期待はしてないけれど


昨日の出来事に一睡もできなかった名前は、それでも元気に出勤していた。
展覧会には行けなかったが、鬼灯のあの行動だけで満足している。鬼灯の真意はわからないが、口付けをしてくれて手を繋いでくれたことは名前にとって鮮明な記憶として残っていた。
それだけで仕事でもなんでもできるのだ。思い出しただけで表情が緩み、そんな名前を見た獄卒は「また鬼灯様関係だな」と察するのである。

幸せを胸に仕事をこなす名前は、報告書類を鬼灯の元へと持って行った。
どう顔を合わせようかと迷うが、いつも通りにと名前は緩んでいた表情を戻しながら執務室へと入った。

「確認お願いします」
「そこに置いてください」

鬼灯は何もなかったようにいつも通りで、そりゃあそうかと名前は笑う。口付けくらいで照れているのは自分だけ。仕事中となればさらに鬼灯は無関心だろう。
机の上に飾られている金魚草は、また絶妙な距離に四苦八苦していて、名前は金魚草を見つめるふりをしながら鬼灯を盗み見た。鬼灯は何も言わなかった。

今朝、鬼灯が残業を繰り返して寝落ちしたことを閻魔から聞いた。それなのに溜まっている仕事を置いて来てくれたのが嬉しいかった。昨日のことを聞きたいが怖くて言い出せない。
目の下にある隈を見ると無理をしているんだなと心配になって、申し訳ないことをしたとも思ってしまう。
いろんな感情がモヤモヤと心の中を支配する。
金魚草を優しくつつくと、整理しきれていない心の中でため息を吐いた。そんな名前に鬼灯はようやく口を開いた。

「仕事に戻りなさい」
「もうすぐお昼なので」
「私は忙しいんです」
「金魚草と戯れてるだけです」

つん、とピンク色の金魚草をつつけば、おぎゃあと泣く。
しっかりと世話をしてもらっているのか、あのときから色も活きのよさも変わっていない。かわいいな、と見つめる名前に鬼灯は手を止めた。

「昨日はすみませんでした。ずっと展覧会を楽しみにしていたでしょう」
「は、はい。でも、鬼灯様がちゃんと来てくれたので」
「あれは」

来てくれたから全然落ち込んでませんよ。そう言おうとした名前の言葉を遮る。
鬼灯は目も合わせず書類に視線を落としながら事務的に言う。

「あれはあなたを慰めるためにした行動です。誤解しないでください」
「……はい」

明るくにまにまとした笑顔を浮かべていた名前は少し寂しそうに頷いた。
やっぱりとは思ってみるものの、心のどこかでは期待していた。
鬼灯にとってあれくらいなんともない。好きな人でなくても慰めるためにしてしまう。顔色一つ変えなかった鬼灯を思い出して名前はそう一人納得した。
つつかれた金魚草は名前と鬼灯を見るように目玉を動かす。鬼灯はその金魚草を睨むと名前を見上げた。

名前がどれだけ自分を慕っているかはわかっている。口をついた言い訳に後悔しても遅い。
名前の表情から笑顔が消えたのを見て鬼灯は珍しく狼狽えていた。もちろん表情にも行動にも出ないのだが。
たった一言で彼女の表情を変えてしまう。昨日は泣かせて、無理やり笑顔にさせて、今日はその笑顔を曇らせた。彼女と視線が交わり咄嗟に逸らした。

「…今度は約束守ります」

ぽつりと呟いた言葉に名前は再び頬を緩めた。今度ということは、また一緒に出かけることができるのだと。
こんなにも好きなのに相手は自分のことをただの同僚だと言う。けれど、こうして構ってくれるのが嬉しかった。

「私、やっぱり鬼灯様のこと……」

好きです。そう言うことはできないが、告白したときよりもずっと鬼灯のことが好き。
口を閉じた名前の代わりに金魚草がおぎゃあと泣いた。

「お先にお昼行ってきます。午後は黒縄地獄に行かなければならないので」

名前は金魚草を撫でると足取り軽く執務室を出て行った。その後姿に鬼灯は深くため息を吐いた。

「私は何をしているんでしょうねぇ」

目の前で自分を見つめる金魚草二匹を睨みながら、手元の書類を思わず握り締めた。


***


その日も仕事は長引いていた。夕食もまともに取れず仕事に精を出す鬼灯の頭の中には仕事のことしかない。
昨日のことだって頭の隅に追いやられ、減らない書類に今日も徹夜かと時計を見る。
キリのいいところで手を止め廊下に出ると飽和した頭を冷やすように外の風に当たった。そうすればだんだんと思考が広がっていく。
真っ先に思い当たるのが名前のことで、どちらが惚れ込んでいるのやらと鬼灯は小さく息を吐いた。
そんな鬼灯の耳に聞きなれた声が聞こえた。

「鬼灯様?」

声が聞こえたほうを振り向けば、寝巻きの浴衣を着た名前が少しだけ嬉しそうに立っていた。
まさかこんなところで出くわすとは名前にとっては嬉しいこと。思わず表情が緩んでしまう。
こんな時間にどうしたのかと尋ねる鬼灯に名前は少しだけ表情を引き締めた。

「鍵を閉めたか気になって。この間のこともあるので一応」
「そうですか」
「鬼灯様はまた残業ですか?」

頷けば、名前はじっと鬼灯を見つめた。ここ最近ずっと忙しくて、昨日も夜はずっと仕事をしていた彼に少し心配になる。目の下にある隈が今朝よりも増しているような気がして、疲れの窺える表情は何かをしてあげたくなる。
名前はぐるぐると考えると思いついたように口を開いた。

「お夜食作りましょうか?おにぎりならすぐにできますよ」
「いいですよ別に。早く確認して寝なさい」
「…わかりました」

聞き分けのいい名前は自分がフラれた身だということを思い出して引いた。
彼女でもないのに何をお節介しているのか。鬼灯のことは諦めようと思っているのに、まだ好きと言う気持ちが邪魔をする。
言われたとおり鍵の確認をして帰ろうと会釈する彼女を鬼灯は引き止めた。
何かを言うたびに一喜一憂するその表情は鬼灯に少しずつダメージを与える。今のように表情を曇らせれば、つい手を差し伸ばしてしまう。

「夜食はいらないのでお茶を淹れてくれますか」

鬼灯は返事も聞かずに執務室へと戻っていく。名前は慌てて返事をすると鬼灯の背中を追った。

「先に鍵の確認してきてくださいよ」
「はい!」

嬉しそうな返事をして廊下を走っていく名前を見ながら鬼灯はため息を吐いた。
昨日はどうしてあんなことをしてしまったのだろうか。彼女を喜ばせて、落ち込ませた。
一人で待っていた彼女のあの表情を見て何も言葉が思い浮かばず、つい行動に出た。いまさら後悔しても遅い。
幸い名前はきちんと気持ちの整理をつけているようで、引きずっているのは自分だけのようだと、鬼灯は執務室に戻りながら机の金魚草に触れた。
おぎゃあ、と甲高い声を響かせるピンク色の金魚草は、そっと隣の金魚草に身を寄せた。
それを顰めっ面で睨みながら、紛らわせるように書類を手に取った。

名前が来る間も仕事をこなす鬼灯は、手元にいくつかある休暇申請の書類をまとめていた。
各小地獄でシフトなどの調整をしたあと鬼灯のところに集まってくる。その中に彼女の名前を見つけた。
庁内勤務の獄卒の出勤はなんとなく把握はしている。名前が休暇を取るのは久しぶりな気がした。

「休暇……ですか」

自分はいつ取ったかと考える。そんなところへ名前がお茶を運んできた。

「どうぞ。あの、こんな格好ですみません」
「ありがとうございます。浴衣も新鮮でいいですよ」

名前はお盆で顔を隠すとにやにやと口元を緩めた。静かな夜に二人きり。昼間の慌しい閻魔殿もすっかり寝静まっていて名前を緊張させる。
湯飲みを手に取る鬼灯をちらりと見ながら、まだ心の中にある気持ちに一人思い悩む。
ふと視線が合っても、昨日のことがあってから見つめることはできない。またしてもお盆で顔を隠す名前に鬼灯はさっきの書類を見せた。

「休暇取ったんですね」
「あ、はい。傷心旅行……え、えっと、気分転換に!」

慌てて言い直せば、鬼灯は聞こえないふりをした。
名前はひやひやとしながら金魚草に視線を落とした。傷心旅行とはいったものの、今の心は傷心どころか浮ついている。昨日の出来事にまた恋心が最熱しているなど鬼灯には知られたくない。それを落ち着かせるためにも鬼灯の前から少し離れようと、そんな言い訳を心の中で作った。
鬼灯は「いいですねえ」と湯飲みを置いた。

「どこに行くんですか?」
「魔女の谷に。なにかお土産買ってきますね」
「いいですよ、わざわざ」

鬼灯は書類に書いてある日付を見ながら卓上カレンダーを見た。
お土産は何がいいかな、と考える名前を見上げ書類を置く。
ドキリと固まる名前になんでもない素振りで再び湯飲みを手にした。

「楽しんできてください」
「は、はい!」

名前は返事をするとまた口元にお盆を持っていった。
鬼灯は気にせず書類をめくり始め、名前は金魚草を構う振りをして鬼灯を見つめる。
追い返しもしない鬼灯をいいことに居座る名前は、もう少しだけと呟きながら彼の傍にいるのだった。

[ prev | next ]
[main][top]

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -