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Let him see me eclipsed from my sun



サラの胸はどきどきと高鳴り、想いは糸のように乱れ、辺りのものが全て夢のように思われた。すると、不意に、先程幾度となく意識の切れ目に現れたあの冷徹の幻が、またもや彼女の前に現れた。以前と全く同じ男が人混みの中から出て来て、まるで彼女を待ち伏せしていたかのように、彼女の眼前に現れたのである。その男は二人が帰って来たホテルのロビーにいた。中庭へ続く出入口に身体を向け、革張りのソファーに深く座っており、男の直ぐ傍には英国の新聞が広げられてあった。うっとりするような綺麗な横顔が、特にその高い鼻筋と慎ましげな目元が、砂漠からホテルへと戻って来たサラに、その不壊の魅力を見せた。彼女ははっと身震いをして立ち止まった。自分の両手を固く握り締めた。いいえ、これはあの幻じゃない!こうして遂に、彼女はマロリーと、実際に顔と顔を付き合わせ、彼の前に立ったのである。これはあの幻じゃない。私がこの国で凡ゆる物──星や砂、無限の空にまで見出したあの幻なんかじゃない!彼は黙ったまま彼女の顔を見詰めていた。自分はもう既に、英国という巨大組織の一部であるのだ。組織が一人の諜報員の夢想を暴き立てるつもりだったかどうかは分からない。だが、体内に巣くう夢想を、組織は既に包囲し始めていたのだ。セミラミス・ホテルの車寄せで二人の手がおずおずと触れ合った最初の日から、組織は二人の一挙手一投足を監視していたのだ。彼女の胸は一杯になり、痛みに疼き始めた。彼女はその後決して、この巡り合いを忘れる事が出来なかった。いや、思い出す度に、いつも同じ心の痛みを感じたものだった。
「──夢は見終わったか」
マロリーはサラに一瞥をくれたが、その様子に心は動揺した。彼の眼差しは痛ましくも名残り惜しげな非難の色を湛え、彼女にじっと注がれていた為である。彼女は今、自分が一体どのような表情をしているのか、また、その端的な言葉に、果たしてどれ程の意味が込められているのかが分からなかった。本当は、沢山の言葉を浴びせ掛けたいのだろう。当然である。しかし、彼は一番効果のある言葉を常に知っている。全身に浴びせる程の言葉は不要であり、彼は常に短い言葉で正鵠を突くのだ。彼女は何とも形容出来ない気持ちだった。
「朝の便で帰国しろ、良いな?」
ホテルの出入り口で佇んでいるアルマシーは、席を立ったマロリーと、彼に付いて行くサラを見詰めていた。その真っ直ぐな眼差しは、サラを前にした時の、マロリーの心の弦の調子がすっかり狂っている事を示していた。彼は、ともすればその若き考古学者の表情に何か異常な、神秘的なものを見た気がした。 つまり、ある特別な力とか偶然の暗合が働いたように感じてしまったのだった。『首の根元にある窪みを何と呼ぶのでしょう?首の前の、丁度親指で押した大きさの……ちゃんとした名前があるのでしょうか』──エジプトの現地工作員より届いた連絡の中に、男女二人の数枚の写真。それがサラと直ぐに分かった。バザールの人混みの中で対峙している二人。一つの小汚い車から、砂埃に汚れた二人が降りて来る。小型貨物機も同様。男が女に手を差し伸べている。女がその手を取ったかどうかは分からない。だが、写真を追う毎に二人の親密さが窺える。二人は互いの胸の内に、一体何を見出したのか。女を見詰めている男の顔。世間知らずの、些か横柄な顔立ちに浮かぶ優しい微笑。この男に、このような表情を浮かばせる事の出来る女。今思えば、サラのあの言葉は、何と熱に浮かされた言葉だったろう!あれ程の言葉を彼女が発するなんぞ、全くどうかしている──マロリーはぎくりと身を震わせた。自身の心臓は、疾うの昔に硬化したと思っていた。だが、これらの写真は彼の心臓を凍て付かせ、女の行いは全て彼の心を刺した。彼は、最早身体的な痛みを感じながらも、女の顔を見詰めた。サラがもう疾うに一人前の女になっていた事に気付き、何だか妙な気持ちがした。彼は無論腹を立てるところだった。だが、不意に何かしら、彼自身にも思い掛けない感情が、一瞬にして彼の空っぽの心を掴んでしまったのである。

「入りなさい」
最後に記憶したものよりも些か日焼けをした肌に、砂埃の膜が張っていた。乾きを得た髪、光る首筋の汗、白さを失ってしまったブラウス。二人並び、砂漠に寝転がったのだろうか。あの危うい、自分と同じ青色の目は、あの男は一体どのような事を囁いたのだろうか──其処でマロリーは考える事を止めた。壁と窓を通り抜け、外からイスラム教徒の祈りが聞こえ、彼は窓を閉めようと窓辺に近寄った。しかし、部屋を出る際は必ず戸締りをする為、当然それは開いてはいない。彼がふと通りを見下ろすと、あの男がいた。ラディスラウス・ド・アルマシー。上流階級生まれの、ハンガリーの考古学者。男は未だホテルの外におり、中々帰ろうとしない。時折、サラの部屋の窓を見上げている。若い男女の事情に首を突っ込む必要などなかった。ただ黙って英国で待っている筈だった。彼女は誰のものでもない。誰と関係を持とうが、誰を愛そうが、それは彼女の自由であり、彼女の勝手である。独身とはそういう事だ。しかし、それにも関わらず私は……。マロリーの顔は、見る間に険しい表情に変わったが、それは自分の内気さに打ち勝とうと向きになったからであった。
「……髪にも砂が付いている」
今更ながら、男女の仲を引き裂いたという些かの良心の呵責を感じたマロリーは、漂う空気に似合わぬ言葉を口にした。彼が最後に出会った、じっとサラに注がれる、不安そうな、痛々しいまでに気掛かりげなあの男の眼差し。其処には愛があった。マロリーは言葉と共に小さな仕草を加えた為、それにつられた彼女は自身の髪を指で解いた。その表情にはいつもの閃きや生気が足りず、美しくて優しげな眼は物憂げに開かれていた。分かっているとは思うが、君は未だ任務中だ。予定が些か狂ったとはいえ、適切な判断ではなかった、だろう?あの男を情報提供者にしようとでも?しかし、それは君のすべき事ではない──わざわざ自分を此処まで来させた彼女に言いたい事は沢山あった。だが、本当に言わなければならない事がどれか、彼には分からなかった。
「君の部屋のドアにあった物だ」
恐らくカイロのスパイが見付けたのだ。サラは息を呑んだ。マロリーが自分より先にこれを読んだという事が、とても悲しかった。ヘロドトスを下敷きにし、皺の入ったシガレットペーパーに軟らかい鉛筆で、いつもの如く走り書き。心を込めて書かれた、不必要な飾りのない悲痛。"愛しのサラ。一層の事、俺を殺してくれ。裏切り。それを君は誰に対し抱いているのか"──彼女は熱病のような、光に燃える美しい眼をマロリーに注いだ。彼女の犠牲者の叫び。あの男もまた、この私と同様に。
「取って置きたいか、それとも燃やしてしまおうかと聞いたのだが」
サラの放心状態の耳に、マロリーが相変わらず冷徹の声で質問を繰り返した。恐らく彼は、私が彼の手の上に、アルマシーの手紙を畳んだまま貢ぎ物ように置くのを、これといった表情も浮かべず見ているのだろう。我が身を苦しめる凡ゆる感情が渦巻く中で、私はふと、こういった事に関してはギャレス・マロリーと互いに望んでいたより遠退いたかも知れないと思った。私は心を通わせるダンスが好きだ。一方彼は、アルマシーに言わせてみれば、最初からダンスを拒んでいる、と言うだろう。マロリーは火を付けた。灰皿の上で、音も無く輝く。だが、それも一瞬の内である。彼等の血に燃える太陽の火宛らに。これで、サラが別の男の事を考え、その姿を見る事はない。彼女を早く連れて帰る事だ。そして二度と、英国から出さない事だ。もう二度と、自分の元から逃さない事だ。その果てには何があろうとも、そうするべきだ。彼女が胸の思いを一言も口にしないよう、彼は続けた。
「喉前下陥没と言う」
「え?」
「前に聞いて来ただろう。首の根元にある窪みの事だ」
マロリーは指で喉仏の下を示しながら言った。アルマシーの首の窪みが、今此処で正式の名称を与えられた。頬を流れる汗は、首元の窪みを通り、太陽の光で煌めく。イスラム教徒の美しい祈りの中に錚錚と浮かび上がる砂漠人種。彼の繊細な指先が、私の髪を滑り、中の砂を掻く。周囲にはカイロとアルマシーの砂漠。君も国を捨てたらどうだ、と慎ましい口は語る。ヘロドトスと並ぶ、私のイニシャルの数々。それは星のように並べられ、輝きを失う事はない。古代の魂は洞窟で永遠となり、私の魂は分厚い本の中で永遠となる。アルマシーはワルツを好み、アルマシーの言葉からはワルツが聞こえる。窓を叩く雨の音、地下鉄の騒音、硬い地面を蹴る人々の足音。彼にそのような音はない。彼に雨は似合わない。都会の営みも、見せ掛けの人生も。彼はたった独りで、砂漠を歩いて行く。サラは愁いに満ちた痛ましげな表情を浮かべ、その言葉を聞いていた。
「別れを告げて来ると良い」
マロリーは無表情を取り繕い、サラを送り出した。心折れかけたアルマシーの元へ、彼女が駆け寄る……。辺りは真っ暗になっており、これが朝まで続く。二人に届く僅かな光は、空からというより、星影を浮かべた水面をオールが砕く時に生まれているようだった。ロビーでサラがマロリーを見た時、あの男は彼女の数歩背後にいた。瞬く間に飛んで行った彼女の意識に、男の首がぐいと此方に捩れ、マロリーには直ぐに同志だと分かった。恋をする者の偽装など、矢張り恋をしている他人から見れば、無いに等しい。同じ事である。恋には、身も心も投げ出したくなるような感情があり、意識の高揚がある……恰も白黒だった世界が鮮やかに色付くように。二人は暫く無言だった。何方が先に口を開くかこの目で見てやろうと、窓から俯瞰しているマロリーは、思わず腹の中で歯軋りをした。あの若者に見せてやりたかった。我が太陽を翳らされたところを──アッラーは偉大なり。アッラー以外に神は無しと証言する。ムハンマドはアッラーの使者と証言する。いざ、礼拝の為に来たれ。いざ、成功の為に来たれ。アッラーは偉大なり。アッラー以外に神は無し。アッラー以外に神は無し──未だ神に捧げられている音楽。マロリーは辟易とした。夜にしか出歩けないと思われる程の暑さにも、英国とは異なった街の騒音にも、じんわりと吹き出る汗も、全てが砂に触れている事も、ゆっくりとしか進まない時間も、彼の人生には全く関係のないものだった。

Blow - Dancing Waters