誤差


鬼灯様と付き合い始めてから、それは充実した恋人生活が始まると思っていた。けれど実際は仕事が忙しく、一緒にいる時間は少なかった。
付き合ってからのほうが、鬼灯様に気を遣ってわがままが言えなくなる。
週一回お昼や飲みに誘っていたのに、今では一ヶ月に一回あるかないか。鬼灯様は気にしてくれているみたいだけれど、目の下に隈を作ってくる彼に、どこに行きたいなんて言えない。
せめてプライベートの時間を一緒に過ごそうと、鬼灯様は私の部屋へ帰ってくるけれど、夜遅く帰ってきては朝早く出て行き、顔を合わせることはあまりない。徹夜になって帰ってこないときもある。
それでも、私は鬼灯様とお付き合いしているのが楽しかった。

「鬼灯様、おかえりなさい」

時計を見てみれば草木も眠る丑三つ時。布団に入ってきた温もりに目を覚ました。
鬼灯様は私を抱きしめるようにして身を寄せ、優しく頭を撫でた。

「ただいま、名前さん。起こしてしまいましたか」
「いいんです。お顔を見れただけで幸せです」

仕事をしているときとは違う、プライベートの顔。職場が離れているため仕事中はあまり顔を合わせない。だからこそ、何時に目を覚ましたって幸せなのだ。
擦り付くように鬼灯様に抱きつけば、彼もぎゅ、と腕の力を強めた。
こうしている時間がとても好き。鬼灯様はどうなんだろう。

「今日は朝までいられるんですか?」
「…いえ、二時間ほど休んだら戻ります」
「そうですか。大変ですね」

頑張ってください、なんて言えない。これ以上頑張ったら鬼灯様が倒れてしまうかもしれないから。
だから、何も言わずに微笑みかける。そうしていればだんだんと眠気に勝てなくなってくる。
欠伸をかみ殺して、重いまぶたを開けて、少しでも鬼灯様と時間を過ごそうとしても眠気には抗えない。
鬼灯様は私の眠りを促すように、また優しく頭を撫でた。

「寝ていいですよ」
「でも……」
「おやすみなさい、名前さん」
「……おやすみなさい」

次、目を覚ましたときは鬼灯様はいない。けれど、彼のぬくもりにいつもよりいい夢を見られそうな気がした。


***


朝早く出勤した鬼灯様のために、自分の出勤前に閻魔殿に寄る。
鬼灯様の好きなおにぎりを二つ包んで持っていけば、彼は「ありがとうございます」と難しい顔を少しだけほころばせた。
けれど、疲れが窺えるその表情に心配になる。机の上にはたくさんの書類が積み重なっていた。

「あまり無理をなさらないでくださいね」
「ええ。おにぎり、あとでいただきます」

そう言いながら、もう視線は書面に落ちている。
鬼灯様はとても忙しい。でもこうして仕事をしている姿を見るのは私の楽しみでもある。
同じ部署だったら、なんて、夢を見ながら働く糧にする。いつか私も鬼灯様の近くで働ければいいな。
そう思いながら執務室をあとにした。


そして、書類を提出に来たお昼過ぎ。鬼灯様はお昼を取ったかな、と執務室に入る。
お昼を終えた獄卒たちが慌しく出たり入ったりしていて、私もその中に紛れて書類を差し出した。
鬼灯様は顔を上げると「お疲れ様です」と声をかけてくれた。私でちょうど獄卒が途切れたみたいだ。

「お昼はとりましたか?」
「いえ、まだ」
「鬼灯様、一度手を止めないといつまでも止めないでしょう。ちゃんと休憩してくださいね」
「わかってますよ」

鬼灯様はそれでもペンを置こうとしない。忙しいのはわかるけれど、体は大切にしてほしい。
お茶を入れようかなと思っていれば、机の上には今朝私が届けたおにぎりの包みがまだ綺麗な形で置いてあった。
私の視線に気がついたのか、鬼灯様は「あ」と小さく呟きながらそれを手に取ろうとした。それよりも先に私が手に取った。

「食べてないんですか?」
「……食べようとは思っていたんですが、手が離せなくて」
「そうですか……」

おにぎりなら片手に食べられるかと思ったけど、大事な書類もあるし、行儀が悪い。
でも、朝から何も食べていないとなると心配になる。おにぎりを見つめていれば、鬼灯様がようやくペンを置いた。

「せっかく作ってくれたのにすみません。今食べます」
「いえ、もう結構時間が経ってますし、今日は暑かったのでやめたほうがいいです」
「しかし……」
「今お茶を持ってきますね。食堂に行っておにぎり作ってもらえるか聞いてきます」

もし食べて傷んでいたりしたら困る。ただでさえ寝不足なのに、鬼灯様が倒れるような要因を作るのは申し訳ない。それも、手作りおにぎりで倒れたなんてなったら……。
とにかく朝から何も食べていない鬼灯様のために、食堂からおにぎりを貰ってこよう。
待っててください、と返事も聞かずに執務室を出れば、何か言いたそうだった鬼灯様は口を閉じた。

食堂でおにぎりを貰いお茶を運べば、鬼灯様はようやく休憩してくれる気になったようだ。
何かきっかけがないと手を止めないから、来てよかったかもしれない。そうじゃなかったら、鬼灯様はお昼も食べないで働きそうだ。
おにぎりを頬張る鬼灯様を見ながら少し嬉しい気分になっていれば、もうこんな時間だ。

「あ、私は戻らなくては。適度に休憩とってくださいね」
「わかりました」

釘を刺すように言って身を翻せば、鬼灯様は私を引きとめた。振り向くと鬼灯様は私を見つめていた。

「今夜、一緒に食事はどうですか?」
「本当ですか?ぜひ!」
「仕事が終わったら寄ってください」

鬼灯様からのお誘い。もうずっと二人で食事なんてしてないかもしれない。
嬉しくて満面の笑みを浮かべれば、鬼灯様も少しだけ表情が和らいだ気がした。


***


約束どおり閻魔殿に寄って、鬼灯様と食事に出かけた。
付き合う前はよく色んなところに食べに行ったり、飲みに行ったり、私からも積極的に誘っていたと思う。
なんだか懐かしくて、手を繋いで歩く地獄の風景も少しだけ明るく見える。

向かい合って食事を共にし、こうしてゆっくり話すのは久しぶりだった。
あんなにあった仕事、鬼灯様は合間を見つけて私を誘ってくれたのだろうか。
嬉しいような、申し訳ないような。また鬼灯様に無理させたくはないけれど、でもやっぱり嬉しい。

「なんですか、さっきから表情がだらしないですよ」
「嬉しくて。最近は忙しくて家にも帰ってこないので」
「すみません。出来るだけ帰るようにはしてるんですが、どうしても名前さんの寝ている時間に出入りすることが多くて」
「いいんですよ。朝起きると、鬼灯様がいたんだなって温かさでわかります。それだけで一日頑張れるので、遅くても出来れば帰ってきてくださいね」

にこりと笑えば、鬼灯様は頷いた。
その後もたわいもない話を広げ、今日はそのまま帰る予定だった。鬼灯様も重要な仕事は終えてきたようで、久々にゆっくりできると零していた。

けれど、まだ食事が半分もいっていない頃、鬼灯様の携帯が鳴り響いた。
鬼灯様がふと険しい顔になって、申し訳なさそうに私を見た。電話の相手は閻魔様のようだ。電話を切ろうとする鬼灯様に、私は首を横に振った。

「急ぎの用事かもしれませんよ」
「どうせくだらないことです」
「何かあったら困るでしょう?」
「……すみません」

鬼灯様はそう言うと席を外した。
鬼灯様とどこかに出かけたり、こうして食事をしていると見計らったように鳴る電話。地獄の中枢を担う鬼灯様を頼る連絡は多い。刑場の事故、外交相手とのやりとり、何か問題があれば鬼灯様が出て行くのは当然のこと。
いつも途中で仕事に行ってしまう鬼灯様の背中は何度も見た。でも、寂しくはない。そんな背中も大好きだから。
また呼び出しだろうな、と簡単に想像できて、けれど久々に一緒に食事ができたから全然悲しくない。

表情を曇らせた鬼灯様が戻ってきて、彼は少し乱暴に椅子に腰掛けた。イラついているのか、私を見つめる瞳が少しだけ揺れていた。

「……すみません」
「いいですよ。今日は帰ってこられそうですか?」
「…この件が終われば、いつもより早くは」
「じゃあ、待ってますね」

いってらっしゃいませと微笑めば、鬼灯様は小さく頭を下げると唇を噛み締めながら店を出て行った。
どうしていつもタイミングが悪いのだろうか。これでは鬼灯様が私に気を遣ってしまう。私は全然気にしていないのに、鬼灯様の罪悪感だけが積み重なる。
あとで気にしてないことを説明しよう。いつもより早く帰ってくるという鬼灯様の言葉を胸に、私は一人で食事を続けた。



鬼灯様の言ったとおり、いつもより早く彼は帰ってきた。けれどその姿が少し頼りなくて、なんだか小さく見えた。
何かあったのかなと聞きたいけれど、一獄卒が仕事の内容なんて聞けない。
おかえりなさい、と出迎えれば、鬼灯様は何も言わずに私を抱きしめた。

「すみません、名前さん」
「今日のことですか?それなら私は全然……」
「名前さん、話があります」

そう言って私を見つめる瞳がいつもの鬼灯様とは違った。大事な話のようで、私はこくりと頷くと口を閉じた。
何を言われるのか皆目検討もつかなくて、ただただ鬼灯様が口を開くのを待つ。
沈黙が流れる数秒が少しだけ不気味で、何かを迷っているような彼の表情はどこかつらそうだった。
鬼灯様は一体、何を……。沈黙に耐えかねて聞こうとすれば、鬼灯様はようやく口を開いた。

「名前さん、お別れしましょう」

鬼灯様の口から零れたのは予想外の言葉だった。あまりにも予想していないことで、胸の奥に感じたことのない痛みを覚えた。

「どうしてですか?」

理由を震えそうな声で尋ねる。鬼灯様は私を見つめたまま話してくれた。

「私は名前さんを幸せにはできません。仕事を理由に名前さんにずっと我慢させてきました。今朝もおにぎりを作ってくれたのに手もつけず、食事に行っても抜けてしまう」
「私は全然気にしてないです。それを理解したうえでお付き合いしてるんです」
「あなたはそう言いますけど、私が耐えられないんです。何をしてもあなたは笑って許してくれるし、仕事をしている私を支えてくれている。でも、私は名前さんに何もしてやれない。何も言わないあなたに甘えているんです」

いつからだろう、鬼灯様が私のことで悩んでいたのは。
帰りが遅いことを気にして、デートの途中でも抜けることを気にして、会う時間が減っていくのを感じながら鬼灯様はどう思っていたんだろう。
私はひとときでも鬼灯様と一緒にいられることが嬉しくて、仕事でいなくなってしまっても、帰ってきてくれるだけでよかった。
一緒の布団に寝てくれて、朝はいなくてもその温もりに満足していた。
鬼灯様はそんな私の独りよがりに罪悪感を抱き、悩んでいたんだ。私がもっとちゃんと説明していれば、鬼灯様が思いつめることはなかったかもしれない。

「名前さんには私のような男ではなく、もっと相応しい方がいますよ」

それが本心ではなくて強がりなこと、私にはわかるのに。
鬼灯様にそんなことを言わせてしまったのがとても悲しくて、心が痛かった。目に溜まった涙が溢れて頬を伝った。

「鬼灯様、ごめんなさい」
「どうしてあなたが謝るんですか」
「私は鬼灯様のことが好きです。大好きだから、少しの時間でも一緒にいられるのが嬉しいんです。でも、鬼灯様につらい思いさせてごめんなさい」
「どうして、あなたは……」

一途に人一倍鬼灯様をお慕いしている。誰にも負けないくらい、鬼灯様のことが好き。
誰かに「どうしてそこまで」と言われたこともある。自分でもどうしてかわからなくなることもある。でも、それくらい鬼灯様のことが好きな証拠なんだと思う。
けれど、鬼灯様が決めたことなら私は黙って身を引くしかない。

「鬼灯様、今までありがとうございました」
「……私のほうこそ礼を言わなければなりません。名前さん、ありがとうございました」

涙が滲んで鬼灯様がよく見えない。鬼灯様はどんな顔をしているんだろう。
涙の止まらない私を、鬼灯様はしばらく傍で見守ってくれた。


***


鬼灯様とのお付き合いを解消して一ヶ月。鬼灯様が帰ってこない部屋にももう慣れた。まだ気持ちは鬼灯様のことでいっぱいだけれど。
もし鬼灯様が私のことを嫌いと言ってくれたら諦めがついたというのに。仕事場で顔を合わせるとまだドキドキしてしまう。
たまに飲みに誘われることだってある。鬼灯様もまだ、私のこと想ってくれているのだろうか。

「名前ちゃん、少しいいかな」

浮ついた思考は仕事に差し支えるため勤務中は考えないようにして仕事に集中すれば、閻魔様が私を呼び止めた。
なにやら話があるようで、声を小さくする閻魔様に私も耳を傾けた。

「ここだけの話、そろそろ第二補佐官の役職を作ろうと思うんだけど……」
「そうなんですか?」
「うん。鬼灯君の仕事量がすごいことになってるからさ。いつ倒れてもおかしくないでしょ?」
「確かにそうですね……」

それは痛いほどわかっている。今日も書類を提出したときに見た表情は、いつもよりもお疲れだった。
閻魔様が言うには、いつからか執務室に篭ってほとんど寝ずに仕事をしているらしい。その「いつからか」が私とお別れした時期と重なるから、余計に心配になる。
閻魔様は「それで…」と私を見つめた。

「第二補佐官に名前ちゃんをと思ってるんだけど、どう?」
「わ、私ですか!?」

突然の提案に私は素っ頓狂な声を上げてしまった。私は古株だけれど大きな職にはついていない一獄卒。そんな私を、どうして。
そんな疑問を感じ取ったのか、閻魔様はにこりと微笑んだ。

「仕事ができるのは当然だけど、鬼灯君との相性もあるでしょ?君なら申し分ないと思って。仕事は丁寧だし、鬼灯君からの信頼も厚いし」
「閻魔様……」

閻魔様は私たちの関係を知っている。別れたことも、その理由もきっと知っているだろう。
それを知った上で彼は私を第二補佐官にと提案している。少なからず私情は入っているが、それで上手くいくと地獄の王が言っているのだ。
気を緩めていると涙が滲んできそうだった。

「どう?すごくいい話だと思うけど」
「私でよければぜひ…!」
「じゃあ、よろしくね」
「ありがとうございます!」

最敬礼をする勢いで頭を下げれば、閻魔様は慌てて顔を上げさせた。
優秀な部下がいないと自分が大変だから、と閻魔様は冗談のように笑うと私もつられて微笑んだ。
私が第二補佐官になって鬼灯様の傍で働けるなら、もう鬼灯様を悩ませることもないかもしれない。私が一番傍で支えることが出来るんだ。

「まだ鬼灯君には言ってないんだ。悪いけど、伝えてきてくれる?」
「え、でも……」
「第二補佐官、初めての仕事っていうことでさ」
「は、はい!」

閻魔様に背中を押されて鬼灯様の執務室へ向かう。
ちょっぴり緊張して、付き合う前のときのようなドキドキが胸に心地いい。

「鬼灯様」

顔を上げる鬼灯様は、目の下に黒い隈を作って目つきも凶悪なものになっていた。最近獄卒が近づかないという噂も頷ける。
そんな彼に私はにこりと笑って見せた。我慢していた涙がこんなときに溢れそうだった。

「もう一度お付き合いしていただけませんか。今度は鬼灯様の一番近くで」
「どういう……」
「第二補佐官に、なりました」

さらに笑えば、細めた目から涙がひとつ零れ落ちた。
鬼灯様は驚いたように目を見開き、持っていたペンを手から落とした。口を開け、けれど何も言わずに立ち上がる。反動で机に積み重なっていた書類が落ちるが気にも留めない。
鬼灯様の表情が少しだけ歪んだ気がした。私が初めて見る情けない表情だった。

「名前さん、あなたって人は……」
「きっとこれからは仕事に悩むことも少なくなりますよ。そうすれば、すれ違うこともないです」
「そうですね」

鬼灯様はふらりと近づいてきて、私の体を抱き寄せた。私も精一杯鬼灯様の背中に腕を回した。
一ヶ月ぶりの抱擁が嬉しくて、温かくて、涙が全然止まらない。鬼灯様は私の顔を見ると呆れるようにため息をついた。

「いつまで泣いてるんですか」
「嬉しくて」
「メソメソしている部下には厳しいですよ」
「怖いですね」

ふふ、と笑いが零れて涙が止まる。少しやつれた気のする鬼灯様に「休憩しましょう」と提案すれば、彼は考えることなく頷いてくれた。
床に落ちた書類を集めながら机の上において、私の右手を握って執務室をあとにする。疲れているはずの鬼灯様の横顔がどこか嬉しそうに見えた。

「鬼灯様、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。名前さん」

そう言葉を交わして、握った手をさらに絡めた。
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