三徹目


残業を続けて数時間。日々の疲れも重なってうとうとと瞼が重くなっていく。
眠ってしまえば隣に座る上司に怒られるとわかっていても、数十分ごとにやってくる強烈な眠気にそろそろ限界が近づいていた。
手元の書類に何が書いてあるのかなんてまったく頭に入らず、ただひたすらに眠く意識がぼんやりとしている。
いっそのこと寝てしまって叩き起こしてもらおうか。そうしたら目が覚めるかもしれない。
そう考えた途端にふっと意識が落ちた。しかしすかさず隣から声がかかって夢を見る暇もない。

「寝てないでしょうね。さっきからこくこくして」
「寝てませんよ!」

慌てて隣に顔を向けるも怖い顔が私を睨んでいた。いつもならその眼光で寝ぼけた体が起き上がるはずだが、今の私には何の効果もない。返事をしたそばからまた瞼が重くなっていった。
いけないと思いつつも眠気には抗えず、再び意識が遠くなっていく。ふらふらとしていると今度は頭を叩かれた。

「お、起きてます!」
「完全に寝てるでしょう。目が開いてませんよ」
「だって、今何時ですか……」

時計を見たくないくらい残業をしている。たまたま仕事が重なって忙しいこの数日は本当に地獄のような日々だ。
ろくに部屋にも戻れず体に鞭打って、いまだに終わる目途もついていない。
途方もない仕事量に心が折れそうで、諦めてしまいたくなる。つまり寝たいのだ。

「もう限界です」
「昼間に仮眠を取ったでしょう」

たったの一時間で疲れが取れるはずもない。そんな反論さえ言葉にするのが億劫になってきた。
鬼灯様はどうしてこんな殺人的な忙しさでも涼しい顔でいるんだろうか。さすがだなとその顔を見ながら目を閉じた。
一瞬寝て起こされるを繰り返せばきっと鬼灯様も頭にきて金棒を振り下ろすくらいしてくる。そうすればきっと目が覚める。痛いのは嫌だけど、今の私はどうやったって寝ることしか頭にないのだから仕方ない。
すぐに起こされることを頭の片隅で考えながら意識を手放すと、想像とは違い痛みで目を覚ますことはなかった。ふと意識が現実に戻ったとき、鬼灯様は私の手を握っていた。

「……鬼灯様?」

こんなことで起きるなんて思いもせず重い瞼を必死に開いた。鬼灯様は私を見つめるとすっと目を細めた。よく見てみると鬼灯様の表情にも疲れが見えていた。

「無理をさせ過ぎたようですね。私もかなり限界きてますから、あなたはもっとつらいでしょうね」

怒られると思いきや同情するような言葉に返事も忘れてしまう。鬼灯様はそっと私の頭の上に手を乗せた。

「続きは休憩してからにしましょう」
「いいんですか?」
「ええ、その間に少しでも減らしておきますから」

温かい手と耳に響く低音が心地良くて眠気を誘う。聞いたことのないような優しい声を子守唄に今度はちょっとやそっとでは起きられない自信があった。
鬼灯様も疲れているのに私だけ寝るのは申し訳ないけど、そんなこと言っていられる状態ではない。素直に従おうとしていると、鬼灯様の顔が近づいた。

「その代わり、一つ言うことを聞いてくださいね」
「え…?」

頭に乗せていた手が私の顔を支えるようにして頬を包んだ。
これから起こることを想像すると気を失ってしまいそうなほど強烈だった眠気も少しだけ吹き飛んだ。

「あの、待って」

おかしい。鬼灯様がこんなことをするはずがない。そもそも鬼灯様が「寝てもいい」なんて優しいこと言わないし、私のために仕事を減らしてくれるなんてあるわけがない。一瞬でも眠れば金棒を振り上げ、血だらけになってでも書類を捌けと言ってくるような冷血な上司だ。
それでも飽和した頭は現実を受け入れるばかりで、今にも触れそうな距離に慌てるしかない。重かった瞼を開いて迫る顔を見ていると、その表情がふと柔らかく孤を描いた。
その瞬間残りの眠気も一気に吹き飛んだ気がした。

「気持ち悪いっ!!なんなのあんた誰!?」

鬼灯様の顔面を掴むようにして手を伸ばすと、彼は数秒無言のまま身動きを止めた。そして私の手をゆっくりと引き剥がしていった。
露になる表情に背筋が凍っていくのを感じながら、引き剥がされた手の骨がミシミシと軋む音を聞く。

「……せっかくそのまま寝かせておこうと思ったのに気が変わりました」
「…………あれ、いつもの鬼灯様だ」

夢を見ていたのだと気づいたときにはもう遅い。鬼灯様の珍しい優しさを私は自分で振り払ったのだった。
きっと連日の残業続きに同情して見逃してくれようとしていたのだろう。そんな鬼灯様の顔面を掴んで「気持ち悪い」なんて言えば、さぞお怒りなことだ。徹夜も相まって鬼灯様の顔が恐ろしいことになっている。

「あの、今のはですね、少しばかり変な夢を見ていて……鬼灯様が気持ち悪い行動をとったからでして……」
「寝ぼけている暇はないですよ。そうですね…金棒で尻叩きはどうです?目を覚まして差し上げましょう」

逃がさないというように私の腕を掴む鬼灯様は金棒を担いで楽しそうに目を細めた。
金棒で尻なんて叩かれたらどんな後遺症が残るか。手で叩かれるだけでも数日はまともに座れないのに、金棒なんて想像がつかない。
慣れた手つきで床に投げ飛ばし叱責する体勢に入ると鬼灯様は私を睨み下ろしている。相も変わらずなんと恐ろしいお顔なのでしょう。

「正直ストレスが溜まっているので手加減できませんよ」
「本格的に私のお尻が……お嫁に行けなくなったらどうするんですか!」
「そのときは貰ってあげますよ。尻くらい醜くたって平気です」
「私が平気じゃないです!」

お尻を隠すように座り込めばなんとも不機嫌そうな舌打ちが聞こえてきた。完全に鬼灯様の拷問スイッチが入ってらっしゃる。
ストレスを発散するためにとんでもないことまで言い出している。お嫁に行き遅れたら貰ってくれるなんてあの世の女鬼が聞いたら喜びそうなことだけど、こんな拷問好きの上司なんて真っ平ごめんだ。

「大丈夫ですよ。痛いのは最初だけですから。次第に感覚もなくなります」
「それまずいやつですよね!?」
「いいから黙って叩かれなさい。さもないと拷問の実験台にしますよ」
「もうなってるようなものでしょう!!」

私だけではなく鬼灯様も疲れのピークに達している。完全に目が据わっているところを見ると何を言っても無駄だ。このままでは私のお尻どころか命が危ない。
思案中だという拷問の説明をしだす鬼灯様は私をどう苦しめるかを考えている。この拷問中毒は部下でさえ実験台にしようとするのだ。

「おや、逃げるんですか。逃げ切れたことないくせに」
「今日という今日は逃げさせてもらいます!」

部屋を飛び出せば廊下から見える空は明るくなっていた。また布団に入らずに朝が来た。それも恐ろしい鬼神が追ってくるという恐怖の朝だ。
寝不足の体は力が入らず足をもつれさせる。綺麗に転ぶと逃げ道はない。金棒を構えた鬼灯様は私と視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。

「捕まえました」
「……お手柔らかに」

泣きそうな声で呟けば、容赦のない一撃目を食らうのであった。
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