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Sweet I hear her mournful song



偽りの人の世。地上の驕り故に、天上の楽しみは空気の如く希薄となりぬ──キングスマンは秘密諜報機関であるが、ミンギスはその実体を承知していた。キングスマンへのリクルートや互い管轄の確認、互いの諜報員の衝突回避などを把握する為、時折本部へ訪れていた。ミンギスは車のエンジンを停止させると、車から降りる準備をした。窓の外で、風がポプラの枝を揺らす音に、些か身震いをする。年老いたポプラの樹は、哀れな異形の生き物を思わせる。節くれだったであろう枝が古い建物の壁に擦れ、延々と止む事のない伐採機の如く、きいきいと耳障りな音を立てていた。マーリンという男に開示をする情報としない情報、ある筈のない作戦と実際に行われている作戦の一覧を、脳裡に今一度思い浮かべる。そして、彼等は我々の敵ではないと、確信が持てないまま、今一度思い直す。ミンギスは車を降りた。ロンドンでは窮屈な空が、此処では無限のものに見えた。太陽は、暖かみと輝きとを増して来た。柔らかく、囁くような風が南西から吹いて来た。渓谷の両側に聳える山々は、薄白い霧に霞んでいる──その時、物騒なライフル銃を細い肩から提げたうら若き女性が、遠くの方から此方へ歩いて来ていた。自信に満ち溢れた、隙のない眼差し。外来者である自分を注視している。だが、美しい微笑を湛えて見せた女性。この女性を、ミンギスは見た事がなかった。ガラハッド、ランスロット、パーシヴァル……どれにも当て嵌まらない。コードネームや経歴は?真逆、此処の候補生ではあるまい。一度そのライフル銃を構えれば、此方の頭を吹き飛ばす事など容易だという自信が、その微笑に顕になっている。サラはその時もその美しさで彼を驚かせたが、今日の正午、階段でちらと見た時には、また一段と美しいように思われた。何という彼女の変わりようか。何と立派に、新しい役柄に溶け入った事か。何と素早く、人を威圧する品位を身に付けた事か。誰が一体この堂々たる、この蕩蕩たる女神の中に、しおらしい乙女の面影を求められよう。彼女の胸を騒がせる事は至難の業である。暗い夜闇の中で、夢の神が舞い下りるまで、愁いに沈み、彼女と一緒に穏やかな人生の道を歩もうと空想しつつ、月に向かって悩ましい瞳を差し向けた事もあった。
サラとハートは話をしていた。本部二階の部屋にいるミンギスは、窓から完全に二人の顔を見る事が出来た。彼女はシンプルな衣装を着ていた。そして、眩しい程に美しく、見たところ落ち着き払っており、前と少しも変わらなかった。男が何かを話していて、彼女は酷く注意深く、警戒の色を浮かべてそれを聞いていた。其処には幾分か怯気も見えたかも知れない。ミンギスは話の途中から覗いた為、二人が何を話しているのかは分からなかった。何となく、男は彼女を愛しているように見えた。男の仕草には特にこれといったものは見られなかったが、ミンギスの目にはそれと映ったのだった。根拠のない嫉妬。名高いガラハッドでは尚更──サラの所為だ、何もかもサラの所為なのだ。もしも彼女がいなかったら、このような馬鹿な真似などしなかっただろう。いや、もしかすると、これは全て自暴自棄でやらかした事なのかも知れない。最も、このように考える事自体、実に馬鹿げているのだが。それにしても、此処まで自分を捉えて離さない彼女の、何処が良いのか皆目分からない。最も、彼女は確かに美人であり、綺麗だ。何しろ彼女の所為で、他の男共も正気を失っているではないか。 背が高く、すらりとしている。ただし、とても細身だ。 彼女ならそっくりそのまま袋に入れ、二つ折りにする事も出来る。彼女の腰も細く、悩ましい。本当に悩ましい。眼は本物の猫の眼のようだが、その眼で傲然と相手を見下すところなど、見事の一言に尽きる。
二年前のカフェでの逢瀬、華麗な晩餐会での夢想宛らの一夜、ある種の熱に浮かされ口走った言葉。自分を見詰めるサラの眼が余りに……その後、眠る為に部屋に戻ったミンギスはこのような想像に耽った。彼女は今、自分と一緒にあのバルコニーにおり、たった今自分の耳にある言葉を囁いた。それは最も甘美で、官能的で……そもそも、彼が彼女の事を愛し始めたのは、その晩の事である。彼女の心に触れる術を知らず、追い求めたのはあの身体であった。何か意味のある言葉があの赤色の豊かな口から出て来る事を恐れ、自分の耳元で囁かせたのは言葉にもならないものだった。それと、想起出来るのはもう一つの情景。ミンギスはレコードを掛けると、革張りの椅子に腰を下ろした。この椅子には、本を乗せるマホガニーの台が付いており、身体の前で回転するようになっている。隠していた疲労が顕になり、音楽を聴き、時々雨戸からポトンと水滴が垂れるのを聞き、薪が面倒臭そうに弾ける音を聞きながら、目蓋は塞がるに任せた。『Vous dormirez comme un petit roi(おやすみなさい、王様)』──サラの声。まるで本当の恋人にでも話し掛けるような。起きなければ。彼女と過ごせる時間はごく少ない。我々には禁止事項が山程ある。暗黙の禁止事項というものが──しかし、この愚かしい幸福と、彼女の心地良いフランス語のお陰で、彼は快く熟睡する事が出来たのだった。初めて蘇生の思いがしたと言っても良い。はっと目が開くと、外はすっかり晴れ渡っており、レコードはターンテーブルの上で音もなく回っていた。サラはいなかった。彼女から捧げられた筈の額へのキス。それさえも夢想であったのだろうか。我々は死んでしまわなければ、晴れて自由の身とはなれないであろう。恐らく私は、君をどれ程に望み、愛しているかを隠し通さねばならない。その程度が深ければ深い程、これは私自身の秘密となる。この想いを容易に捨てる事が出来るなら、これは抱える必要のない荷物となる。
ミンギスは、サラに対して取った自身の行動に、どれ程に論理的に筋を通し、ほんの僅かでも正常な頭脳の働いた後を見出そうと願っても、すっかり冷静に考察の出来る今になってさえも、何としても当然そうあるべき明確な線で繋ぎ合わせる事が出来ないのであった。其処には一つの感情があった。というよりは、沢山の感情の混沌があったと言うべきかも知れない。 そして、その混沌の中で、彼は当然の結果として自分を見失ってしまったのである。確かに、其処には彼を押し潰し、彼を思う様に踊らせた、一つの最も強力な感情はあった。しかし、それを告白すべきだろうか?況してや、彼はそれに確信がない為、尚の事躊躇われるのだった。これは、サラからの最後の手紙の冒頭部分である。『懐かしい二月の空気を吸って生気を得ました。それを御許へお送り致します。それに、また空の爽やかな暖かさを快く感じました。草木の世界の新しい喜びには身につまされました。悲しんでいる内に、時が来て喜びに会う草木の、汚れのない、いつもと変わらない世界の喜びには──』彼女の乱れた髪と悲痛に歪んだ唇の幻が、炎の如く、ミンギスの傍らに漂い寄せた。宛ら炎のように、しかし彼にとっては誇りであった。静かに歩み寄りながら、彼は窺い見た。ガラハッドが去り行くサラを見送る。あの後ろ姿を、まるでミンギスが見ているように。ガラハッドの背中はミンギスに、彼女は戻って来ない、貴様の直感は完全に正しいと知らせたがっているように思えてならなかった。
「女性が持つべき物ではないな」
マーリンが部屋に入ると、男は窓の外をじっと俯瞰していた。英国の秘密情報部長官ともあろう人物が、部屋に入って来た人間の気配にすら気が付かないなど、そんな事が有り得るだろうか?痺れを切らしたマーリンは男の視線の先にあるものを捉えようと、同じように窓の外を覗いた。彼はこの瞬間に初めて、出口の無い、果てのない、そして夜明けのない永遠の悲哀が、この……進んで苦難を求めようとしているこの男の運命の上に垂れ込めているのを、まざまざと見たような気がしてならなかった。男がマーリンの存在に気が付き放った言葉に、気のない短い返答をした後、早速話を切り出した。MI6に対する、虚偽と欺瞞に満ちた情報提供である。

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