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Remind me not, remind me not



小さな顔に深く鋭く刻まれた、桃花眼がゆったりと瞬きをする。騒がしく俗物な凡ゆるものから、常に遠く離れたところに彼女はいるようであった。
拘束された両手はどうにかなりそうだったが、この状況は多勢に無勢であった。田舎を走る、国道近くの朽ち果てた教会にカークはいた。その白い顔に数回ほど殴られた跡があり、鼻や口からは血が流れ、顎や首筋に伝っている。カークの事業や率いていた組織もみな数年前に解体し、有り余った金と共に一人ひっそりと余生を過ごしていた。彼らに抵抗する気力も体力も、その身体には湧き出ては来なかった。恨みや妬みなど今までに幾らでも買って来た。そのツケが来たのだとカークは自身を嘲笑した。そしてそれらを彼らに晴らしてやろうと、一切を許していた。あれ程までに渇望した命は、今ではもう荷物になってしまった。いつ訪れるか分からない死を一人で待つというのは、望外、辛い事である。カークは最後にサラに会いたいと心底思った。生きているのに、彼女に会えない事が耐えられない。あの時、自分は愛しているの一言も言わずに離れた。その事をずっと悔やんでならない。しかしカークは一切を隠した。彼女が幸せに生き、彼女に苦悩の涙を流させてはならぬ故に、何かを打ち明けた事はなかった。今更に言葉を告げて、彼女の胸の楽園を地獄とすべきではない。カークは痛みに眉間に皺を寄せ、目蓋を閉じた。灰色の影のある瞳を持った、不幸な若い女。私にとっては、何と輝かしい想いだったろう。君がどんな人であろうと、どんな人になってしまおうと、嘗て愛しくも私一人のものだったに違いない。いや、正しく私一人のものであったのだ。
サラ。サラ・バラデュール。さらば、とこしえにさらば。我が命なる君、私は君を……。
一発の静寂な、氷の刃宛らの銃声が、アレグザンダー・カークの耳にだけ届いた。

部屋の扉を閉めた反動で、脇に抱えてあった資料をその場に散らばらせてしまった。提出されたレポートや追試験の解答用紙が改めて視界に入る。サラはその場に両膝を付いた。幸福に満ちた人生。そんなものが此処にはあるだろうか。数年前に見たカークの事を思い出すと、彼女の心はまたしても疼いた。この私が、命をかけて守ろうとした人。この私が、心から幸せを願った人。彼は今、どうしているだろうか。世界中にその名を轟かせ、猛威を揮っているだろうか。健全な身体を手に入れ、彼は更なる事業に手を付けているだろうか。床に散らばった資料を右手だけで集める。その姿を客観的に見たところを想像すると、何だか自分が滑稽に思えた。そんな事は毎日思っている事だが、今は余計にそう自覚せざるを得なかった。すると、その場に通りすがった人が同じように資料を拾ってくれた。
「すみません」
そう言って顔を見上げると、其処にいた彼は何度か病院へ見舞いに来てくれた教授であった。生物学者で花に詳しく、毎回稀有で美しい花を持って来てくれたのだ。勤勉で慇懃な為、誰からも親しくされていた。だがいつまで経っても結婚をしない。その理由をサラは何となく知っていた。
「いえ。もう直ぐ学祭ですね」
「早いですねえ。先生のゼミは今年は何を?」
「ちょっとした食べ物を出店しようかと」
サラはこの男性が去年、何を催したのか覚えていなかった。学祭には参加したのだろうが、何処で何をし、何を考えていたのかを思い出せない。この数年、教師としての時間しか過ごしていなかったにも関わらず、陥没したようにこの人生には何の思い出もないように思われた。
「楽しみですね」
「是非、来て下さい」
「A棟前です」と男性が付け加え、柔らかく微笑んだ。サラは男性と別れ、学祭に向けて装飾された廊下を歩いた。教師であるこの従容な人生が本物ではないと感じた。この人生の中で例え幸せを手に入れたとしても、きっと自分は此処を居場所にしないだろう。もう一つ対極にある、惨澹で氷の如く冷たい人生が、自分の本当の人生だとサラは思った。やはり今も昔も、この胸に抱くのはアレグザンダー・カークただ一人であった。