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I will miss you when I’m gone



いつかしたように、カークは大学の傍にあるベンチに腰掛けていた。前に此処へ来た時には、今日のように深く息を吸い、漂う潮の匂いを感じる事も、夜空がこんなにも鮮やかに色付いている事実に気付く事もなかった。熱で朦朧としていた頭は敏捷とし、心臓は力強く血液を末端にまで押し流している。昨日私は死に、そして生まれ、此処にいるのだ。カークは此処から第二の人生が始まるように感じられた。自分一人ではなく、彼女と共に生きる人生が──カークは傍に置いてあった箱の表面を、穏やかな熱を持つ指の平でそっと撫でた。

「サラ」
カークの呼び掛けに優しく微笑んだ彼女は、カークの脳梁を震わせた。高鳴る心臓、更に温かくなった指先に、カークはそのサラの灰色の双眸を見詰めた。だがその表情はいつになく疲れていた。
「これを君に」
カークは持っていた箱をサラに見せた。日焼けをしていない、細く白い右手にそれが収まる。彼女の、自分を見上げた表情には微かな戸惑いが見られた。何年も一緒に仕事をして来たが、こうして物を贈るのは初めてであった。「開けても?」と彼女が嬉しそうに聞いて来た為、カークは小さく頷いた。箱を開けると其処にあったのは時計であった。
「前の物は、私が駄目にしてしまったから」
サラはその時計を見て、前にしていた時計を思い出した。気に入っていた為に何度か洗ったが、隙間に入り込んだ血は取れなかった。処分しようか迷ったが、あの時計を見る度に彼を思い出した。難病で死に瀕した、不幸な大富豪を。サラは物には頓着しない質であったが、その時計は未だに持っていた。身に付けてはいないが、大切に箱の中に入れてある。サラはゆっくりと瞬きをした。その彼が、奇跡的に回復して今、自分の目の前にいる。顔色も良く自信に満ち溢れ、真っ直ぐに自分をその蒼い目で捉えている。随分と昔に見た、初めて出会った頃のアレグザンダー・カークが此処にはいる。サラは静かに、だが確かに湧き上がる歓喜を犇と感じた。これ以上の幸せがあるだろうか。生き長らう彼はこれからの人生を再び、思うがままにする事が出来るのだ。サラにとってこの事が、自分の幸せのように思えた。
「嬉しいです。ありがとうございます」
サラは微笑んで、箱を閉じた。私は多分、貴方を愛していたのだと思う。貴方の病気が治る事、そして貴方の幸福をいつも祈っていた。
「カークさん、」
だが其処に私はいない。私は貴方を愛するけれど、貴方は自由であって欲しい。サラは小さな箱を胸に抱えた。心臓が大きく脈打った。もう彼の名前を口にする事はない。ただ私は彼の名前を大切にするだけだ。
「私、仕事を辞めます」
貴方を見ていると途轍もなく辛いのだ。貴方を通して何の役にも立たない自分を見るのが、無上に苦痛に思う。此処から続く、絢爛たる人生を貴方は生きる筈だ。その人生に私は不要である。サラはカークの双眸を見詰めた。彼の知るサラの明眸は、輝きを失っていた。
カークにはそれが永遠の別れを告げるものと分かった。仕事を辞めるとは、今後一切の関係を持たないという事である。過去に起こった事実は全て無になり、出会った事のない他人になる。カークの吐息が微かに乱れた。一緒にこの国を出よう。新たな地で私と一緒に生きよう。これらの言葉は、静かに彼の胸の奥底へと沈んで行った。
「そうか」
君の胸の痛むのを、私は好まない。
「今までご苦労だった」
私が今生きている時間は、君からの贈り物だ。そんな君の胸が痛むのを、私は好まない。
「ありがとう」

サラは駐車場へと向かった。視界が涙で崩れ始め、俯いたまま道のりを歩いた。仕事を辞めた今の自分に意味なんてないと思えて、サラは逃げるように車へと足を運んだ。左腕が使えなくなった為に新しい車に買い替えた事を、車を見る度に思い出した。クラッチを踏む事も、ギアを頻繁に変える事ももうない。サラは強く抱えていた小さな箱を助手席に置き、エンジンをつけ、大学を出た。彼から段々と遠くなって行く。これが別れなのだ。もう一生、会う事はないのだ。今夜はあの夜のように、静かで、美しくて、そして無上に悲しかった。彼は最後まで、優しかった。彼を守る事が出来て良かった。それが、私の最後の仕事だったのだ。溢れ出る涙をそのままに、震える右手でしっかりとハンドルを握ろうとしたが、上手くいかない。彼が護衛も付けずに此処まで会いに来て、私の運転する車に乗った。彼は無言で、この黒い海を眺めていた。
「大丈夫、大丈夫、」
彼が柔らかな眼差しを自分に注ぎながら、ハンドルに手を添えてくれる姿がこの眼に浮かんだ。

The Midnight - Los Angeles