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Death and sweet music



仄かにかかる灰色の儚き歌を、懐かしく聴き入るサラに見惚れる。レコードの表面を滑らかに動くカートリッジ。錦えもんにとってそれは初めて見る品で、どうして音楽が鳴るのか仕組みが分からない。だが彼女が静かに聴いているものだから、彼も黙って聴いた。はっきりとした目鼻立ち。長い睫毛から覗く深緑色の眼。彼女と視線が合った。広いソファーに二人で座り、互いの間にレコードを置いていた。この時に初めて距離が存外に近かった事に気が付く。「この歌は?」と錦えもんは今更ながらに聞いた。互いの息を感じる距離のまま、二人は話し始めた。
「これは民謡です。私の国の」
優しくも慈しむ、古き世の歌。サラがしなやかな指でレコードをなぞった。
「良く祖母が歌ってくれて」
彼女が微笑みかける歌が錦えもんの魂に落ちていく。遥かな果てにある彼女の国。秘かに溢れ漲る愛しさが齎した錦えもんの、サラを見詰める眼差し。何を君は求める。この世に何を求める。彼女が持つ、深緑の虹彩がまた己の脳梁を震わせた。なんと高尚な、優婉たる瞳であろうか。錦えもんは緩やかに視線をそらし、手元に数枚あるレコードを見た。やや古びた紙の表面には文字と絵が書かれてあった。だがその文字は錦えもんが今までに見た事のない文字で書かれてあり、読めなかった。描かれてある絵には一組の男と女。どちらも異国の服を着ており、互いの身体を密着させていた。
「気になりますか?」
淑やかな声。彼女の声はいつだって無上に錦えもんを安心させる。
「差し支えなければ、是非聴きたいでござる」
サラがレコードを替える所作を目で追った。小さな手なのに指が長く細い。傷一つない女子の手。爪は綺麗に短く切られており、若さ故の自然な光沢がある。何故君は海に出ようと思った。何故海賊になろうと思ったのだ。錦えもんの耳に届いたのは先程の音楽とは一変した、軽快な音調。
「これはジャズというんです」
「じゃず?」
「そうです」とサラは笑って応え、ソファーから立ち上がった。表情からして楽しそうに見えた。
「錦えもんさんはダンス、した事ありますか?」
「だんす」
恐らく先程絵で見た類のものだろう。幾多の異国の地へと足を踏み入れた為、度々見た事があった。
「いや、我が国ではそういった文化がない。どういったものなのでござるか?そのダンスというのは」
彼女が生まれた国にある文化なら興味がある。彼女もあのように楽しく踊ったのだろう。誰一人、暗い顔をしている者を見なかったのを錦えもんは思い出した。「立って」とサラが言った。錦えもんはそれに従う。
サラは更に高鳴る心臓を感じた。また彼に触れたい。彼が持つあの心地良い温もり。確認したい、とも思った。あの時感じた良さは、果たして本物なのか。今日は脚の痛みも、薬の副作用もない。
「右手を私の腰に当ててください」
「ハッ!?」
「腰です」
サラは笑った。視線の先に錦えもんがいる。彼は忙しなく視線を泳がせていた。だが彼女に言われるがままにサッとサラの腰に手を当てた。だが腰と手の間に薄い空気が入っているような、そんな曖昧な触れ方だった。彼は自分よりも年上なのに、何だか年下を相手しているようであった。
「次は左手で私の右手を掴んで、」
「つ、掴む……こっこうでござるか?」
今度は勢い良く、力強く掴んできた。錦えもんの顔が少し赤くなっている。そして視線は相変わらず合わない。だがそんな彼により一層心を躍らせているのがサラであった。彼の体温が高い。昨日感じたものよりもずっと。けれどそれも結局、自分を安心させるものであった。勘違いなどではなかったのだ。この人が好きなんだな、と思う。
「サラ殿、」
「なんですか?錦えもんさん」
「いや!何でもござらん。続けてくれ」
これからが本番だというのに、その前から挫けそうになっている。目の前にいるのが己の心寄せる女であるから余計、堂々と触れる事が居た堪れない。サラの感触、声、香り。この前の夜に感じたものと同じ。己を見上げる、彫刻のような美しい顔。しっかりと己の目を捉えて離さない深緑。君の夢は何だ。君が持つ哲学、至福とはどんなものだ。
「上手ですね」
音調に従って、彼女に従って脚を動かす。恐らく、この間に互いの視線を合わせるのだろうが、今は到底出来そうにない。錦えもんはいつかしたようにサラを強く抱き締めたかった。
「こうやってダンスをしながら話したりするんです。私の国ではパートナーは恋人に限らず、友人や家族、その日知り合った人とダンスするんです。一晩に何度もパートナーを入れ替えて、色んな人と仲良くなるんです」
錦えもんは想像した。彼女の国。彼女の国が持つ言語。人々。音楽。その中にいる、綺麗な服を着た女。誰の目にも留まる程の美しさを纏う一人の若い女。白い肌に薔薇色の唇。そこから覗く白い歯。細い顎に華奢な首。楽の音に酔いしれ、身体を揺らす。異性と目配せをし、手や腰に触れる。そして互いに微笑み合い、何かを感じ取る。傍にいるサラを錦えもんは見詰めた。君を愛したいから全てを教えて欲しい。
サラは遥か昔の記憶を辿った。気候に恵まれた美しい国。豊かで歴史のある温厚な国。だが子供の頃に見たそんな風景は、今の故郷にはない。陽気で聡明な故郷の人たちは、いない。この文字を使っている人も、いない。戦争に負け、何もかも奪われてしまった。敵国の言語で挨拶を交わし、敵国の建築物が町中に立ち、敵国の音楽が流れる。サラは無意識の内に脚を止めた。驕慢な支配に血を流し続けたこの心が、今やこの短く尊い生にしがみ付き、崇める事を学んだ仲間と生きているのだ。深い諦めと死しかなかった世界が、欺瞞も虚偽もない世界になったのだ。古びた幸福や不幸と別れ、寂寥やその他一切もこの心には、ない。サラの眼に錦えもんの姿が映る。
「お主には今、心を寄せている男がいるか」
軽快な音楽に乗った言葉。錦えもんは彼女の腰に当てていた手を離し、僅かに距離を取った。
「はい。います」
心を遠くに通わせている言葉。その言葉が錦えもんの胸に突き刺さる。すう、と冷えていく熱と視界の色。彼女と過ごしたあの日々が全て幻想であったように。唯一サラに触れていた手からは彼女の体温さえ感じる事が出来ない。
「それは……そうでござったか。その男はどのような人物なのだ、お主が……惚れている男というのは」
心が震えた。無意識の内に己の幸福の住処としていた彼女の眼が、恋心以外の何物も隠していないという風に。彼女の存在を繋ぎ止めていたものが悉く切れ、酷く遠くの別世界へ飛び立った風に。己が彼女に溺れている間、既に彼女の心は誰かに捧げていたという。錦えもんは掴んでいる彼女の手に力を込めた。
「強い人です。それでいて優しくて、」
私が海に落ちた時、命懸けで助けに来てくれた人。船番を一緒にしてくれた人。輝く月を見上げたあの夜。何とも逞しいあの胸。何とも狂おしいあの手。空の色は余りに青く、余りに優しく、空気は余りに甘かった。そして何よりこの心が恐れるのはあなただ──これが私の持つ身の心。太陽の暖かさも、滑らかな風の香りも、あれにもこれにも、あなた以外の全てに、私はもう飽きてしまった。
「……このような私事を女子に聞くなど迂闊であった。すまぬ」
刃物で心臓を貫かれる宛らの痛み。それは根元まで食い込み、血さえも出ない。終わり。それが目に見える。錦えもんは彼女から手を離した。
<愛してる>という母語の音が脳裏に流れた。あなたの目的は私たちとは違う。だから直ぐに別れる事になる。その時に後悔しないように。私はあなたを愛さない。幸せになって欲しいから、愛さない。離れていく体温にサラは俯いた。レコードからは何も流れては来ない。

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