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Shine like diamond rings



カークから電話がかかって来たのは一昨日の事である。恐らく仕事の依頼であろう。それは実に数年振りの事であった。どんな仕事だろうか。今まで彼は私に危険な仕事を任せた事はなかった。接近戦や銃撃戦が見込まれる仕事は何一つなかった。いつだって騒音の外に配置され、静まり返った高台から射撃するのだ。身支度を終えたサラは等身大の鏡の前に立った。冴えない顔をしているであろう自分と視線を合わせる。仕事を受ける度に、これで自分は死ぬ事が出来ると思う。何処からか銃弾が飛んで来て、自分の頭を通過するのを待っている。病に侵されている彼に、自分の寿命を捧げる事が出来たら、良いのに。腕時計を見ると分針が殆ど進んでいなかった。家を出るには未だ早かったが、構わずにサラは車のキーを手に部屋を出た。家のガレージのシャッターを開け、静かに待機している車を佇立して眺めた。あの日まで一度も、この車に人を乗せた事がなかった。助手席から見える景色は、一体どんなものだったろうか。乗り心地は良かっただろうか。サラは腕時計を見た。家を出る時刻であった。日曜日という事もあって通りは賑やかであった。市場で買い物をする人々、テラスで雑談を楽しむ人々がいた。昼は比較的温暖で、上着を脱いでいる人もいた。サラはこのような風景の中に自分がいるのを想像した。日曜日に誰かと一緒に出かける。日常を忘れ、空いた一日の時間を誰かと過ごす。誰かと──日光の眩しさに細めた灰色の瞳を彼らから引き離し、サラはアクセルを踏んだ。

通された部屋からは中庭が見えた。手入れされた中庭に暖かな陽が差し、咲く花々の馥郁たる香りを放っているようであった。サラはその景観に、自らの故郷を思い出した。此処に比べ、故郷の冬はそれほど寒くはなかった。冬でも今日のような温かな陽が差し、そしてまた直ぐに夏が来るのだ。身体の芯まで熱されるような暑い夏が。サラは出された温かな紅茶に口を付けた。そしてもう一度ファイルに目を通し、それをガラステーブルの上に置いた。
「報酬だ」
カークはそう言って、そのファイルの上に革の鞄を置いた。
「まだ終わっていませんよ」
サラは膝の上で持っていたティーカップを、ソーサーごとテーブルの上に置いた。すっかり暖かくなった両手を無意識に握り締め、傍に立っているカークを見上げた。
「君が失敗した事はあるか?」
数年前に受けた数々の仕事を思い起こす。失敗しなかったのは彼のお陰である。わざと私に失敗するような危険な仕事を依頼しなかったのだ。それが、どういう意図なのかは分からないが。
「これからの事は分かりません」
そう言ってサラは立ち上がった。金があっても、自分が幸福だと思えるものの為に使わなければ意味がない。サラは何に金を使っても、どんな事に金を使っても、満足は出来なかった。金ではないのだ、自分が欲しているものは。
カークは少し倉皇していた。サラの表情がいつもと違う為であった。疲労は見て取れなかったが、何か別の事に気を取られているように見えた。そして思わず「サラ」と彼女の名前を呼んだ。名前を呼ばれ、此方を見上げる彼女の傷一つない顔に、カークは指先が暖かくなるのを感じた。
「君さえ良ければ、」
君は予定がない日が辛いと言った。恐らく今日一日の予定は既に埋めているだろう。だがもし良ければ一緒に、私と一緒に──しかし、その先の言葉は出なかった。自分の右手の指先からポタポタと滴が垂れているのを、カークは見下ろした。
「カークさん?」
彼が無言で床を見ている。その視線を巡ってサラも床を見ると、そこに小さな血溜まりがあった。その真上には彼の右手。それには真っ赤な血の筋が一本、流れてあった。カークが再びサラを見た時、彼の身体が大きく崩れた。まるで拳銃で撃たれたように身体に力がなくなり、その場で膝を折った。サラの両腕が自分を支えようとしたのをカークは見たが、大きな身体をその小さな身体で保つのは不可能であった。幸い、彼女のお陰でガラステーブルに頭を打ち付ける事はなかったが、カークはそのまま床の上に横たわった。今此処で死ぬのはよしてくれ。もう少し、もう少し。驚いているサラの表情が直ぐ近くにあった。彼女も床に膝を付いて、カークの血塗れになった手を握っていた。
「サラ、」
カークは後少しで意識を失うのが分かった。彼は覚束ない右手でサラの頬に触れた。私は君が、君だけが──柔らかな宝石宛らの瞳。汚れのない透き通った虹彩。その綺麗な眼を開けていてくれ。そしてその眼に私を映してくれ──僅かな力をも失った手が彼女の頬から離れ、鮮やかな赤色がその白い肌に走った。
「カークさん」
その手をサラが毅然と掴んだ。焦点が朦朧とし始め、彼女の存在をはっきりと認識する事が出来ない。しかしその明眸だけは、カークの脳裏に迫った。
「大丈夫です。助かりますよ」
欺瞞も虚偽もない鷹揚な声に、カークは眠るようにして意識を失った。君がそう言うなら、そうなのだろう。伝わって来る熱い彼女の体温に、カークの望むもの全てがあった。

怖いものなど私には何一つなかったのだ。私は正に、青銅の心と大理石の顔とを持った男だったのだ。それが今や、病魔に侵されたただの男である。余命僅かで、幾ら苦悩を払ってみても天国へ行く当てもない。カークは何度か瞬きをし、蒼い虹彩を持つ瞳を開けた。そこは病室であった。一定した機械音が鳴っており、右腕には輸血の為の管が刺し込まれていた。そしてベッドの左側にはサラがいた。身体を此方に向けて椅子に座り、左腕をベッドの上に乗せたまま眠っていた。サラは腕時計をしていた。グリーンの盤からイエローゴールドのベルトにかけて厚い血の膜が張っており、殆ど時刻が見えない。カークは鉛宛らの重い左手を、彼女の華奢なその手に重ねた。人を殺め自分を守ってきた、その小さく淑やかな手に自分から触れるのは初めてであった。倒れた時、自分の汚れた手を握ってくれたのは他の誰でもない、彼女であったのだ。その手に僅かに触れた瞬間、カークは思わず息を呑んだ。若さと可能性に満ち溢れている。普通に生きて、幸せになる事が出来る。嘗ての自分がそうであったように。カークはその手を優しく包み込んだ。だがその彼女が、自分から遠く離れて幸せに生きるなど、今のカークには想像する事が出来なかった。彼女は未だ自分のものであって欲しい。そう懇願する心が、日々カークの中で強くなっていくのであった。