一目見たくて


彼と私では住む場所が違う。彼は地獄を支える閻魔大王の第一補佐官。かたや私は閻魔殿の清掃員をしているただのパート。
安い給料を貰って、それでも彼を一目見たくて就いた結構重労働な仕事だ。
廊下ですれ違ったり、掃除をしながら彼を眺めるのが私の唯一の報酬と言ってもいい。
彼に私は見えてはいないけれど、一目見ることができるだけでパートでも就いた甲斐がある。

今日もいつも通り掃除をして、彼の姿を探して、ひとつ違うのは厄介なものを見つけてしまったことくらい。廊下から見える金魚草の庭が少しだけ荒らされていた。
地面に葉や金魚の部分が落ちていて、走り去っていく猫の姿に納得する。金魚を見て好奇心に勝てず、つい金魚部分を持っていってしまうんだ。

「私もこれくらい食らいつけたらな」

当たって砕けろという言葉があるのだから行動くらいは起こしてみたいけれど、そんな勇気はない。彼は官吏で私はただの清掃員。接点を作ることさえ難しい。
茎から折れてしまっている金魚草を拾いながら庭の掃除を考えていれば、後ろから声が聞こえた。

「何ですかこれは。金魚草が」

その聞き覚えのある声に思わず心が跳ねた。振り向けばそこには鬼灯様がいた。
慌てて猫がいたことを伝えれば、鬼灯様は思案するように顎に手を置いた。
考える素振りをする鬼灯様をこんなに近くで見られるなんて、今日はついているかも。嬉しさが表情に出ないうちに早々に立ち去ってしまおうかと、持っていたモップの柄を握り締めた。

「困るんですよね。ここの金魚草は一応閻魔殿の研究対象として植えてあるので。また猫集会にでも顔を出そうか…」

その声を聞くだけでこの仕事をしていて良かったと思う。
これ以上近くにいるとこの気持ちが気づかれてしまいそうで、そっと立ち去ろうとした。
鬼灯様はそんな私を止めるように視線を向けた。誰でもない、私を見た。

「すみません、ここもお願いできますか。落ちてしまった葉や金魚を集めてくれるだけでいいのですが」
「は、はい」

今日は挨拶以外に二つも言葉を交わした。ただの事務的な会話だけれど、ものすごく嬉しい。
緩んでしまいそうな口元を押さえながら引っ張っていた清掃カートから箒を取り出す。
言われたとおりに葉や金魚を集めていれば鬼灯様が私の隣に並んだ。

「何か嬉しそうですね。金魚草、お好きですか?」

顔が緩んでいたのがばれてしまったようだ。
特に金魚草が好きなわけではない。ただ、好きな人が事務的でも話しかけてくれて嬉しいだけ。
鬼灯様の問いに少しだけ想いを込めた。

「好きです。何を考えているのかわからないところが」

ただの清掃員に丁寧に接してくれることが。その落ち着くような声が。
たくさんあるけれど、金魚草のことだと思ってもらえるようひとつだけ伝えた。
鬼灯様のことを見て言ったのがまずかったか、私の心拍数は今まで以上に早く苦しい。
鬼灯様が少しだけ驚いた表情を見せたのは、好みが分かれる金魚草を好きと言ったからか。
私を見つめるその視線から逃げるように箒を振るのを続けた。そんな私の名前を鬼灯様は呼んだ。

清掃員の名前を覚えているなんて、部下から慕われる理由がよく分かる。箒をぎゅうと握り締め、名前を呼んでくれたことに感激する。
この仕事、やってて良かった。鬼灯様には悪いけれど、金魚草の庭を荒らしてくれた猫には感謝しなくちゃ。
顔を合わせるのが恥ずかしくて、自分の顔が赤くなっているのを隠したくて、振り向きもせずに頷いた。

「あとで執務室の掃除もお願いします」

鬼灯様はそう言うと身を翻し戻っていった。
はい、と小さな返事は聞こえただろうか。私がこれっぽっちのことで喜んでいるなんて鬼灯様はきっと知らない。
また話せるかもしれないと期待を胸に、まずは庭の掃除に取り掛かった。
[main][top]

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -