転生申請


地獄には十箇所の裁判所がある。
一般人は基本的に入ることはできず、獄卒や裁判を受ける亡者がやってくる。一般人、つまり獄卒ではない者は許可が必要で、天国に住んでいる亡者も例外ではない。
しかしその亡者、名前はなんの迷いもなく閻魔殿へと足を踏み入れた。
真っ直ぐ法廷へ向かうと、鬼灯の目を盗んでサボっている閻魔に声をかけた。

「名前ちゃん、くれぐれも鬼灯君には内緒で…」
「わかってます。それより私の転生の件なのですが…」

閻魔相手に物怖じせず進言する。
現世で十分に生きられなかった名前は転生を望んでいた。しかし名前は何年経っても転生できないでいた。既に転生できるほどあの世にいるというのにだ。
それを相談するのに直接閻魔の元へやってきたのは数年前。今ではすっかり顔馴染みだ。
閻魔は転生を願っている名前の思いに応えてやりたいが、それには一つ問題があった。

「申請はしてるんだけどなかなかねぇ…」
「順番があるのはわかってます。こうして頼んでいるのもルール違反なのかもしれないですけど、やっぱりもう一度現世で生きたいんです」
「名前ちゃんの気持ちは十分理解してるんだけど、こればっかりはわし一人で決めることじゃないからさ」
「そうですよね…」

転生できないのには何か理由があるのかもしれないと、名前は閻魔の優しい対応に頭を下げた。
亡者個人にこうして手を焼いてくれるのがどれだけ特別なのかはわかっている。
だから転生できないことを当たったり、理由を聞くことはしない。けれどできることなら取り計らってもらいたいのだ。
複雑な気持ちを抱えつつ「もう少し待ってみますね」と名前は笑った。
いつもこうしてとぼとぼと法廷をあとにする姿を閻魔は何度も見ていた。
だから閻魔自身はどうにかできないかと思ってしまう。転生できない理由を名前が知ったら何と言うだろうか。

「転生の許可を出さないのが一人いて、その人が頑なに判子を押さないんだよ」
「そうなんですか。嫌われてるんでしょうか、その人に」

冗談を込めて肩を竦めた名前に、閻魔は首を横に振った。その逆なのだ。

「名前ちゃんに転生してほしくないんだよ。転生しちゃったらもう会えないから」
「え?」
「鬼灯君。彼、よく名前ちゃんに会いに来るでしょ?」
「鬼灯様が…?」

閻魔の口から出た人物に名前は思い出す。
天国で暮らしている名前は何不自由なく暮らしているが、刺激というものが少々足りないところだった。
そこに現れたのが鬼灯で、よく地獄へ連れて行ってもらったりいろんな話をしたりと変わらない毎日に色をつけていてくれた。
鬼灯が閻魔の補佐官だということも、色んな権力を持っているのも知っている。
転生の話をしたときもあったが、鬼灯は決まって「取り計らってみます」と言うだけで、確実な約束はしないでいた。
その理由が名前に会えなくなるということなら、珍しく曖昧だった返事も頷ける。

「でも、鬼灯様はそういうことは言ってませんでしたよ。私に会いに来てくれるのだっていつも仕事のついでって」
「鬼灯君は肝心なことを言わないからねぇ…いつもは一言も二言も多いのに」
「鬼灯様がそんなこと思っていたなんて…」
「名前ちゃんはどうなの?鬼灯君のこと」

名前にとって鬼灯はただの友人に過ぎないのだが、そう言われてしまえば心は揺らぐ。
それくらい心を許していた人でもあった。だから少しでもそういうことを認識してしまえば傾くのは早い。

「わ、わからないです。だって、鬼灯様はいつも少しだけ話して、少しだけ一緒にいてくれて、少しだけ…」

忙しいのにわざわざ時間を作って会いに来てくれる。寂しいときに見計らったように、欲しい言葉をかけてくれる。
これのどこがただの友人なのだろうか。
やりたいこともできずに死んでしまいあの世に来て、寂しさと後悔に沈んでいた名前に声をかけた。その少しだけの時間はどれだけ名前の心の支えになっていただろうか。
気がつけば名前の目には涙が溜まっていた。

「閻魔様、私やっぱり転生は…」

口を開いた名前は閻魔に再びお願いする。しかしその前にその言葉は飲み込まれた。
ちょうど鬼灯が法廷へやってきたのだ。鬼灯は名前を見るなり転生の件だとすぐに理解した。

「また転生のことですか。仕方ありませんね…」

もうどれくらい足しげく閻魔殿に通っているだろう。鬼灯は名前の心情を察してやれないほど子供ではない。自分の気持ちが一方通行だということも知っている。
鬼灯は懐から転生の申請書を取り出すと閻魔に手渡した。そこには鬼灯の許可を意味する判子が押されていた。

「鬼灯君、これ…」
「私もいつまでもわがままではいけませんからね」

そのやりとりで名前はそれが転生に必要な書類だと理解する。閻魔は名前をちらりと見ると紙を見せた。

「どうする?」
「大王、どうするも何も名前さんは転生を望んで」
「いいです。転生はしません」
「名前さん?」

あんなに転生を夢見ていた名前がそれを目の前にして首を振った。
鬼灯はどういう心変わりなのかと名前を見つめた。

「本当にいいの?やっぱり転生したいって言っても、またしばらくかかるよ?」
「はい。まだここにいたいです」
「じゃあこれはいらないね」

びり、と閻魔は書類を破いた。鬼灯は状況が飲み込めないまま顔を顰めた。
せっかく自分の気持ちを押し殺して、悩みに悩んで判子を押したというのに、それがあっさり破り捨てられてしまったのだ。
気がつけば名前は鬼灯のことを見つめていて、何かを伝えようとするその意思に鬼灯は黙ることしかできなかった。

「転生したら鬼灯様のこと忘れてしまうんですよね。今までのこと全部忘れて、もう鬼灯様と会えないのですよね」
「…はい」
「それを考えたら、転生する気なくなってしまいました」

鬼灯の手を取りながら小さな力でぎゅっと握り締める。
まだ驚いたような顔をしている鬼灯に名前は濡れた瞳を輝かせた。

「私は鬼灯様と一緒にいたいです」
「それは…」
「今の生活が一番だって今気がつきました。転生したらまた一人になってしまう」

一からまた始めなくてはいけない。そしてそこに鬼灯が関わることはない。
名前はようやく自分にとってどれだけ鬼灯が大きい存在か気がついたのだ。

「私は鬼灯様のことが好きなのかもしれません。やっと気がついたのに、転生なんて嫌です」
「……私がどんな思いでいたのか知らないで」
「鬼灯様?」
「地獄へ引きずり落としますよ。天国は退屈なんでしょう?」

地を這うような低い声に閻魔は身を震わせる。しかし名前は動じることもなく笑顔を向けた。

「鬼灯様がいるならどこへでも」

やっと気づいた気持ちに正直な名前に、鬼灯もいつもの調子とはいかない。
それきり黙ってしまった鬼灯は誤魔化すように名前の頭を小突き法廷を出て行く。
不機嫌な背中に涙目になりながら頭をさする名前は、困ったように閻魔を見上げた。

「怒らせてしまったでしょうか。わがままばかり言って」
「照れてるんだよ。本当は嬉しいと思うよ」
「それならいいのですが…」

不安と期待に戸惑いながら、名前はそっと胸を撫で下ろした。

その後、閻魔殿では鬼灯とともに働く名前の姿が見られたとか。
天国にいたときよりも生き生きとするその姿は、名前の本来の姿だろう。
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