×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -

Lost in



勝手に開けた窓から汽笛の音が入って来る。黒い海より藍色の夜空の方が近い。いい所に住んでいるが、本人曰く海は好きではないらしい。サミュエルは整理されている机に置いてある分厚い本を手に取った。他の物とは違ってこの本は特別汚れてあり、ページも水分が乾き皺になっている。ヘロドトスと彫られたスペルをサミュエルは指でなぞった。漆黒の髪から覗く銀色の瞳。彼女はいつもこれを持っていた。肌身離さず。サミュエルは一度読ませて欲しいと彼女に言ったことがあったが、見させて貰う事はなかった。サミュエルはそれを開き、ページとページの間に挟んでいる物を見た。手紙やメモ、サラが描いた絵などを取り出し目を通す。彼女は絵は上手だが字は綺麗ではない。怪しい筆記体が陳列し、それに加えいろんな言語が入り混じっている。サミュエルは解読するのを辞めた。残念なことにそこに写真は一枚もなかった。──そういえばあいつ、写真も嫌いだとか言ってたな──だが最後のページに一つだけあった。写真ではなかったが、前回仕事を一緒にした時にサミュエルがサラに渡した物だった。酷い地図だと我ながら思った。膝の上で描いた適当な地図が何故サラの本の中にあるのか。存在も忘れていたし、用が済んだらすぐ捨てるであろう(俺ならそこら辺に捨てる)物が何故。彼女の足音が聞こえた。そして扉の前で立ち止まり、鞄を漁っている。鍵を探しているのだろう。サミュエルはそれら全てを本に挟み、本を元の位置に戻した。そして煙草を取り出しそれに火を点け、背後に広がる夜景を眺めた。彼女に嫌われるのだけは避けたい。
「今度からピッキングして入るの禁止」
鞄から取り出した鍵をサラはまた鞄に仕舞った。そして部屋の電気を点けた。サミュエルは窓の縁に肘を付いている体勢で振り返った。少し髪が伸びたか。重そうな鞄と革の上着を掛け、キッチンへ姿を消した。深緑色の壁紙に木製の家具。そして本棚に収まり切らない程の本。それに躓き、何冊か蹴飛ばして仕舞った。
「どうして」
サラが水の入ったグラスを二つ持って来た。サミュエルはそれを受け取りながら聞いた。彼女のもう片方の手には煙草の箱と灰皿。彼女は吸わなかった筈だ。よく見てみるとまだ箱の封は開けられていない。サミュエルは差し出された灰皿に吸殻を落とした。
「海に面した方の窓を開けておくから」
「落ちたらどうすんだよ」
合わない視線。身長差だけではない。彼女はサミュエルの煙草を挟んでいる指を見ている。窓から入って来た微かに潮の匂いのする肌寒い風がサラの髪を揺らした。額から頬にかけてある傷が現れる。サミュエルの言葉に笑って見せたサラの表情を上から見た。
「それで今日は?」
喋るのが苦手なのかただ好きではないのか。色んな言語を意のままに操る人間なのにも関わらず。サミュエルはそんなことを考えながら吸い終わった煙草から指を離した。サラは灰皿を持ったまま、サミュエルの返答を待っている。彼女からの質問といえばそれぐらいである。彼女は決して好きな食べ物や色など聞かない。誰にも。
「今日は顔を見に来ただけだ」
「?」
「じゃあな」
ようやく合った視線を数秒絡ませてサミュエルは窓から出た。何を考えているか分からないあの銀色の瞳は忘れられなくて、相変わらず綺麗だった。彼女の嫌いな海を背に、地面へと下って行く。見上げれば彼女がいそうな気がして、サミュエルは煙を吐くように息をした。

Dua Lipa - Lost in Your Light