×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -

Illuminate the pain



「お主、ちと顔色が悪いが大丈夫でござるか」
唐突に注がれた豪雨の中で放たれた錦えもんの案ずる声に、サラはハッと顔を上げた。雨が草木や地面に激しく当たる音にも消されることなく、彼の低い声がその耳に入った。そしてその声が、雨によって奪われつつあった体温を取り戻そうとしてくれるようであった。柔らかな熱が、胸の奥で密かに強まる。サラにとってそれは疾うに別れを告げたものであった。しかし、このような状況でも彼が自分に対して、その優しげな眼差しを注いでくれた事に彼女は気付き、愕然とした。
「こんな冷たい雨初めてで」
サラはそう答えながら視線を再び下げた。その際に見えた、一枚の薄い着物から覗く筋肉の付いた厚い胸。その硬い皮膚の上を水滴が次々と流れ伝っていた。頑健なその身体は寒さなど微塵も感じていないようであり、力強く大地の上に佇立していた。
「彼処なら雨は当たるまい。止むまで休むとしよう」
「いえ、大丈夫です。このまま船まで走れますから」
サラは俯いたまま、その場から去ろうとした。だがそれは叶わなかった。「待たれよ」と錦えもんがサラの腕を包むように掴んだのだ。
「サラ殿、拙者はお主に何かしただろうか」
下を向き、目を合わせてくれぬ娘を見詰める。一体どんな表情をしているのか。己が触れている細く冷えた腕が、より一層頼りなく思える。そしてあの日より、彼女からの慇懃な眼差し一つ向けられない。それが錦えもんにとって無量に不安であった。
「お主に悪い事を、しただろうか。だがそれが一体何なのか、何度考えても分からんのだ。お主は拙者を避けておる。拙者は……拙者はそれが苦痛でならんのだ」
苦痛、という言葉に己の心臓が大きく反応した。そうだ、これは苦痛なのだと錦えもんは認識した。
「お主に気安く触れた事でござろうか。無礼な質問をした事であろうか。拙者は、」
続ける言葉が見つからなかった。
「違います、違うんです」
サラは激しく打つ心臓から何かが湧き上がってくるような違和感にも、この身体に隙間なく当たる氷宛らに冷たい雨にも辛くなっていた。否定をした彼女の声には生気が失われていた。錦えもんは己を見上げた彼女の蒼白した表情を見た。今にもこの場に崩れそうであった。錦えもんは半ば無理矢理にサラの手を引っ張り、沈黙したまま、巨大な岩の陰へと移動した。この娘には好いている男がいるという。若く、年頃の娘だ。そのような男がいても不思議ではない。だのに、己の心はあの日から消えぬ嫉妬の焔に焼かれ続けている。その事実をこの娘は知らない。錦えもんはサラに全て分からせたいと思った。如何に己が傷付き、苦しみ、己の気持ちに無理に決着をつけようとしているか。どれもこれも彼女の事ばかりである。目の前の女に、愛する女に、己というものを分かって欲しかった。
「手を離して下さい」
「それは出来ぬ。お主の答えを聞くまでは、離せぬ」
薄暗い陰の中でもサラの持つ明眸が、錦えもんの目に映った。彼女の手は、錦えもんが少し力を加えれば粉々に折れ、更に力を加えれば千切れそうな柔な手であった。最後に触れたあの時は、この手を酷く丁寧に扱い、無上に愛おしく大切に思っていた。だが今はどうだ。今はあの時とは少し、違う。錦えもんは目眩を感じた。そうだ、拙者は怒っている。勝手に失望し、勝手に腹を立てているのだ。
「錦えもんさんは悪くありません、何も」
「では何故そのような、泣きそうな顔をする」
雨の滴が前髪から頬へと流れ落ち、寒さから微かに唇が震えており、まるで本当に泣いているようであった。
「拙者の前だけだ。他の者と共にいる時はそのような顔はせぬ」
錦えもんはサラの伏せられた美しい瞳をじっと見続けた。
「拙者が、嫌いか」
その時、二人の視線がぴったりと出合った。錦えもんは驚く程に憧れ渡ったような優しい目をして、真面に彼女の眼を見つめていた。彼のその黒い目は、サラが愛してやまないものであったのだ。
──そうだ、私はあなたなんて大嫌いだ。
「錦えもんさんの方こそ、私に対してどうしてこんなに優しいんですか?」
サラはその目に征服されたにも関わらず、その事実を払い退けた。
「どうして?私がもし避けていたとしてもあなたに何の問題があるっていうんですか?あなたたち親子と私の目的は違います。どうしてそんなに私を気にかけてくれるんですか?」
あなたにはモモの助くんがいる。モモの助くんがいれば、あなたはもう何もいらないのでは。サラの一粒の涙が、雨の滴と共に流れた。
「それは、」
言えない。未だ言うべき時ではない。
「……違うのだ、」
錦えもんの小さな、今にも壊れてしまいそうな弱々しい声がサラの耳に届いた。彼の無上に苦しそうな表情を、サラは初めてその深緑色の双眸に映した。錦えもんは掴んでいたサラの右手を優しく持ち上げ、彼女の手の平に己の額を当てた。言葉が出ない。どうしたら良いのか皆目分からない。ただこの心の内にあるものをそなたに、全て分かって欲しい。ただそれだけなのだ。
──サラ、どうか、
錦えもんが口を開いたのを見たサラは、その彼の手を振り払い、沛然たる豪雨の中へと走り去って行った。樹木や草花が静かに亭亭と並ぶ中を、泣きながら走る。早く出て行って欲しい。この私の心から、早く、何処か遠くへ行って欲しい。彼に触れられた右手が異常に熱い。この強烈な雨によってでも、この情熱は奪えないようだった。そして、別れを告げた筈であった彼に対するこの気持ちも、消えてなくなるどころか益々大きく、重くなって行くのをサラは自覚せずにはいられなかった。
彼女を止める術はない。夥しく降る雨に濡れた身体は冷え切り、それらが身体の中へと侵食し始めている。隙間なく雨に満たされた重い身体を動かす事は、今の錦えもんには出来なかった。そして夢が覚めたように、先程の悪夢のような一連の出来事を思い返した。そなたを愛してしまったのだ。それ故の愚かな行動であったに過ぎないのだ。己のものになって欲しいと切望するも、この先に存在する己の目的。その為ならば命は惜しまぬと覚悟を決めたのだ。拙者を愛して欲しい。だが彼女の為を思うと、その男との幸せを願う他ないのだろう。だが、それがどうしても出来ない。彼女が己のものにならぬのなら、無理矢理にでも己のものにしたい。彼女がその男に微笑み心を焦がすのなら、その男を斬り殺したいとさえ思う。狂ってしまっているのだ。彼女を思うと己の自制や目的に霧掛かり、己の想いを彼女に分からせたいという衝動に駆られるのだ。そんな事をしても、決して報われはしないと見えているのに。愛する女の美しい微笑と共に崩れていく何かを錦えもんに止める事は出来なかった。陥没し、暗闇だけが残された彼の胸にも、遂に冷たい雨が流れ渡った。

Hurts - Weight of the World