夜雨


しとしとと降り注ぐ雨が庭を濡らし、雨に当たる金魚草はその雫を受けて身を震わせる。静かな夜の中に聞こえるのは、雨と金魚草の揺れる音。葉が音を立て、雨音と静かに共鳴している。
心地よい音色に目を瞑りながら廊下に佇むのは閻魔殿の寮で暮らしている獄卒の一人。遠くから聞こえる足音に、名前はゆっくりと瞼を開いた。

「こんな時間にどうしたんですか」

庭を見つめる名前に、鬼灯はそう言いながら彼女の隣に並んだ。顔を上げた名前は同じように質問を返した。

「鬼灯様こそ」
「私は少し眠れなくて」
「私もです」

雨の音で目を覚ましたのか、ただ単に眠れなかっただけか。ふと外に出てきたのは偶然で、まさかこんなところで会うとは思ってなかっただろう。
ぴちぴちと揺れる金魚草を眺めながら、名前は空を見上げた。

「雨の音が好きなんです。ここは良く聞こえるので」
「私は金魚草を眺めに」

ここへ来た理由を話しながら、お互いの目的を気にかけてみる。名前は金魚草を、鬼灯は雨音に意識を向けた。
再び揺れ動く金魚草に、名前は鬼灯の方を見る。不思議な生き物を育てている張本人。眠れない夜に見に来るくらいには愛情を持っている。
雨音に耳を傾けていた鬼灯は名前の視線に気がつきながらすっと目を細めた。

「雨……ですか。私はあまり好きではありません」
「そうなんですか?」
「だからといって嫌いなわけではないのですが、なんとなく」

ぽつりと呟いた言葉とその表情にどこか寂しさを覚えた。鬼灯にしては珍しく感情を表している気がして、名前は視線を元に戻した。
空は雲が覆っていてどんよりと暗い。地獄に星空はないが、いつもより空が低く感じた。

「鬼灯様がそういうことを言うのは珍しいですね。鬼灯様にとって雨は特別なようです」
「まあ、そうかもしれませんね」

どこか意識が遠くにあるように、鬼灯は空を見つめながら呟いた。
雨に何かがあったのか、聞く理由もないため名前は同じように空を見つめることしかできない。もしかしたらなにか余計なことを言ってしまったかもしれないと感じながら、重くなる瞼にゆっくりと瞬きをした。
心地よい雨音にようやく眠気が起こる。欠伸を噛み殺せば鬼灯は名前に視線を向けた。

「眠れそうですか?」
「はい。雨音と…鬼灯様の心地いい声を聞いたらなんだか眠くなってきました」
「寝ぼけているのですか。冷えますから部屋に戻りなさい」

そう言われて肩を竦めれば名前はにこりと微笑んだ。

「おやすみなさい、鬼灯様」

会釈するように頭を下げれば来た道を戻っていく。その後姿を眺めながら、鬼灯は再び庭へと目を向けた。
鬼灯にとって雨は特別なもの。揺れる金魚草に自分の心が映っている気がして、鬼灯も身を翻した。


***


雨音で目を覚ました名前は、暗い廊下を歩きながら金魚草が植えてある庭までやってきた。名前のお気に入りのそこは、鬼灯にとってもお気に入りの場所でもある。
廊下に佇む先客にこの前のことを思い出す。この間も雨が降っていて同じ場所で同じ人に遭遇した。
隣に立つと、鬼灯はようやく気がついたように名前に顔を向けた。

「名前さんですか」
「こんばんは」

奇遇ですね、と笑えば鬼灯も思い出したのか頷いた。
今度は金魚草ではなく空を見上げていた鬼灯に、名前は不思議そうにその横顔を見つめた。物憂げな様子も栄えていて、さすがあまたの女性を魅了する補佐官だと心の中で感心する。なんと言葉をかけていいのかわからず、名前は目を瞑って耳を澄ました。

そんな名前を横目に、鬼灯は廊下から階段へ足を踏み出し、庭へと下りた。屋根のない庭は雨を遮るものがなく、空から降り注ぐ静かな雨が鬼灯を濡らした。
隣にいた気配がなくなったことに目を開けた名前は、雨の中外に出た彼に驚く。

「何してるんですか。濡れますよ」
「頭を冷やしたい気分で」
「でも、風邪を引いてしまいます」

戻ってください、と鬼灯の着物を引っ張れば、鬼灯はじっと名前を見つめた。
濡れた髪が顔に張り付き、どこか色気を感じる彼に名前は釘付けになった。鬼灯を廊下のほうへ引き戻そうとした名前も雨に濡れる。仕事では絶対に見ない彼の表情に胸の痛みを感じた。

「どうしてそんなに悲しそうな顔をするのですか」

ようやく口を開けば鬼灯に問う。雨に濡れた表情が泣いているように見えた。
鬼灯と名前は同じ閻魔殿で働く同僚だが、プライベートのことは互いにほとんど知らない。しかし、名前は初めて鬼灯のことを知りたいと思った。
いつも無表情で完全無欠の彼にも、こんな顔をする思いを抱えている。余計なお世話とわかっていても手を差し伸べたくなったのだ。

「鬼灯様」

雨を含んで重たくなっていく着物から鬼灯の手を取った。雨に濡れた手は冷たく、名前は自分の体温で温めるように握り締めた。
鬼灯も同じように雨に濡れる名前を無言で見つめる。困ったような彼女の表情を見て視線を逸らした。

「悲しそうに見えますか」
「はい」
「…少し昔のことを思い出しただけです。あまりいい思い出ではないので」

雨の音に溶け込むような低音。近くにいなければ聞き取れないようなその声は普段の鬼灯らしくはない。
何かを思い出すように目を細めた彼に、名前は少しだけ身を寄せた。

「雨を見るたびに思い出すことなんです。もう過去のことなので気にしないことにしているのですが、つい思い出してしまう」

空を見上げぽつりと呟く。暗闇に映える白い首筋に水滴が伝う。愁いを帯びた瞳が恨めしそうに空を見つめていた。
鬼灯は名前に視線を戻すと彼女を抱き寄せた。

「少しだけいいですか」

聞いてはいるが離してくれそうもない。名前は静かに頷くと自分も腕を回した。
冷え切った体が互いの体温を感じて熱を生む。名前はかけてあげられる言葉も思いつかないまま鬼灯を受け止めた。

「私はなぜあの時生贄にされなければならなかったのでしょう」

独り言のように呟かれた言葉は名前の耳元に零れ落ちた。

生贄という方法しかなかったのは理解している。仕方のないことだと納得はして見せたけれど、実際は心の底から嫌だったのだ。
まだ十にも満たない子供が村のために命を捧げるなど、怖くて悲しかったに違いない。選ばれた理由だって本当は納得がいかない。

生贄が決まったとき、雨の降らない空を憎んだ。
祭壇に上ったとき、村人全員を憎んだ。

鬼になり地獄へ来ても心の奥底は満たされず、獄卒になり第一補佐官という地位を得ても心の傷は癒えないままだ。無理やり塞ごうと仕事に没頭し、獄卒や同僚たちとの交流にその傷を誤魔化した。
しかしふとしたときにそれが顔を出す。雨の降る夜には心を抉るように、あのときのことが鮮明に脳裏に思い浮かぶ。
地獄ではほとんど降らない雨もこうして降り注ぐのに、どうしてあのとき現世で雨は降らなかったのか。つい、どうしようもない怒りと空しさが心を埋め尽くす。
誰かに頼りたくて、しかし情けないと代わりに金魚草を眺めて落ち着かせていた。
そこに名前がやってきて心が揺れた。

「みっともないと思っているでしょう。昔のことをいつまでも引きずっているなど」
「いいえ。…怒らないでくださいね。弱った鬼灯様を見て少しだけ安心しました。誰だってそういうことはあるものですよ」
「名前さんにもですか?」
「私はありません。小さな悩みならたくさんありますけどね」

名前に鬼灯の気持ちはわからない。どれだけ辛かったことなのか、想像はできるけれど知ることはできない。だから、無闇に心の中へは立ち入れなかった。
名前は鬼灯の過去を聞こうとはせず、ただ彼を受け止めた。そんな彼女に鬼灯もどこか安心していた。

鬼灯は名前から身を離すと彼女を見つめた。その表情が先ほどとは違ういつもの表情に戻っていて、名前は安心したように微笑みかけた。

「…急にすみませんでした。少し楽になった気がします」
「とりあえず、中に入りましょう」

空を見上げればまだ雨は降り注いでいたが、少しだけ雨音は小さくなっていた。
すっかり濡れてしまった二人は屋根のある廊下へと戻る。床に水滴を落としながら、濡れている着物はずっしりと重い。
どうしようかと悩む名前の横で、鬼灯は着物を脱いだ。ぎゅ、と絞ればたくさんの水が出て、鬼灯はさらに襦袢も脱ごうとする。名前は慌ててその手を止めた。

「どうしました?」
「一応ここに女性がいますので」
「…ああ、この濡れた感じが気持ち悪くて」

突拍子もないことをしでかす鬼灯に、いつも通りだと安堵する。寂しそうな顔は彼には似合わない。
裾を絞っている姿を見ていれば、鬼灯は訝しげに名前の表情を覗き込んだ。

「何をジロジロ見ているのですか」
「べ、別に見てませんよ。私はどうしようかと思っていただけです」
「私のせいですみません。風邪引いたら困りますね。今タオルを持ってきます」

鬼灯はそう言うと廊下に足跡をつけて行ってしまった。
廊下も拭かなくてはならないな、と考えながら名前は空を見上げた。

静かな雨の音が好きだった。目を瞑ると心が洗われるような気がしたから。
けれど雨が好きじゃない人もいる。聞き方を変えれば雨の音は寂しく聞こえた。
空が泣いているような、静かな悲鳴のような。空と共に鬼灯の心も泣いていたのかもしれない。
不安そうで寂しそうで、あんな彼を見て名前は胸を痛めた。それは同情もあるだろうが、何より初めて見たそれに不謹慎にもときめいてしまったから。

「かっこよかったな」

雨の夜に鬼灯とここで会ったのが嬉しくて、自分を頼ってくれたことが何よりも嬉しくて、意外な一面に恋をした気がした。

「何にやにやしてるんですか」
「あ、いえ。雨の音が心地いいなと…」
「にやにやするほどですかねぇ」

頭からタオルを被せられ視界が暗くなる。わしわしと乱雑に髪を拭かれ、名前は首を竦めた。
ちょっと、と驚いたように声を上げれば、鬼灯はその手を止めた。しかし頭からタオルは退けられない。
何も見えないまま困惑していれば、ふいに体を抱きしめられた。

「鬼灯様?」
「…冷えますから」

ぶっきらぼうに言った言葉に名前はくすりと笑った。それが気に食わなかったようで、鬼灯は名残惜しそうに体を離す。
名前は頭のタオルを取ると今度は鬼灯に被せた。いきなりのことに鬼灯も反応できなかったようで、名前はその隙を突いて抱きしめ返す。タオルを被せたのは照れ隠し。名前は真っ赤な顔を見られないように顔を隠した。
鬼灯はすぐにタオルを取って視界を確保すると抱きつく名前に腕を回した。

「鬼灯様、これじゃあ温まりませんよ。お互い冷え切っているんですから」
「まあ、咄嗟に出た言い訳ですし。何も笑うことはないと思いますが」
「いつも率直に言う鬼灯様が言い訳をしたのでつい」

鬼灯は罰の悪そうに視線を彷徨わせた。仕返しというように抱きしめる力を強めると名前は抗議するように顔を上げる。
せっかく隠していた顔色が露になり、気がついたときには鬼灯にばれている。
鬼灯はわざとらしく「熱でも出たんですか」と茶化し、名前もそれに乗って頷くとまたもぞもぞと鬼灯の胸板に顔をうずめた。

いい大人が何をしているのかと、鬼灯は馬鹿らしくなりながら名前の首元に顔を埋める。
くすぐったそうに身を捩った彼女の耳元にそっと呟いた。

「また今日のように雨が降った夜、一緒にいてくれますか」

ワントーン低くなったその声に、不安が混じっているように聞こえた。
これでも鬼灯は弱っているのだ。自分を抱きしめる縋るような力に彼の弱さを知った気がした。名前はそれに応えるように精一杯彼を抱きしめる。

「もちろんです」

そう呟いてにこりと微笑んだ。
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