でも同じ事をしているのだと思うと少々危なっかしい。異性から好意を得やすい彼だからこそ、女性と二人きりで泊まるなんて、上司として名前は心配になるのだ。加々知がそんなヘマをするほど頭が悪いようには思ってもいないが。
呆れるように納得した名前に、加々知は「まあ……」と続けた。

「それだけではないですけど」
「どういうこと?」

近づいてくる加々知に特に警戒もしない。けれどその手がシャツの襟に触れたところで体を緊張させた。加々知の作る影が名前を覆った。

「な、なによ」
「これ、染みになりますよ。洗わないと」
「……わかってるわ」
「それと」

加々知は名前の隣に座るとじっと瞳を見つめた。心の奥を探るような視線に身の危険とは違う何かを感じる。名前は遮断するようにそっと視線を外した。それでも加々知からは逃げられそうにはなかった。

「少し気を抜いたらどうですか」

その言葉に何もかも見透かされているようだった。
名前の心がドキリと強張る。ただの心配とも取れる言葉だが、名前はそうは感じなかった。同時に部下に何を言われているのかと自分が情けなくなった。

「このままじゃいつか折れますよ」
「…知った風に言わないで」
「知ってますよ。何年あなたの部下やってると思ってるんですか」

部署で弱音を吐いているところなど見たことはない。先ほど愚痴を零していたのだって珍しいことで、それくらい名前は部下の前では気を張り堂々としようとしている。いや、部下だけではない。その上のお偉いさんにだって、きっと名前は強く見せている。
弱音を吐ける同僚も、相談できる友人も、加々知にはいるかどうかわからないが、誰かに弱さを見せているようには見えなかった。
加々知は何度も名前が気丈に振舞う表情の下で、拳を強く握り締めているところを見ていた。
今回のことで何かが折れてしまう、そんな胸騒ぎがしていた。

「誰もいないときくらい、いいんじゃないですか」
「そう簡単にいかないのよ。部下の前で弱音を吐くなんて絶対にできない」
「そうですか……」

俯く名前の手を加々知は優しく握った。名前は驚きながらも加々知の目を見つめる。その瞳がどこかいつもと違う気がした。

「では、部下ではなく友人として聞きましょうか。名前さん」
「……なにを」
「すべて吐いてしまえばいいんです。そんな顔をしている人を放っておけるわけないじゃないですか」

酷く疲れたような顔に不安と怒りが入り混じっている。加々知の優しさに触れ動揺と情けなさが加われば、その表情はますます複雑になっていく。
名前は握られた手から温かさを感じ、張り詰めていた緊張を少しだけ解いた。そうすれば考えないようにしていたことも、不安も怒りもすべて流れ込んで名前の心を乱していく。
加々知はそっと名前の背中に触れた。そうすれば名前は泣いているのがばれないよう加々知の胸に顔を埋めた。

「わかってるのよ、私が全部しなきゃって。でも……」
「ここまで来て誰に気を遣うんですか」
「加々知君にこんな弱み見られるなんて本当は嫌なの。わかるでしょう?」
「さあ、私はかわいいと思いますけどね」
「…!上司に向かってかわいいって、馬鹿にしてるでしょう」
「今は友人として話を聞くと言ったじゃないですか。それにほら、見られたくないなら隠したらどうです?」

つい顔を上げて抗議した名前の顔が真っ赤に染まっていく。泣き顔なんて誰に見せたこともない。ついでにかわいいと言われてどこか照れている自分が恥ずかしかった。指摘されてさらに恥ずかしくなった名前は、加々知の言うとおり再び顔を埋めて隠した。

「これじゃあ、立場が逆じゃない……」
「たまにはいいじゃないですか」
「……責任とって全部聞きなさいよ」
「長くなりそうですね」

ぽんぽん、と背中を撫でれば名前は加々知の胸の中でシャツをぎゅっと掴む。悔しい思いも不安もすべて吐き出すように話し始めた。
部長の息子だからと今回の件を不問にされ、全面的に上の責任にされたこと、人の手柄を横取りする上司に、いちいち難癖をつけ悪者にしてくる上司のこと。頼られても期待に応えられているのかわからなくなり、部下と接することすら不安になっていること。
普段胸を張って堂々と仕事に打ち込む姿が虚像であるかのように、名前は胸の内に秘める弱さを暴露した。

「もう無理だって何度も思う。セクハラ上司に手を上げようとした事だってあるし、石頭なお偉いさんに文句を言いたいときもある。でも私がそんなことしたら、ついてきてくれている部下に示しがつかないし、失望させてしまう。私が我慢して頭を下げていれば全部上手くいくの」

独りよがりだと、頭が固いのはどちらかと、一番そう感じているのは名前自身だろう。加々知は何も言わずに胸の中で泣く名前を見つめた。強がる彼女の弱さを見るとどこか安心できた。

次第に言葉は少なくなり、胸のうちを吐き出した名前は泣き疲れて大人しくなっていた。

「落ち着きましたか」
「うん、なんだかすっきりした」
「それはよかったです」
「加々知君…私、本当は弱いんだ。だから強く見せている。でも、部下が頼ってくれるのが嬉しくて、一緒に働くことが楽しくて、全然苦じゃないの。……加々知君が支えてくれているから、全然つらくない」

名前はぎゅっと腕の力を強めて加々知を抱きしめる。弱音を吐いた心が少しだけ素直な気持ちを吐き出させた。

「加々知君みたいな部下がいて幸せ。…いつもありがとう」
「名前さん……」

普段部下一人を贔屓しないからこそ、その言葉は特別なものに感じる。加々知は疼く心を抑えながら名前を抱きしめ返した。

「やはり弱ってますね」
「そうかもしれないわね。でも、今だけは許して。明日からはまた気を張らないといけないから」
「ほどほどにしてくださいよ」

呆れながらも、ようやく自然に笑う名前に不安はなくなる。つい頭に手が伸びてそっと撫でると、からかわないでとちょっぴり不満げな表情をする。上司と言っても女性には変わりなく、こんな表情を見せるのだと愛おしく思えた。
名前が言ったように、加々知もまた名前のような上司がいて幸せなのだ。加々知はそれを隠すように名前をまた抱きしめた。


***


「今日も暑いわね……」

昨日に続き容赦ない空を見上げ名前はだるそうに呟いた。また朝から頭を下げなくてはいけないと思うと、余計に疲れていく。ため息を吐きかけた名前を加々知は急かした。

「名前さん、早くしないと今日中に終わらないですよ」
「わかっているわ。でもちょっとは合わせてくれたっていいじゃない」

昨日は合わせてくれていた歩幅を今日は合わせずどんどん歩いていく。その姿に唇を尖らせると、加々知は振り向いて立ち止まった。
昨日と歩く速度は変わっていない。名前が遅くなっているのだ。

「名前さんが遅いんですよ。体力ないんですね」
「誰のせいよ」

いつもより語気を強めたのは気に障ることがあるから。名前は昨夜のことを思い出して加々知の顔から目を逸らした。
そんな名前を見て加々知は宥めるように彼女の頭を撫でた。

「まだ怒っているんですか?自然な流れだったじゃないですか」
「もういい、行くわよ」

手を振り払って歩き出す名前は、そうすることで赤くなった顔を隠した。弱い心を見られただけではなく、あろうことかすべてを許してしまったことを後悔したのはすべてを終えてからだ。
大きくため息を吐いて気持ちを切り替えれば、加々知は歩幅を合わせて隣を歩いていた。

「名前さんって意外とかわいいところありますよね」

普段は大人しいくせに、やるときはやるしからかうときは全力でからかう。加々知の本性に今さら気がついても遅い。
名前は納得がいかないと頬を膨らませた。

「その名前で呼ぶのもやめなさい。会社で呼んだら絶対怪しまれるわ」
「怪しまれることしたんですから観念するんですね」
「加々知君、あなたね」

部下にこれ以上してやられてはと口を開いたところで、加々知が足を止めた。どうやら目的地に着いたようだ。

「着きましたね」
「人の話を……」

すっかり加々知のペースに飲まれてしまった名前は、彼の後姿を見てほっと心を落ち着かせた。
文句を言いたいことはあるが、感謝をしているのも事実だった。昨日は相当追い詰められていた。もし彼がいなければ…と考えたところで加々知が名前の名前を呼ぶ。

「何ぼーっとしているんですか。早く行きましょう」
「ええ、そうね」

軽くなった心は余裕を持たせてくれる。笑顔で返事をすれば、加々知は少しだけ驚いたような表情を見せた。
首を傾げる名前を加々知はしばらく無言で見つめた後、盛大にため息を吐いてそっぽを向いた。

「…笑ってないで顔を引き締めてください。これから謝りに行くんですよ」
「加々知君こそその顔、取立てに行くんじゃあるまいし」
「誰のせいですか」

二人は言い合いながら、姿勢を正し表情を引き締めた。
今度はどんなことを言われるかわからない。また酷い目に遭うかもしれない。それでも頼れる人が隣にいると思うと、今まで以上に心強かった。

「頼むわね、加々知君」
「ええ、名前主任」

一瞬だけ目を合わせると、インターフォンへと手を伸ばした。
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