手のひらの幸せ


目を覚ますと隣にぬくもりがあって、時間がないとわかっていてもついその寝顔を見つめてしまう。起こしてしまうのは気がひけて、その寝顔に手を伸ばす。頬に指が触れるとふと目を覚まして彼は、彼女は眠たげに、けれど幸せそうに表情を緩める。
どちらともなく腕を伸ばして身を寄せ合えばそのたびに幸福に胸が躍った。
二人が他人ではなくなって数週間、毎朝こうしては慌しい毎日が始まるのだ。

「そろそろ起きないと間に合わないですよ」
「…もう少し」

ぎゅ、と鬼灯の胸に顔を埋める名前に、鬼灯も無下にはできずに優しく抱きしめた。
なんでもないこのちょっとした時間に癒されて、ついもう少しと許してしまう。
けれどそうしていると朝の時間は刻々と過ぎていく。鬼灯は名前を抱きしめたまま起き上がると、まだ寝ぼけている様子の名前にそっと口付けを落とした。

「起きてください。遅刻しますよ」
「……はい」

恥ずかしそうに返事する名前を置いて鬼灯は先に身支度に行ってしまった。名前は触れられた唇を指でなぞりながらその後姿を目で追った。
今まで互いの家に泊まることも多かったが、そのときとは違う感じに名前はまだ慣れてはいなかった。
毎朝隣にいるということも、ちょっとだけ甘えて寝坊するのも、口付けで目を覚ますのも、どこか恥ずかしくて照れてしまう。
顔を染めながら寝台の上で丸くなる名前は、彼と暮らしているという事実に毎朝打ちのめされて照れているのだった。

「こんなんじゃ心臓がいくつあっても足りないや」

きっと彼はなんとなしにやっていること。しかし名前にとっては恋人期間でしていたことでさえ心に甘い痛みを残していく。夢見た彼との生活に浮かれているようで、恥ずかしいなと名前はさらに丸くなった。
そんなところへ身だしなみを整えた鬼灯が戻ってきた。丸くなっている名前に眉を顰め、痺れを切らしたように彼女を抱え上げた。

「置いていきますよ。早く着替えなさい。寝癖も酷いですよ」
「わ、わかってます。下ろしてください」

寝癖を直そうとして髪に触れる手に名前は頭を撫でられているようでちょっぴり嬉しくなる。
しかし時計を見るとそんなことを考えている余裕はない。今日は一段と動きの遅い名前に鬼灯は彼女を下ろしながら顔を覗き込んだ。

「具合が悪いなら言ってくださいよ」
「あ、そういうわけじゃないです。ただ……」
「ただ?」

その先を急かす鬼灯に名前は言葉を詰まらせた。思っていることを言えば馬鹿にされるかもしれないと口ごもる。
普段ならゆっくり聞いているところだが、時間のない朝のためそんな暇はない。なんですか、と名前の頬を引っ張って聞き出そうとすれば、名前は視線を泳がせながら俯いた。

「鬼灯様と一緒に暮らしているんだな…って」
「当たり前でしょう、結婚したんですから」
「……実感がわくと妙に嬉しくて」
「何を言っているんですか。していることは結婚前と変わりませんよ」
「そうですけど……」

もじもじとする名前に鬼灯は呆れ顔をする。付き合い始めた恋人同士でもないのになぜそんなに照れているのか、鬼灯にはわからない。籍を入れ家計が一緒になり、帰る場所が同じになった。変わったのはそれくらいだ。しかしそれが名前にとってはどうしようもなく嬉しいことで堪らないのだ。
名前は鬼灯の手をぎゅっと握ると瞳を見つめた。

「鬼灯様、一緒に暮らすって幸せですね。鬼灯様のこと、もっと好きになりそうです」

笑顔を溢れさせて零した言葉に鬼灯はしばし言葉を失った。彼女の純粋で一途な想いが眩しくて、どうしようもなく愛おしかった。
鬼灯だって幸せだと感じてはいる。今まで知らなかった家族の温かさを知り、その喜びを知った。帰ると出迎えてくれる彼女をつい抱きしめてしまうくらい幸福を感じている。
しかし名前はそれ以上に感じていた。もっと好きになりそうなんて言われれば、鬼灯の中で理性と本能がせめぎ合う。
純粋な瞳に見つめられて、抱きしめたい衝動を抑えながら鬼灯は彼女を洗面所のほうへと突き飛ばした。

「早く顔洗ってきなさい。朝ごはんの時間がなくなりますよ」

声を低くし怒ったような様子に名前は「怒らせちゃったかな」と頭を掻くと、言われたとおりに身だしなみを整えた。昼食以外は家で作っている名前は時計を見るなり急いで居間へと駆けた。
顔を合わせようとしない鬼灯にさっき言ったことを迷惑だったかもと後悔していれば、そんな様子に気がついた鬼灯が苛立ちを隠さず名前を睨んだ。名前は背筋を正すと何を言われるのかと身構える。目の前まで来た鬼灯の不機嫌な表情に不安を感じて胸の前で手を握った。

「朝からああいうこと言わないでください」
「…さっきの、ですか?」
「ええ」

朝からのろけてどうするんだと責められているようで名前は小さく謝った。確かに忙しい時間に何をしているのだと反省していると、鬼灯はさらに眉間の皺の数を増やした。

「あんなこと言われて冷静でいられますか。朝から手を出すわけにはいかないんです。その間私は生殺しですよ、どうしてくれるんですか」
「……え?」

思っていたこととは違い名前はきょとんとした顔で鬼灯を見上げる。鬼灯は抑え切れない本能を少しだけ発散しようと彼女に口付けた。
先ほどよりも深く長く、理性が飛んでしまわないよう言い聞かせて彼女を求めた。名前は驚きながらも嬉しさが勝り同じように鬼灯を求めた。
唇を離せば熱い視線が絡み合う。そのままではいけないと鬼灯は咄嗟に視線を逸らした。

「朝から何をさせるんですか」
「ごめんなさい。朝ごはん作る時間、なくなっちゃいましたね」
「食堂で済ませましょう」

はあ、とため息を吐く鬼灯に名前は笑顔で頷く。愛用の金棒を担ぐ手と反対側に駆け寄り手を握る。鬼灯はちらりと名前を見ると立ち止まった。
首を傾げる名前を再び睨み下ろすと、彼女の耳元にそっと囁いた。

「今夜覚悟してくださいよ」

体を震わせる名前は顔を赤くしながら慌てて鬼灯を見つめた。鬼灯が張り切るとよくないことは名前が一番よく分かっている。お手柔らかに、と必死に言う姿が余計に鬼灯に火をつけているとは知らず、名前は歩き出す彼に困った表情を見せた。

「鬼灯様すぐにそういうこと考える」
「男なんてそんなものですよ。今日はあなたが悪いです」
「本当のこと言っただけですもん」
「まだ煽りますか?」

獲物を射止めるような鋭い瞳に名前は小動物のように身を小さくする。これ以上余計なことを言えばまずいと感じたのか、名前は口を閉じた。
やがて閻魔殿に着くと二人の出勤に気がついた閻魔が微笑ましそうに手を振った。

「おはよう、二人とも」

毎朝仲良く出勤する二人に、今日も平和だなと一日が始まっていくのである。
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