地獄へ


一体どこから迷い込んでしまったのか、目の前に広がるのは色の少ない殺風景な場所。
ゴツゴツとした岩や枯れ木。ちらほらと見えるのは炎と、地面には骨のようなもの。じめじめとした気候はあまりいい気分はしない。
なんだか現実味のない空間に目を奪われていた。
そんな私の後ろから低い声が聞こえた。

「何してるんですか」

恐る恐る振り向けば、黒い着物を着た背の高い鬼がいた。
鬼がいた?鬼?

「お……」

額に一本の角を生やした鬼が、鋭い目つきで私を見下ろしている。
手には金棒を持っていて、誰が見ても一発でわかる鬼でした。
あまりの驚きに声が出ない。私は一体どこに迷い込んだのだろうか。
庭にあった近づいてはいけないという井戸を、興味本位で覗いてみたらこんな状況だ。

「今あなた降ってきましたよね。もしかして人間ですか?」
「に、人間です……」

私の返事に鬼さんがさらに怖い表情になった。
た、食べられる…。
逃げようと思って足に力を入れてみるも、腰が抜けてしまい立ち上がることもできない。
鬼さんは近づいてきて私と視線を合わせるようにしゃがみこんだ。

「どうやってここに?」
「わ、わかりません。井戸を覗いたらここに」
「他にもそういう場所がありましたか…」

一度確かめたほうがよさそうですね…と呟きながら、私を立たせてくれた。
それでも足に力が入らずふらりとバランスを崩す。転ぶ、と思ったら鬼さんが支えてくれた。
そのたくましい腕や体にさすが鬼なんだと感じる。
お礼を言おうとして見上げたその顔に、どきりとした。

「大丈夫ですか。もしかして立てない?」
「あの…腰が抜けちゃって」

情けないと思いつつも伝えれば、鬼さんはため息を吐いて私の体を抱えた。
ふわりと体が浮いたと思ったら鬼さんの小脇に抱えられ、漫画などでよく見る光景にまさか実体験をするとは思うまい。
そんな軽々と持ち上げて、片方では金棒を担いで。
一体どこに行くのかはわからないが、思わずこの鬼さんにときめいてしまった。
かっこいいだなんて、自分の命の危機かもしれないのに。
そこで重要なことを思い出した。一体ここはどこだろう。

「あの、ここはどこですか?」

鬼さんを見上げれば、彼は私の目を見て短く言う。

「地獄です」

と。
地獄といって思い浮かべるのは、なんだか悲惨な光景と地獄のボスという閻魔大王。
あとは…炎とか血の池とか針の山とか……。
抱えられながら見える景色には、イメージするような炎や血、針の山が見えていた。
そういえば地獄には獄卒といわれる鬼がいたような。
まさしく自分を抱えているのは鬼。すれ違うほかの人もみんな鬼だ。
心なしか遠くからは苦しみに叫ぶような声も聞こえていて、確かにここは地獄なのかもしれないと妙に納得してしまう。

あの井戸は地獄に繋がっていたのだろうか。本当に私は地獄に来てしまったのだろうか。もしかして、死んでしまった?
急に不安になってきて、気がつけば視界に映る景色が変わっていく。
鬼さんが私を立たせるように体を起こしてくれた。

「そろそろ自力で歩けませんか。重いです」
「おっ…重いって、金棒持てるなら私くらい…」
「いや、何かの拍子で投擲したら困ると思って。ほら、ああいうぬるい拷問してる獄卒見ると叱責したくなるので」

そう言って鬼さんは持っていた金棒を獄卒目掛けて放り投げた。
それはもう完璧なフォームで、確実に獄卒にヒットするのだ。

「ああはなりたくないでしょう?」
「はい……」

大人しく歩きます。というか、ものすごく痛い光景が目に入ってくるんですけど。
本物の血とか、あんな量を見たことはない。どうしよう、気分が悪くなってきた。
鼻をつく臭いは鉄のような臭いで、地面にはさっきの場所よりも骨や乾いた血のような跡がたくさんある。
骸骨なんて見つけた日にはもう、悲鳴を上げたくなる。どうか、夢であって欲しい。

顔を隠しながら歩いていれば、ふいに腕をつかまれ引き寄せられた。
その力強さにまたときめいた気がした。

「前を向いて歩きなさい。ふらふらしてると亡者ともども首を落とされますよ」

私の頭の横を通っていった何か。恐る恐る後ろを振り向けば、亡者といわれる白い服を着た人が、頭に斧のようなものを刺して倒れていた。
なんともグロテスク。ときめいている場合ではない。私には刺激が強すぎて見てられない。
次の瞬間、私は意識を手放した。


***


気がつけばまた誰かの脇に抱えられていた。見上げてみればさっきの鬼さんで、景色は何かの建物の中だった。
私が起きたことに気がついた鬼さんは「大丈夫ですか」と一言声をかけ、私を立たせてくれた。

「せっかくですので地獄の刑場を通って戻ってきたんですが、どうやら刺激が強すぎたようですね」
「刑場ですか…本当に地獄でした」

もう精神的にも肉体的にも疲れ果てていて早く帰りたい。
鬼さんは無表情だけれどどこか楽しそうにしている。
さすが鬼だなぁなんて考えながら、大切なことを聞かなくてはならない。

「私は帰れるんでしょうか」
「大丈夫ですよ。帰してあげますから」

鬼さんはそう言うと廊下を歩き始めた。
ここはどこなんだろう。大きな建物のようで廊下や柱の装飾が綺麗だ。
やがて大きな扉の前までやってくると、鬼さんはその扉を開けた。
その部屋にいたのは、とても大きな人だった。

「あ、鬼灯君どこ行ってたの。これできたよ」
「お疲れ様です。で、そっちの書類は?」
「え?これが終わったから休憩…」
「さっさと終わらせろ」

がつんとまたしても金棒を振るった。
この人偉そうなのに、鬼さんは容赦ない。
びくびくと震えながら二人の様子を見ていれば、大きな人が私を見つけて首を傾げた。

「誰?新しい亡者?」
「いえ、彼女は人間です。迷い込んでしまったようで」
「それ大丈夫なの?早く帰してあげなよ」

大きな人は慌てたように鬼さんに言う。
鬼さんは「わかってます」と言いながら私に大きい人を指して見せた。

「これが閻魔大王です」
「え……」
「これって君ねぇ…」

唐突に紹介された閻魔大王。思わず驚きの声が漏れる。
だって、全然イメージしていたのと違うから。
閻魔大王って怖い顔してて、地獄行きとか決めてて、嘘を吐いた人の舌を抜く人で…。
優しそうな閻魔大王に、部下であろう鬼さんの扱いに拍子抜けだ。

「やっぱり威厳ないですよね。こんな閻魔ですからね」
「鬼灯君それどういうこと?こんなってなんだよこんなって!」
「せっかく地獄を見せてきたので、閻魔大王もと思って」
「聞いてる?鬼灯君」

鬼灯君と呼ばれる鬼さんは私に説明してくれた。
ありがたいことだけれど、私は早く帰りたい。
こんな非現実な空間にやってきて、素直に地獄めぐりなんてできやしない。
うるさい、と一発殴られた閻魔大王は静かになった。
俯く私に鬼さんは向かい合った。

「すみません。怖かったですか」
「は、はい…」
「いつもなら問答無用で現世に送り帰すのですが、ついあなたをもてなしたくなって」

鬼にとっては人間に地獄を紹介することをもてなすというのだろうか。見せられたほうはたまったものじゃない。
けれど、悪気がないのは本当なのかもしれない。
鬼さんは立てない私を抱えてくれて、巻き込まれそうだったところを助けてくれた。
不覚にもときめいている私は確かにもてなされている。

「いくつか聞いてもよろしいですか」

最後に、というように鬼さんが尋ねてきた。
これでもう帰ることができるのかと思うと私も顔を上げて言葉を待った。

「書類仕事は得意ですか」
「え?あ…仕事は事務ですから、得意です」
「では、虫は大丈夫ですか」
「虫?虫は…実家が田舎なので多少は」

一体何の質問かわからない。
戸惑いながら答えていれば、鬼さんの後ろで閻魔大王も困惑していた。
鬼さんはふむふむと腕を組みながら考えている。

「あとはそうですねぇ…ホラー映画などを見て血が大丈夫にしておいてください」
「あの、どういうことですか」

ぱちりと鬼さんと目が合う。はじめに見たときと同じその鋭い目つきに心を射られたような気がした。

「死後、ここで働いてもらおうと思って」
「ええっ!?」

私が驚くよりも先に閻魔大王が声を上げた。
鬼さんは鬱陶しいというように後ろを振り返る。

「いいの?そういうの」
「別に構わないでしょう。死後ですから」
「まあ、そうだけど…」
「怖がる彼女を見ていると、どうも加虐心が芽生えるというか…いえ、ただ純粋に興味を持ったというか…」

なんだか鬼が言ってはいけない恐ろしい言葉が聞こえた気がする。
私は死んだら地獄に来るということですか。天国にはいけないのだろうか。
死ぬ前から行き先が決まっているなんて、これから先どう生きていけば…。
鬼さんは再び私を見ると言葉を続けた。

「ちょうど直属の部下が欲しいと思っていたところで。どうですか、死後安泰ですよ」
「地獄なのに安泰ですか」
「福利厚生ばっちりのホワイト企業ですよ。まあ、現世でいう公務員みたいなものです」
「ホワイトなのかな……」

後ろで閻魔大王が不安なこと言っているけど大丈夫かな。
死んだあとも地獄で働かされるなんて嫌だけど、この鬼さんとならと思ってしまうのは、どうしてだろう。

「しっかり働いてもらいます」

というその言い方にどこかブラックな要素を感じたけれど、少しだけ魅力を感じた。
気がつけば頷いて話を聞いている自分がいる。

「では、あなたの死後は閻魔庁の第一補佐官の部下。そうですね…役職は考えておきます。働きによれば第二補佐官も夢じゃないですよ」
「第一補佐官というのは鬼さんのことですか」
「そうです。閻魔大王の第一補佐官です。まあ、官房長官みたいな立ち位置です」
「すごい鬼さんだったんですね……」

この鬼さんすごい人だった。確かに閻魔大王に金棒振り回して、私の死後を勝手に決めていたし…。
なにやら書類を引っ張り出してきた鬼さんは、それをクリップボードに挟めてボールペンと一緒に差し出した。

「項目どおりに記入してください。それと、私は鬼灯です。以後お見知りおきを」
「あ、私は名前です」

粗末な自己紹介をしながら書類に名前などを書いていく。出来上がったそれを鬼灯さんに渡せば、承認の判子が押された。
さらにそれが閻魔大王の手に渡り、閻魔大王も捺印した。

「これいいのかな…」
「いいんですよ別に。問題があれば彼女をどうにかすればいい」
「うん…本人の前で言わないであげて」

鬼灯さんがすごい不気味で、閻魔大王のほうが優しく思える。
私の死後は果たして安泰なのだろうか。地獄のトップとその補佐の二人に見つめられて精一杯笑って見せた。


その後、無事元の場所に帰ることができた私は、何かの呪いにかかったのか数年後に死んでしまった。
きっと鬼灯さんの呪いに違いない、と短い人生に幕を閉じたのだ。

「早かったですね」

地獄で迎えてくれた鬼灯さんは、少しだけ驚いたように言った。
鬼灯さんのせいで寿命が縮んだと言ったら、「そんな力ありませんよ」とあしらわれた。本当かは人間の私にはわからない。
それでも、懐かしい感じのするこの地獄で彼らと働くことに少しだけ期待に胸を膨らませた。
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