花一華


閻魔殿にいても、視察に出ても、プライベートでも、第一補佐官は女性に人気で、道を歩けば黄色い声が聞こえてくる。
多少誇張しすぎかもしれないが、第二補佐官として鬼灯を手伝う名前は常日頃そう感じていた。
鬼灯の周りにはいつも女性の視線が絡みついている。鬼灯は涼しい顔をしてそれをかわしているが、やはり疲れることもあるらしい。

「まったく…視察中にああいうのがあると困りますね」

ああいうの、とは先ほど女獄卒に囲まれ食事やデートに誘われたことだ。
衆合地獄の美人たちに囲まれる鬼灯に、名前は女性たちのパワフルさに弾き飛ばされ端で見守る。「行きません」ときっぱり断るのを見るのは何度目か。集団の中から颯爽と出てくる鬼灯の後ろを歩く名前は、確実に女性たちの恨みを買っていることだろう。
ため息を吐く鬼灯に名前も思わず息を吐きかけた。それをごくんと飲み込めば「そうですね」と同意した。

「鬼灯様は女性を惹く魅力をたくさん持っていますからね」
「魅力ですか。そうですねぇ…誰よりも権力はありますし、お金もそこそこ持っていますから」
「それもそうかもしれませんが、そのご面相がなによりの魅力かと」
「顔なんて生まれつきですからどうしようも出来ませんよ」

この顔のどこがいいのか。鬼灯は呟きながら首を傾げた。その仕草でさえ女性たちの心を奪ってしまうというのに。
視線は鋭いが見つめられればどきりとする。怒ると怖いし言動は厳しいが、紳士的な振る舞いに惹かれる。
自分の魅力に興味のない鬼灯に名前は視線を逸らすと、なんでもないように微笑んで見せた。その笑顔を見ながら鬼灯は少しだけ安心したように息を吐く。

「名前さんはそういった理由で人を選びませんから、私はあなたを部下に出来てよかったと思っていますよ」
「そうですか?」
「あなたは私に惚れて仕事を放り出すような人ではないでしょう?色恋沙汰が仕事に影響するほど面倒なことはありませんから」

はい、と大きく頷いては見せるが、本当の気持ちは違う。本当は「好き」と伝えたい。他の女性と同じように名前もまた鬼灯に惚れていた。
けれどそれを言ってしまえば、態度に表してしまえば鬼灯はきっと失望するだろう。名前は想いを胸に仕舞いつつ器用に再び微笑んだ。

「でも鬼灯様、もし私が鬼灯様のことを好きと言ったら、どうします?」

嘘を吐く度に胸の奥が裂けるように痛む。もしその言葉を伝えたとして、鬼灯はどんな反応をするのだろうか。冗談のように聞けば、鬼灯は顔を顰めた。

「そんなこと思ってないくせに、意味のないことを聞くんじゃありません」
「…そうですね。私も鬼灯様に恋愛感情を抱くことはないと思います」
「ええ。仕事に恋愛なんて無用です。さて、雑談してないで次行きましょうか」

歩き出す背中を引き止めたい。本当は大好きだと伝えたい。腕の中の書類を握り締めれば、込み上げてきた涙をぐっと堪えた。
きっと伝えることのない恋心。胸の奥に仕舞って蓋をする。関係が壊れてしまうのならこうして隣で仕事が出来るだけでいい。
「置いていきますよ」と振り返る鬼灯に、名前はいつものように笑顔を向けた。
駆け寄ってくる名前の様子に気がつかないまま、視察が続くのだ。


***


書類に目を通し判子を押す。作業化した退屈な仕事も名前にとっては大事な時間だった。
隣に目を向ければ大好きな人が仕事している。想いは伝えることはできないけれど幸せな時間だ。
ふと視線が合うと誤魔化すように微笑んで視線を戻した。鬼灯は不思議そうに首を傾げるが、何も用がないとわかると再び手を動かす。

会話もない執務室はとても静かだ。
もうどれくらい無言で仕事しているのか、勤務時間を過ぎて残業を始めてから獄卒が訪ねてくることもなく数時間が経った。
会話は一切ない。そろそろ声が聞きたいなと感じた名前は、手ごろな書類を見つけて鬼灯に声をかけた。

「鬼灯様、これなんですが…」
「これはもう一枚と対になっているはずですが…ありませんか?」

指摘されて自分の机を見てみる。いつも処理しているものだ。それがあることも知っている。名前は机の上の書類を手に取ると頭を掻いた。

「すみません、ありました」
「しっかりしてくださいよ」

そう素っ気無く言うと鬼灯は怒りもせずに書類と睨めっこを再開させる。
久々に聞けた声はほんの少し。小言でも言ってほしいものだが、たまにのミスにいちいち怒るほど厳しいわけでもない。
それも残業に突入していれば、少しでも仕事を消化したいものだ。鬼灯は黙々書類をこなしている。
名前は残念、と小さく息を吐き机に戻る。一生懸命仕事している鬼灯に何を期待しているのだと筆を執った。
鬼灯と自分は絶対に恋愛に発展することはないのに、どうしても近づきたいと思ってしまう。ちらりと再び鬼灯を見れば、自分が見られていることに気がついた。

「疲れましたか?もう遅いですし、先にあがってもいいですよ」
「い、いえ。少し集中力が切れてしまっただけで」
「では、休憩にしますか」

筆を置いた鬼灯は書類をまとめると椅子の背にもたれかかった。
一人では休みづらいのをわかっていて自分も休む。その小さな心遣いにまた胸が締め付けられそうになる。
部下に対しての気遣い。特別だと思ってはいけなくても、やはりそう感じてしまう。
第二補佐官になろうと努力した理由に、鬼灯に近づきたいからという思いが少なからずあったことを彼が聞けばどう思うだろうか。
顔を出す感情に、名前は顔を俯かせた。

「名前さん、最近何か悩んでいるようですが何かあったのですか?」
「え…」
「自分の部下のことくらい見てますよ。仕事に影響があるわけではないので聞きませんでしたけど、何か悩みがあるなら誰かに相談してみてもいいのでは?私も聞きますけど、親しい友人とか」

鬼灯への恋心に気づかれたわけではない。ほっとする名前は「そうですね」と微笑んだ。
気づかれてはいないとはいえ、悩みを持っていることを見抜かれてはボロが出るのは時間の問題だ。聡い彼に隠し事など続けられる自信はない。それなら、早くこの感情を押し殺してしまうべきなのかもしれない。
しかしなかなか、名前にはそうできそうもない。

「鬼灯様はどうして恋愛に興味ないのですか?」

ふと零れた疑問に鬼灯が眉を顰める。名前は急いで口を閉じた。

「興味がないわけではないですよ。ただ、私の外見や権力で判断して近寄られるのが嫌なだけです。なぜそんなことを?」

鬼灯が怪訝な表情になったのを見逃さない。名前はまずいと思いながら視線を彷徨わせた。

「私が想いを寄せている方も、そういうような考えで……」

とっさに言い繕った言葉は多少無理がある。あなたですと白状しているような、鬼灯なら自分のことだと勘付いてしまうようなもだ。
しかし鬼灯はそこまで考えなかったのか、純粋に「なるほど」と頷いている。
恋愛に現を抜かして仕事を放り出しているわけでもない彼女に小言を言うことはしない。恋愛を禁止しているわけではない。ただ、仕事に持ち込まれては困るだけだ。
名前の悩みに助言してやれない鬼灯は困っている彼女に小さく息を吐いた。

「恋愛相談は私にしても無駄ですよ」
「そう、ですよね……」

これ以上話していたら気持ちに気づかれそうだと思いながらも、心に収まりきれない彼への気持ちがどこか期待をしている。
もう少しだけ、と名前は口を開いた。

「あの、鬼灯様はもし私に好きと言われたらどうしますか」
「またその質問ですか」
「彼が鬼灯様と同じ考えの持ち主なら、鬼灯様と同じような答えを返してくれるかと思いまして」
「そうですねぇ……」

ただの世間話程度に考えているだろう鬼灯は小首を傾げて答えを考えている。
名前はじっとその姿を見つめた。

「もし名前さんが私に好意を伝えてきたとしても、きっと断ると思いますよ。直属の部下と恋仲になって何かあっても面倒ですし、私は名前さんのことをそういう対象として見ていないので」

鬼灯の本心に胸が締め付けられるような痛みを感じた。名前のことをただの部下だと思っていることは頭では理解していても、やはり一番近くで働いているせいか期待もしてしまっていた。
そんな自分が情けなくて名前は顔を俯かせた。仕事と恋愛は別だと鬼灯は何度も言っている。恋愛対象になどなりえないことを痛感した名前は頷くことしかできなかった。
落ち込んだ様子の名前に鬼灯は慌てて言い繕った。

「……これは私の意見です。名前さんの想っている方が名前さんのことをどう思っているのかはわかりませんし、参考にはなりませんよ」

まさかその想い人が自分だとも知らずに鬼灯は名前を励ました。その言動に余計に胸が痛んだ。
目に涙を浮かべて堪える姿に鬼灯は驚いたように表情を覗き込んだ。

「名前さん?」
「そうですよね。変なこと聞いてごめんなさい」
「どうして泣いているんですか。その人に言われたわけではないんですよ」
「はい。でも、きっと同じことを言われます。私は彼にとってただの部下なんです。恋愛対象ではないんです。私…いつまでも期待していたらダメですね。ちゃんと諦めます」

ぼろぼろと涙を零す名前に鬼灯はハンカチを差し出す。
そんなに悩んでいたことなのかと名前の言ったことを頭の中で思い出せば、今言った言葉に違和感を覚えた。
「私は彼にとってただの部下」。名前は第二補佐官であり、彼女を部下といえるのはそれより上の役職についている閻魔か鬼灯くらいだ。
目の前で泣いている名前に鬼灯は彼女の本当の気持ちを理解した。ずっと自分のことを好きだったのだと。

「名前さん、あなたは私のこと……」
「……ごめんなさい。私も他の女性たちと同じなんです。鬼灯様が思っているような女ではないんです」

鬼灯が自分の想いに気がついてしまったことを知って、名前は更に涙を零す。
知られたくなかった恋心。知られてしまえば今までどおりにはいかない。なによりも鬼灯に失望されてしまうのが怖かった。
名前は涙に濡れた表情で鬼灯を見上げた。

「失望、しましたか」
「……あなたがそういうことを思っているとは知りませんでした」
「もう、今までどおり働くことはできませんか」
「…そうですね」

変わらず無表情な彼に名前は顔を歪ませた。本人は笑っているようだが、実際は更に泣き出したような悲しい顔だった。
鬼灯は名前を慰めることはせずにただ泣き止むのを待った。これだから恋愛ごとを避けてきた。優秀な部下を失恋で失ってしまうなど鬼灯にとっては馬鹿らしい理由だ。
頑張って涙を止めようとする名前は、思うように涙が止まらなくて困っていた。鬼灯も黙って見ているだけで、本当に自分はただの同僚なのだと思い知る。そう考えると余計に涙は止まらなかった。
やがて鬼灯は小さくため息を吐いた。名前は少しだけ肩を震わせた。

「名前さん」
「すみません…すぐに、泣き止みます…から……」
「今日はもういいです。泣くなら自分の部屋で思う存分泣いてください。その代わり、明日からは気持ちを切り替えてきてくださいよ」

突き放された、と聞いていた名前は「明日」という言葉に疑問を感じる。もう今までどおり働くことはできないと言ったはずだ。
鬼灯は相変わらず名前に手を伸ばそうともせずに、腕を組みながら彼女を見下ろしている。
名前はそんな彼の目を見つめた。黒い瞳はやはり何を考えているのかわからない。

「優秀な部下を切ることはできませんし、名前さんがいなければ仕事が成り立たないでしょう。あなたに任せている仕事もあるんですから」
「でも……」
「確かに名前さんには少し失望しました。けれど、それは明日のあなたの態度次第で変わるかもしれません。きっぱり諦めて同僚として接することができるのなら、私はあなたを見捨てたりはしませんよ」

恋愛ごとが仕事に絡むのは厄介だが、そんな理由で部下を切るのも馬鹿な話だ。名前なら大丈夫だと感じるのは、長年二人で閻魔を支え地獄をまとめてきたからだ。
恋愛感情ではなくとも、どこか信頼され期待されているのだと感じると、名前は嬉しかった。まだ見捨てられてはいない。付き合い方でまだ鬼灯と一緒にいることができる。
そういうところが好きなんだと改めて自覚すれば、名前は胸の前で手を握り締めた。

「一つだけお願いを聞いてくれませんか?」
「何ですか?」
「応えてくれなくても、告白だけはさせてください。それできっぱり諦めます」
「…わかりました」

名前の様子からずっと悩んでいたのだと見て取れる。名前にそういう気持ちがないと決め付けていたのは鬼灯の勝手だ。
思いも聞かずに突き放すのは彼女の悩んできたことを否定するようで、せめて気持ちくらいは聞こうと了承する。
名前は短く息を吐くと涙で濡れた瞳で鬼灯をしっかりと見つめた。

「好きです、鬼灯様」

通じ合ってはいないけれどずっと心の中にあった気持ちがようやく彼に届いた。名前は大粒の涙を一つ零すと、それから涙を流すことはなかった。
満面の笑みを浮かべる名前の表情は、どこか清々しく今までで一番の笑顔だった。
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