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The depths



地面がゆらゆらと揺れている。そして潮の匂いが鼻をつく。連想したものは決して自分が好まないものだ。ガイは目を開けた。鉛色の厚い雲。遠くの隙間から辛うじて姿を現わす淡い青色の空。見渡せば帆柱が目に留まった。汚れ一つない白色の帆はやや強めの風に煽られ膨らんでいる。艇体はとても不安定だった。嵐になるのも時間の問題だ。ガイは縁に手を添え顔を上げ、進行方向を見た。艇体の前部に小雪がいた。膝に本のような物を広げているが彼女は進行方向の水平線を見ていた。
「小雪」
彼女を呼んだ瞬間、ガイは腹から何か込み上げて来るのを感じた。何か、ではない、さっき食べたカレーだ。ガイは咄嗟に口に手を当て小雪を見た。彼女は本を閉じ、何か術を唱え始めた。だが間に合わずガイは海に向かって嘔吐した。止まることのない揺れ。絶対に船酔いをするということを自分の脳に植えつけてしまっている。小雪はそう思いながら身体を震わせているガイに近寄った。
「幻術だよ。ガイがどうしても見たいって言うから」
そう言った事を激しく後悔しながらガイは自分の肩に手を置いた小雪を見上げた。するとたちまち吐気は消え、すっかり沈んでいた気分も直った。ガイは改めて見渡した。海しかない。黒い海に浮かぶ小さい舟。あるのはそれだけ。これが小雪の夢なのか?ただの悪夢ではないか。
「確かにガイにとったらここは地獄だね」
思い出深い場所だが、それは自分だけである。小雪はそう思いながら少し笑って言った。ガイは完全に膝を付いている。
「もう一段階下がってみる?」
ガイは首を傾げた。夢のまた夢、ということだろうか。小雪は続けた。
「今度はガイの夢にするから、楽園を築ける」
夢というものは天地創造、自分の世界を目に見える形で簡単に創ることができる。誰もが入り浸りたいと思うだろう。この目の前の男、ガイも例外ではない筈だ。
彼にお前の幻術を見てみたいと言われた時は正直躊躇った。今まで一度も同じ里の人間にかけたことはないし、かけたらかけたで虜になってしまうのも面倒だったからだ。あくまで自分の記憶の整理に使っていた物だ。だが幻術というものはかけると側から見ればただ眠っているだけ。ガイに説明をしても見たいの一点張りである。結局小雪は折れた。
「お前は来ないのか」
「ここにいるよ。起こす人が必要だから」
小雪は横になるようにと言った。揺れる舟の上で思わずガイは眉を寄せると小雪は構わず自分の額に指一本触れた。途轍もなく不安だったが間に合わず、勝手に瞼が閉じられ何も見えなくなった。

自分の家だった。自分のベッドに腰かけている。何処にあるか分かっている時計を見ると朝だった。いつの間にか開けられているカーテン。ガイはカチャリと開いた扉を勢いよく見た。そこから流れて来る匂いに朝食を連想すると入って来たのは小雪だった。ガイは彼女が昨夜ここに泊まったのを思い出した。
「ガイ?起きた?」
寝癖も服の乱れもない、何もかも完璧な彼女が立っている。自分の好きな笑顔を浮かべて。何故彼女はそんな嬉しそうなんだろうか。満面の笑みだ。面白いことがあったときにする表情。たまにするんだ。その表情が好きで堪らない。
「今日は折角の休みだから、一緒に出かけようって約束したのに」
「そう、だったか」
ガイは小雪の手を取った。そして彼女を見上げる。彼女が俺の額にキスをする。そういえば約束した。出かけるのは余り好きじゃないけど、俺となら何処へでも行きたいと、そう彼女は言ったのだ。そして小雪は俺の手を握り返し、俺の隣に腰かけた。俺の目をしっかりと捕らえている。
「どうしたの?」
夢を見ているみたいに幸せだ。確かに幸せだ。心がこんなにも満ち足りている。だがこれは夢だ。やっと気付けた──ガイは小雪の手を放した。

地面は相変わらず揺れている。ガイはゆっくりと目を開けた。すぐ近くには小雪がいた。潮風で髪が揺れている。ガイは上半身を起こしながら両目を指で押さえた。
「頭痛がする?」
「ああ、」
この男は自力で起きた。ほんの数分で夢だと気づいたのだ。
「夢を見させるとみんな虜になるのに、なんでだろう」
小雪は思わずそう口に出していた。この術をかけると基本起きないものだ。夢の中では時間の経過が早い。あっという間に数年、数十年経つ。だが中には本体が餓死するまで見続ける者もいた。何度も自分の世界を作り直しているのだ。夢の中で死ぬ事はない。ただ零になるだけで失うものはない。小雪は分からなかった。自分もこの術の虜だからだ。今は亡き両親や友人なども全て自分の夢の中で生きている。回想でもあるし、共に自分と歳を取ったりもする。
「俺は欠点のあるお前を知っている」
ガイはすっかり固まっている小雪の頬に手を当て、視線を合わせて言った。
「起こしてくれ」
一刻も早くここから出たい。ここは地獄だ。そう言うと小雪は笑った。自分の好きな表情だ。

大きな波に陸へと押し上げられるような感覚。ガイは浮遊感に目を開けた。そして窓から差す橙色の光に目を細めた。小雪の部屋だ。
「これは現実だよ」
隣を見ると彼女が横たわっていた。少し疲れた顔をしている。
「信用できない?」
小雪は俺の頬を摘んで意地の悪そうな表情をした。そうだ。俺はこの表情も結構好きなのだ。普段の彼女からは想像もつかないお茶目な表情。怒ったり、文句を言ったりするところも。寝癖がすぐにつくところも。俺に家事を頼むこともあるし裁縫だってさせられることもある。そしてこうやって強めの力でひねってくるところも。
「いや、」
俺が作り出した、夢の中のお前は簡単に微笑んだ。そして躊躇なく俺に触れてきた。優しそうで、憂のない幸せそうな顔をしていた。だが目の前にいる彼女はさっそく立ち上がり、俺を部屋に一人残してそそくさと出て行った。夢だと額にキスを──ただの俺の願望だが──してくれる筈なのに(部屋を出て行ったのは恐らく俺が彼女の幻術に対して予想通りの反応をしなかったせいだろう)。小雪という人間はいつもするりと俺の腕を抜け、煙のように簡単に掴むことが出来ない。易々と触れてこないし、いつでも笑っているということもない。やっぱり駄目だ。夢の中の君は完璧で、甘美な世界だったが俺には駄目だ。俺にはくだらない幸せだ。