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色素の薄いカークの睫毛が、病室に差す日光によって透けて見えた。その睫毛に覆われた、一瞥の強い彼の蒼い目が、寂寥を帯び静かな輝きを放っていた。『まさか君が、こんな目に遭うとは思ってもみなかった』と厳かな声で言った彼のあの眼差しを、サラは忘れる事が出来なかった。
「この車、格好良いですね」
サラが指差した車をカークは見た。それは黒塗りで威圧感のあるスポーツカーであった。赤や黄色といった目を引く、如何にもスポーツカーらしい車ではなく、彼女の愛車と似たようなフォルムの車であった。子供みたく雑誌の頁を捲っては笑顔を浮かべるサラの姿を、カークは初めてその目に映した。
「車の雑誌を買って来たのは正解だった」
カークは特に優しく注意深くサラに応対した。彼女の傍に座って、ごく単純なつまらぬことを話しながら、カークはその喜しげな瞳の輝きや微笑みに見惚れていた。それは話そのものの為ではなく、内なる幸福の為に浮かぶ微笑みであった。サラの左側にあるテーブルの上には、水が入ったグラスが置いてあった。それを取ろうとサラは動く右手を伸ばした。
「私が取ろう」
カークは椅子から立ち上がり、自分と反対側にあるそのグラスに手を伸ばした。その際に漂った彼の匂い。死にゆく身体とは思えない、心地良い香りがサラの肺に入った。グラスを受け取ると、カークと目が合った。無上に柔らかな、清らかな視線にサラは自然と微笑んだ。正にこの日が、人生で最良の日だと思った。彼の魂が直ぐ此処にある。彼を人間たらしめているものが。私は十分過ぎる程に幸せだった。彼と仕事が出来て、彼と過ごす事が出来て。私は彼に、幸せにして貰ったのだ。今もこれからも、この事は変わらない。
「ありがとうございます」
サラはそのお礼の言葉に全てを込めた。彼のような人は、恐らくもういない。そして、これ程までに自分が崇め、大切にした人は恐らくもういない。私は私なりに貴方を思ってきた。ここまで随分と長かったが、そろそろ終わりなのかも知れない。サラは彼の優れない顔色を見て、無性に彼も自分も可哀想に思えた。
サラが持つ彫刻宛らの灰色の双眸が、自分を映したのが分かった。その際、特にカークは、彼女の臆病な美を飽きる程眺めた。私は恐らく、いや、明日には死ぬだろう。この身体も、もはや呼吸する事すらままならない。彼女と過ごす事が、この私にはもう出来ない。カークには十分と分かっていたが、その胸に長年染み渡り続けた絶望と渇望とが、死を目前にして今にも溢れ出しそうであった。しかし彼の蒼い眸に映っているサラの姿が、彼女の眩しい明眸が、そんな自分を宥めているように感じられた。今、自分に流れている残された僅かな時間が無上に愛おしい。未だ嘗て知らない喜びに満ちた、自分にとって全く縁のない、一種特別な世界がサラの内に変わらず存在しているのをカークは感じた。人間は力のある内に、自分の自由を利用しなくてはならない。幸福になる為には、幸福の可能性を信じなくてはならない。血の気の通っている内に生を楽しみ、幸せな人間になるのが肝心なのだ──じんわりと温かくなった胸の元で何もかもを、カークは忘れる事が出来た。
カークは病気の事を一切話さなかった。ただ彼は、ややその険しい顔立ちに和やかな表情を浮かべていた。彼は、何を思っているのだろうか。彼は、何を考えているのだろうか。これが彼と会う、最後の時になるのだろうか。その時、カークの端末が鳴る音がした。視線を逸らしたカークが口を微かに開いた。だが彼は何も言わず、名残惜しそうにそのまま部屋を出て行った。

カークは生きる選択をした。レディントンが提示した選択は、彼に過去からの一切の解放と希望を齎らした。全身が高熱に震えていたが、自分ではそれと気が付かなかった。俄かに押し寄せて来た溢れるような力強い生命感が、彼の身体のその隅々まで、ある新しい、大らかな感覚で満たしていたのである。この感覚は、死刑を宣告された者が、不意に思いがけなく特赦を言い渡された時の感覚に似ていた。何の躊躇いも、何の後悔もなく、ただ一つその胸に抱いたのはサラであったと今更告げるまでもない。私の心は今もなお君に纏わっている。君が、この私を迎える事があるだろうか。サラ、君と離れていて、何処に幸福があるだろうか。カークはそっと目蓋を閉じた──魂にかけて、今も君の姿が見える。

Bobby Caldwell - What You Won’t Do for Love