×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -

White lie



大学は海峡の傍にある為、潮の匂いが漂っていた。船の低い汽笛が響き、暗くなった校舎の窓には月光が差している。カークはベンチに腰掛け、ライトで照らされた正門を眺めていた。すると一人、半ば駆け足で門を潜り、道に出てきた女がいた。黒革の手袋をし、身体を小さくして駐車場の方へ向かっている。カークは座っていたベンチから立ち上がった。久し振りに見るサラは、何一つ変わってはいなかった。
背の高いカークの姿に気付いた彼女は、その場に立ち止まって視線を緩やかに向けた。寒いのに、何故上着一枚なのだろう。此方へ近付いて来る彼は痩せていて、何かに憂悶しているように見えた。
「いつから其処に?」
護衛も付けないで、とサラが言うと、血の気のない表情が微かに目を細めた。最近、仕事の依頼はない。スナイパーとして一時期請け負っていたが、それも彼がこのようになる前の話である。──病気だろうな。サラは静かにそう思った。
「古い大学だが、夜になると美しい」
そんな弱々しい外見に反して、優しく力の籠もった声だった。そうだった、この声を彼は持っていたのだった。
夜空には星が煌めいていた。此処から見える景色は、まるで黒い海とでもいったようであった。そして、憐光の波とも見える夥しい燈火をちらつかせていた。それは正に波だった。それは荒れ狂う大洋の波よりも更に騒がしく、更に激しく、更に揺れ動き、更に狂おしく、更に飽く事を知らない波。大海原の波といったように静まる事を知らない波。絶えずぶつかり合い、絶えず泡立ち、絶えず全てを呑みこまずにはいられない波──。
駐車場の奥には数人の若い生徒がいた。エンジンをかけたまま、飲料を片手に何やら話している。サラの事を知っていた一人の生徒が手を振る。すると、彼女は少し手を上げて挨拶をした。
「どうぞ」
カークが見下ろすと、彼女の手の平にあったのは車のキーだった。直ぐ傍に鎮座している黒塗りのスポーツカーが、己を足先から頭の毛先まで凝視しているように思えた。
「……君が運転してくれ」
運転する気力も体力も、今のカークにはなかった。
「冗談ですよ」
彼女が持つ、灰色の瞳が意地悪そうに笑った。彼はともすればその表情に何か異常な、神秘的なものを見た気がした。つまり、ある特別な力とか偶然の暗合が働いたように感じてしまうのだった。先程の彼らは想像もしないだろう。この女性が、まさか殺しを本業にやっているなど。運転席に乗ったサラはキーを差し込み、エンジンをかけた。地鳴りのような排気音が鳴り、サイドブレーキに手を添えた。
「何処か寄りますか?」
メーターの隣にある時計は21時を過ぎていた。此方を見ている彼女の表情には微かな疲労さえも感じない。
「いや、」
カークがそう応えると、サラはサイドブレーキを下ろした。この瞬間、彼は、一切の人間と一切のものから、自分の存在を鋏で切り離しでもしたように感じた。ただ此処に存在するのは、自分とサラだけであると。
クラッチの繋ぎで緩やかな加速を繰り返す。二本の脚で古いスポーツカーを完璧に操作する彼女の横顔を、カークは見た。目が覚めるような美しい顔立ちだが、この世の幸せとは無縁の人間であった。
「今日は、帰って何をするんだ」
音楽やラジオの代わりに、車内にはエンジン音が流れていた。このエンジン音が彼女の心臓の音でもあるのだ。そう思うと、この体内を流れる他人の血が、許される限りの清らかさで澄み渡ったようであった。
「レポートの添削とか資料の作成とか……明日は仕事があるのでその準備も」
その仕事とは本業の方である。
「忙しい方が好きです。予定がない日が辛くて」
彼女の従容とした声が更に加わる。すると背後から、凄まじい音楽を響かせる数台の車が近付いて来た。サラはそれらに気付く事もなく、ただ一定の速度を保っていた。見ている世界は同じ筈である。残酷で、峻厳な世界。だが彼女にとっては、全く違うものなのかも知れない。二人を追い抜いた騒音が行く先で小さく鳴り、カークは応えた。
「私も同じだよ」
カークは欄干に頬杖を付きながら、月光に輝く豊かな水面を、流れに沿って無言のまま眺めた。この世には幸福もあり不幸もある。そしてただ在るものは、一つの状態と他の状態との比較に過ぎないという事である。極めて大きな不幸を経験した者のみ、極めて大きな幸福を感じる事が出来る。
「今日はすまなかったな」
「いえ」
いつでもどうぞ、という冗談は言えなかった。
「おやすみ」
そう言って車を降りる彼は、確かに死にかけていた。助手席のドアが閉められ、カークは家の方へと歩いて行く。
「おやすみなさい」
サラは静かに応えた。人間には死ぬ義務がある。勿論彼にも。だが、もう少し──サラはクラッチを思い切り踏んだ。思い詰めた彼の表情が、助手席の窓に映っていた。
護衛が門を開けている間、カークは振り返ってサラを見たが、彼女はいなかった。微風はとっくに止んでいた。枯草は一本ずつ直立して、針金のようであった。一本の針金が震えるような音を立てると、空気の中を震え伝わりながら微かになって行き、微かになって消えてしまうと、辺りは全て死のように静まる。カークは歩きながら、その脳裏に彼女の姿を想い起した。美しい灰色の眼の中で溶けあっている崇厳と謙抑の表情。死にゆく身体を巡る血の中に、彼女の血が流れるのを見た。