正体
上司の頼まれごとに付き合わされていた彼女はようやく仕事を終えた。
時計を確認すれば、定時から既に三時間は経っている。彼女は自分のデスクに戻ると荷物をまとめた。
そこで、視界の端に人影を見つけて小さな悲鳴を上げた。
残業をしていたのは上司と彼女だけのはずである。まさか他に人がいるとは思いもしない。隣のデスクには同僚、加々知が机に突っ伏したまま寝ていた。
「びっくりした……」
ふう、と心を落ち着かせた彼女は加々知の肩をトントンと叩いた。
最近入ってきたばかりの加々知はきっと慣れない仕事に疲れているのだろう。よく見てみれば同じ上司から頼まれたのであろう書類がクリップに閉じられていた。
あの上司も人使いが荒い、と彼女はため息を吐きながらも加々知に声をかけるが、ピクリとも反応しない。
「加々知さん起きてください」
声をかけてみるが起きそうもない。
どうしたものか、と考えても人を起こす方法なんて知れてるわけで、強引にひっぱたくわけにもいかない。
少し迷ったあと、自分の椅子に腰掛けた。
「加々知さん放って帰ると私が怒られるんですけど…」
届かないであろう愚痴を零しながら加々知を見つめる。さすが女性社員たちが噂する男性だな、と寝顔を覗こうとして、あることに気がついた。
なんだか違和感のある耳は普通の人より尖っていて、どこか作り物のよう。
その違和感に気がつけばあとは早く、反対側を向いている顔を覗き込んで見れば、額には角のようなものが生えていた。横を向きながら突っ伏しているのは角のせいだろう。
疲れてるのかなと目をこするが、何度確認してもそれが見えなくなることはなかった。
「加々知さんって何者……」
呟けばようやく加々知は目を覚ました。
ピクリと動いた肩に彼女は再び跳ね上がる。角や耳を見ていたせいで距離が近い。そのまま加々知と目が合って、彼女は急いで加々知から離れた。
「加々知さん、こんなところで寝てたらダメですよ!」
寝ぼけ眼の加々知に彼女は慌てて声を上げる。時計を指しなんとかその場を取り繕った。
加々知は慌てる彼女に首を傾げながら、自分が寝ていたことを認識したようだ。ゆっくりとした動きで加々知は机の上を片付け始めた。
彼女は角と耳が気になって、聞いてもいいのかと帰る支度をする様子をまじまじと見つめる。本人はそれに気がついていないようで言い出しにくい。
やがて彼女の視線に加々知は気がついた。
「どうしましたか?すぐに……」
支度をして帰ります。そう言おうとした加々知は自分の異変に気がついた。正しく言えばいつも通りでおかしいのだ。
ここは現世。それなのに出てはいけないものが出ている感覚がする。手や鏡で確認しなくても彼女の視線で鬼の特徴が表れてしまったのだと察することはできた。
「…少し目を瞑ってくれませんか?」
「え?」
加々知は鞄にごそごそと手を突っ込みながら言う。
彼女はどうしていいかわからず、とりあえず言われた通りに目を瞑った。
「もういいですよ」
そう告げられれば目を開ける。目を閉じていたのは数秒もないわずかな時間だ。
何だったのかと加々知を見れば、いつの間にか角や尖った耳がなくなっていた。彼女は目をぱちくりとしながら首を捻った。
「あの…角は?」
「角?なんですかそれ?」
けろりと答える加々知に彼女はさらに混乱した。確かに角があったのに、それが一瞬にしてなくなった。
真面目な加々知の様子から勘違いかとも感じるが、確かに彼女は角を見たはずなのだ。
「お疲れですか?今日も残業してたみたいですけど」
「そ、そうなのかな……」
でも、と考える彼女に加々知は少しだけ顔を寄せた。
内緒話をするように耳元に近づけば、彼女も聞き逃さないように黙る。
「私が鬼だと言ったら、どうします?」
「え…?」
「……冗談ですよ。信じないでください」
少しだけ加々知の声が低くなったと思えば、いつも通りに戻り離れていった。加々知に「帰りましょう」と言われ時計を確認すれば、もうこんな時間だ。
しかし、冗談だと言うその言葉が妙に頭から離れない。もしかしたら加々知は本当に鬼なのかもしれない、と。
「あの…鬼なんですか?」
「だから冗談です」
「本当に?」
なんとなく感じる違和感。加々知の何かを隠しているようなよそよそしさ。彼女は言い知れぬ胸騒ぎを感じながら加々知を見つめた。
「加々知さん」
「鬼なわけないでしょう?」
「でも、角がありました。私が目を瞑った間に隠したんでしょう?」
「それを聞いてどうするんですか?」
じっと見つめる視線に彼女は狼狽えた。加々知が鬼だと知ってどうする?もしかしたら余計なことを知ってしまったことで危害を加えられるかもしれない。
言葉を詰まらせ視線を逸らす彼女に、加々知は短く息を吐いて歩き出した。
「くだらないこと話してないで行きましょう」
「加々知さん!」
ぎゅ、と歩き出した加々知の袖を掴む。加々知はゆっくりと振り返った。
彼女の瞳が不安そうに揺れる。けれどその瞳の中には、本当のことを知りたいという意思が込められていた。
そんな彼女に今度は加々知が視線を逸らした。一瞬考えるように黙り、そして再び彼女を見つめる。
「人間を食うような悪い鬼だったらどうするんですか?あなたに勝ち目はないですよ」
「それはそうですけど……」
「あなたを狙っているかもしれない」
「それならバレたときにすぐ隠さないで対処したはずです」
冷や汗が滲むのがわかりながら、加々知の鋭い視線を受け止める彼女は静かに答えを待った。
数秒の沈黙に加々知は口を開いた。
「その度胸と探究心に免じて教えてあげましょう」
加々知は諦めたように呟き、彼女を見定めるように目線を動かしたあと低い声で言う。
「私は地獄の鬼です。あなたには死後地獄に堕ちてもらうことにしましょう。出来れば早く死んでくださいね」
冷たく言い放たれた言葉に彼女の背筋が凍りつく。出た目は吉か凶か。
部屋を出る加々知の後姿を、彼女は金縛りに遭ったようにしばらく見つめていた。