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Remember it was I who for thy sake did die contented



人間が一歩も歩けない時間帯が一日に二度ある。影が真下にくる正午。そして夕方、日没から星が輝き始めるまで。この時、砂漠は完全な円盤となり、目印は消える。動けば九十度も方向を誤る。人間は空に星座が蘇るのを待つ。そして、一時間毎に星を読みながら、また前進を続ける。星を読む案内人。長い棹の先にランタンを括り付け、知り尽くした砂漠に流離者を誘う。一切の闇、一時の死──女を見掛けない日が丸一日あった。ホテルの外で暫く待ち、だが暑さに負けてロビーで待った。開いたヘロドトス、だが頭には入って来ず、代わりにヘロドトスは女の面影を連れて来ては苦しめた。永遠の別れという言葉がふと脳裡に過ったが、直ぐにそれは消え去った。何せ、サラは俺を苦しめる事が好きだから。わざわざ言わなくてもいい事を言い、俺の反応を見る。終に姿を見る事はなく、男は女のドアの隙間に書き物を残して立ち去った。車に乗り込むと、女の部屋の窓を見上げた。わざわざ言わなくてもいい事を言い、俺の反応を見る……。男は昨夜の出来事を想起した。女は、明後日に此処を去る事を突然告げたのだった。国際サンドクラブの仲間は、遠征から次の遠征までカイロでアルマシーを見掛ける事は殆どない。だが、昨夜は違った。男は心此処に有らずといった様子で、落ち着きがない。日中は博物館に籠り、夜になると南カイロのバーに繰り出した。もう一つのエジプトに迷い込んだ男。アルマシーはサラの手を離す事なしに、彼女と踊り始めた。一列に並ぶ鉢植えの葉を、女の細い体が擦っていく。酔った男は女と回転し、女を持ち上げ、倒れた。部屋の遠くの隅で、女の身体からアルマシーがゆっくりと起き上がろうとしている。女の傍に跪き、髪を後ろへ撫で付けながら、床の女を見下ろしている。嘗て、あれ程に繊細だったあの男が……。カイロでの最後の日々の一夜。最後の一夜。 最後の一踊り。 アルマシーは酔っ払い、昔自分で考案したボスポラスハグというダンスステップを試したがった。強靭な腕にサラを持ち上げ、床を暴れ回った挙句、店に置いてあるナイル産の観葉植物に倒れ込んだ。『砂漠ではお酒を飲まないのに、カイロでは酔っ払うのね』と、女がクスクス笑いながら言う。一体何の、一体誰の所為だ?アッラーの所為とでも言うのか?ダンスとは名ばかりで、荒っぽく跳ね回っているだけに見えた。男は女を人形のように右へ左へ振り回し、女との別離の悲しみを酒で抑え込んだ。下手なエジプト人バイオリニストがステファン・グラッペリを真似、アルマシーは軌道を外れた惑星のよう。 『我々迷い惑星に!』と、乾杯のグラスを上げた。 誰とでも踊りたがった。男とも女とも。手を叩き、『ボスポラスハグの時間だぞ』と叫んだ。男は幸福だった。このような憂愁を持っていながら不幸である筈がない。我々人間の中で、砂漠を放浪していた者程の自由で幸福な者はない。此処には沢山の重要な思想が含まれている。男は他の如何なる幸福も憂愁に見替えようとは思わない。この意味で、男は常に幸福だった。そして、その幸福の為に、この時男は生れて初めてサラを愛したのだった。

「何を考えてる」
「此処での私の未来はある?」
「ああ。"絶対に"」
サラを捕まえる事が出来たアルマシーは、夜の砂漠へ連れ出した。明日、女は英国行きの飛行機に乗り、帰国しなければならない。だが、少し考えた女は、差し出された男の手を取った。その顔からは度々光が消え、男を見詰める穏やかな表情に紗幕が掛かっていた。「私は月を見る。だが、見えるのは君」と、男が口遊んだ。これこそヘロドトスの本質である。男は何度も声に出して歌った。その度に、自分の事だと思った。秘密の痛手からの立ち直り方は人それぞれである。引き裂かれた音、声高に過ぎる弁舌の、如何わしい幻術は忘却に委ねるが良い。しかし、苦痛に歪んだ色鮮かな唇からは、時として真珠にも増して朽ち難く、輝き弥増さる形象が転び出る。それを取って生身の肌に当てれば、潤いある内部の光沢は決して消え失せる事がない。アルマシーは砂の付着した指で、サラの鼻筋をなぞった。永遠にしたい。今、正にこの場所で。女を仰向けにしてやると、身体中が細やかな砂で覆われていた。草と石、光とアカシアの灰が、女を永遠にする。聖なる色を纏った肉体。奪い去られたのは眼の深緑色だけ。眼が無になった。何も描かれていない真っ新の地図になった。湖の痕跡も無く、北に横たわる山塊も無く、ナイル川の黄緑色の扇状地も無く、アフリカの端、アレクサンドリアの広がりも無い。灰色の硝煙の中に浮かび上がる、すらりとした冷徹の影も無い。
「凡ゆる部族の名前がある。砂一色の砂漠を歩き、其処に光と信仰と色を見た信心深い遊牧民がいる。拾われた石や金属や骨片が拾い主に愛され、祈りの中で永遠となるように、人間はこの大いなる栄光に溶け込み、その一部となる。俺は、恋人と部族の豊かさを内に含んで死ぬ。味わいを口に残して死ぬ。恋人の肉体は、俺が飛び込んで泳いだ知恵の流れる川であり、恋人の人格は俺がよじ登った木なんだ。恐怖は、俺が隠れ潜んだ洞窟であり、俺はそれを内に伴って死ぬ。俺が死ぬ時も、この身体に全ての痕跡があって欲しい。それは自然が描く地図であり、そういう地図作りがある、と俺は信じる」
夕日の最後の明かりの中で、暗い血のような色に見えた。祈りの中で永遠となるように、人間はこの大いなる栄光に溶け込み、その一部となる。私は、恋人と部族の豊かさを内に含んで死ぬ。近くでのみ感じられる馥郁たる香り、淹れたての紅茶の匂い、彼を映す雨に濡れた薄暗い窓、鎧のように光る指輪、私を捉える青色の瞳。貴方は、私が考えている人にそっくり。サラは秘密を飲み込んだ。考える事は丸切り違うけれど、彼にそっくり。今と違う人生を望んだ事はある。前とは違う人間、彼を忘れて貴方を愛する人間。飲み込んだ秘密を吐き出し、砂漠に埋め込む。もう人を傷付ける兵器を作らなくて良い。足を引っ張り合う国を捨て、スパイを切り捨てる国を捨てる。彼を忘れる。だが、そんな事が果たしてこの私に出来るだろうか?一つの冷徹の影が彼方の生から、今一つの生に落ち掛かり、軽やかな者は重い者に、空気や土への如く結び付いている。遠く忘れ去られた疲労を、私は目蓋から拭い取る事が出来ない。遥かの星が音もなく落ちるその光を、驚いた心に映さずにおく事も出来ない。夥しい運命が我が運命の辺りで働き、存在の手に奏でられ全ては入り乱れた調べを歌う。そして、その中での私の関わりはこの人生の、か細い炎や響き微かな琴よりも甲斐あるものなのだろうか?サラは、彼の名を砂漠の中に吐き出そうとした。
「もう直ぐ遠征だ。だが、忘れずにいて欲しい。それは俺だ、君の為に満ち足りて死んでいった男は」
星の光には過去が閉じ込められている。何故なら、その光は何億年の彼方からやって来たからだ。遠慮のない星に見詰められ、人間は慰められる。人間が死んでしまった後でも、星は尚も輝き続ける。そう思えば、自分のした事などそんなに大した事ではない。現在は過去のように大股で歩き、弱い者達は取り残され、省みられる事がない。真実は隠しようがない。誰かが痛い目にあっているが、それは必ずしも不可避ではない。星々は頭上で燃え続ける。最後の審判の日など無頓着に。一方、女はどのような審判が自分に下るかを自問していた。女自身の上に、友人達の上に、そして英国の上に。死者の書曰く、死者は審判にかけられる。秤の右側には真実の羽根、左側には死者の心臓が乗せられる。秤の目盛りを見るのは、黒い犬の頭を持つ半獣アヌビス神である。死者が真実を語り、心臓が羽根よりも軽ければ、ホルスによって永遠の命を授けられ、オシリスの治める楽園へと導かれる。しかし、犯した罪で心臓が重ければ、アメミットという怪物に魂を食われる。楽園への道は閉ざされ、永遠に異世界でも復活する事が出来ない。嵐はいよいよ激しく振り繁吹く。しかし、ただ一つの想いの力が我が心の内に火と燃える。冥界の王オシリスよ、私の心臓は真実の羽根よりも重いだろう。

James Ray - I’ve Got My Mind Set on You