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Cries and whispers



「君はこれをどう見る?」
額当の影の中にある、大きく鋭い双眸が私を見ている。小雪は無意識の内に深呼吸をした。頭の中で次々と上がった事柄を整理して、それらを順序よく口から出す。苦手な作業でもないのに吃る自分に嫌気が差す。どうもこの人の前だと自信がなくなる。今回も同じように感じながら小雪は最後に小さな声で「だと思います」と括り、鶴見を見上げた。彼は小雪の説明に相槌を打ち、途中で遮る事なく最後まで聞く。そして鶴見はフッと満足げに笑って見せた。形の良い口髭が動き、痩けた頬左右均等に皺が出来る。小雪は鶴見の目から視線を逸らし、自分の手元にやった。広い部屋にゆったりと響く低音の声。賞賛の言葉に小さく苦笑して見せ、小雪は窓の外を見た。薄黒い雲の向こうに青い空があった。

堂々と一定の速度を保って歩く軍人の後ろ姿を二階の窓から見下ろす。乱れのない整えられた黒髪。長身で身体も大きく、品の良さが滲み出ている優雅な男。後ろ姿だけは、と小雪は少し可笑しくなった。鶴見が庭園を抜け、門に辿り着いた。艶のある、良く手入れされた馬が木の陰から現れた。鶴見は使用人から手綱を受け取り、鐙に足を掛け騎座に跨った。そして鶴見が小雪のいる部屋を一瞥した。外からは見えない筈だと分かっていながら小雪は立っていた窓の傍から退き、壁で咄嗟に身を隠した。彼の目。何一つ感情が読み取れない。小雪は硬直した右手を左手で右ポケットの奥へと突っ込んだ。

膝の上に開いていた本が落ちた。反射的に利き手である右手が出たが、本の側面を撫でるだけで一向に掴むことが出来ない。苛立ちと共に失望がふつふつと沸くのを感じる。一番良く知る感情なのに未だに一々反応する。小雪は右手をそのままに左手を伸ばそうとした。今度から必ず右手はずっとポケットの奥に入れておこう。不要な物だ。
「君のおかげで進展したぞ」
角張った、脂肪のない大きな手が本を拾った。驚いた小雪は勢いよく鶴見を見上げた。感情の処理に梃子摺っている間に既に彼は近くにいたのだ。太陽が鶴見の後ろにある。逆光で彼は黒く、表情が見えない。
「それは良かったです」
小雪は笑顔を繕い、左手で本を受け取った。鶴見は目の前にいる女の事を考える。彼女は大脳が悪い。恐らく先天性疾患であり、脈の間に出来た異常な血管の塊が破裂する。脳は未知数なものであり、覚悟を決めて開頭手術をしても良い結果にはならないだろう。高い確率で失敗し、何処かしら不随になるか、言葉を失う。逃げる形での手術をするにしても現代の日本の技術では難しい。もう少し後に生まれたら、その右手は動き、医師として生きていけただろうに。鶴見が小雪の隣に腰掛けると、小雪は自分の足元を見ながら言った。
「鶴見さんがこうやって会いに来て下さる事、私本当はすごく感謝しているんですよ」
鶴見は瞬きをした。そして彼女の言葉を待つ。
「その時だけ医師になれるから」
小雪はそんな鶴見を見た。今の自分は何者でもない。何の価値もなく、ただ麻痺しているだけの右手に苛立ちながら生きている。だが鶴見と出会ってそんな時間が少なくなった。医師として過ごした短い時間の中で培った経験や知識を鶴見は必要としているからだ。彼はただそれだけを求めている。
「それは良かった」
鶴見のニッコリと笑った表情を見て小雪は前を向いた。そして右手を膝の上に置いた。