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The invitation



素晴らしい午後の続くこの月の間、サラは、流れる小川の水際に沿って這っている小径を通り、牧草地を彷徨ったり、小さな丸木橋を向こうへ軽く飛んで行ったり、また飛び帰ったりした。彼女は決して、さらさらと流れる堰の音の聞こえないところへは行かなかった。そのザーザーする音は思考の囁きの伴奏となったが、一方、牧草地自体と同じくらい水平な太陽の光線は、光の花粉となり、辺りの風景を包んだ。他の至るところには陽がキラキラ輝いているのに、木立や垣根の陰には小さな青い霧が見えた。太陽は地面に極めて近く、草原はごく平坦だった為、彼女の影法師は随分と前方に延び、まるで遠くを指している二本の長い指のようであった。その指は、緑の沖積層の流域が盆地の斜面に接している辺りまで指していた。サラはお気に入りのライフル銃を肩から提げ、本部内の赤いカーペットが敷かれた階段を颯爽と下っていた。矢張り、天気が良い事は何より素晴らしい。国家転覆が起こる前に、此処キングスマンの本部が何者かに吹き飛ばされる前に、この空の下へ出掛けて行き、胸一杯に穏やかな空気を吸う事をしなければならない。今の私がすべき事はたった一つで、これより他にない。神もそう望んでいるから、このような晴天を恵んで下さったのだ。このような時にのみ心の内に神を見出すと、踊り場から二人の男が階段を上って来た。一人は我等が魔術師、もう一人は痩せた壮健な学校教師のような身体付きの男──ミンギスは相変わらずあの時のままで、矢張り上質なスーツを着て、矢張りぐっと胸を張り、矢張り辟易した目で相手の目を見詰め、矢張り自分の言葉が理に適っていると思い込み、すっかり自分に満足している様子だった。サラに気が付くや否や、彼は妙な具合に彼女を窺った。その目には特に用心深い、射抜くような光があり、彼女の顔から何かを読み取ろうとしているようであった。しかし、それも束の間で、彼はすっかり元通りの表情になると、微笑を口元に浮かべた。それは、官吏がよく浮かべる、許せる程度の図々しい微笑とはまた別物のように見えた。彼女はその様子を一瞥すると、ライフル銃を隠すように持ち、擦れ違い様に会釈をした。
サラの自宅に手紙が届いたのは、二年前の事である。封筒に記された二文字のイニシャルに、彼女は思い付く限りの人物を考えたが、終には分からなかった。上質な紙に完璧な筆記体、そして微かな煙草の匂い。手紙の最後に記された名前を見、それが誰かを朧げに認識した際、彼女は直様マーリンに知らせる事を考えた。スチュアート・ミンギス。秘密情報部第6部長官。キングスマン、特にマーリンが警戒して止まない人物からの、個人的な仕事の依頼であった為である。だが、彼女は知らせはしなかった。丁重に、手紙に対する返事を書いた。何者にもなる事が出来ない休日、恐らく自分というものを取り戻す日を知らせ、秘密裡に会う約束をした。その日まで、サラは何だか落ち着く事が出来なかった。約束が頭から離れた事はなかったし、あの恐ろしい程に整った筆記体が次々と眼に浮かぶようであった。一層の事、タイプライターで無愛想に打ってくれたら良かったのにとさえ思った。ああ、もうタイプライターは古いか──彼女は予定時刻より随分と早く駅に着いた為、三本前の電車に乗り込んだ。指輪を含む装備品を全て自宅に置いて来た為、また、乗り慣れていない電車での移動の為に些か居心地が悪かった。発車する際、車窓からプラットホームの監視カメラを見た。まるでマーリンが此方を見ているかのようだった。指定された駅には恐らく監視カメラはない。そう思うと、幾分解放された気持ちになった。今日は休日、何しても良いじゃない。何処までも貴方の御厄介にはならないわ。大丈夫よ。サラはそう思ったが、果たして今からする事が正しい事かは分からなかった。だが、一度郊外へ出てしまうと、そのような厄介な雑念は殆ど消え去った。車窓から見えるありのままの自然──自然は幸福だ。だが、我々の内部には様々な力がぶつかり合い犇めき合う。誰かの心中に春を芽ぐませた人はあろうか。光となって注ぎ、雨となって降る人は?否み難い確かな風が心を貫いて吹く人は?自分の内に鳥の飛ぶ空を持つ人は?どの樹のどの枝もそうであるようなしなやかさと、脆さを持つ人は?自分の心の傾斜の上を水のように清らかに生き生きと、未知の幸福に向かって落ちて行く人は?そして静かに、誇る事もなく、登高を続け、登り切ったところで巡礼の道のように佇む人は?こうして風景が通り過ぎ、それと共にせかせかとした世の中が全部飛び去り、湖の魚達が最早地響きを感じなくなると、サラは前よりも一層孤独になった。この後の長い午後を通じて自分の瞑想を妨げるものと言えば、恐らく遠くの街道を行く車か貨物列車の微かな響きくらいのものであろう。
夏の日差しが空の雲に金色の鍍金を掛けても、冬の月の光が野原を刻み、嵐が散らした錯綜を浮き出しにしても、サラはそれを見るに堪えない。彼女にのし掛かる責任は余りにも重い。昔に言った事や、やった事、言いもせず、やりもしなかったが、言っても良い、やって良かろうと思った事が彼女にのし掛かり、彼女を押し拉ぐ。一日として何かを思い出さぬ日はない。良心や虚栄心が肝を冷やさぬ日はない──白煙の影から、深緑色の落ち着いた双眸が此方を見ている。『居心地が悪いかね』ミンギスが目元だけでふと周囲を見渡す素振りをする。実際に見てはいない。二人は小さな町の、地元民や観光客が入り混じったカフェにいた。希望に締め付けられている喉、苦闘の印を留めた唇、ただ愛の為に接吻する口、眠りの中にも忘れず、長い間抱き、祈り且つ力を尽くした大いなる願望の記録を持った人々が灰色の眼に映る。『"こういった場所"で、"貴方のような方"と落ち合う事は殆どありませんので』ミンギスが返事の代わりにゆったりと白煙を吐いた。手紙に付着していたのはこの香りだ、とサラはカップに口付けた。アッサムティーの美味しさに些か眼を見張った。『電車は気晴らしになったかな』微笑を僅かに湛え、彼が張り詰めた静寂の中に呟いた。彼女は曖昧な返事をしながら、不意に右手の薬指を撫でた。だが、其処で指輪が無い事に気付く。眼前にいるこの人も、多くの抱えたくもない秘密を握っている。そして、それらを誰とも共有する事なく、それらを墓場まで持って行く事がこの人の仕事であり、生き様となる。一日として何かを思い出さぬ日はない。良心や虚栄心が肝を冷やさぬ日はない……。ミンギスより依頼された仕事は、ごく簡単な護衛任務であった。秘密裡に、官吏だらけの晩餐会に参加する事を、何処からか聞き付けたマーリンが渋い顔をして、大理石の柱の影にいる事を想像した。『全く君は油断も隙もありはしない。指輪は外すなとあれだけ言っただろう。私の目を欺こうなど、変な気を起こさない事だ』また、自分と同じように誰かから依頼され、下ろし立てのタキシードを身に纏ったガラハッドが、シャンパンを片手に向こうから堂々と歩いて来る事も想像した。『是非、私と一曲踊って頂きたいのです。貴女のような美しい女性は退屈してはいけない。花咲くようなドレスも、音楽と脚光がなければね』だが、終盤に差し掛かっても二人が現れる事はなかった。ミンギスはつとその場を外し、去って行ってしまった事に気が付いたサラは、暫し立ったままでいたが、軈てゆっくりと会場から出て行った。月が明瞭に彼の顔を照らし出していた──その薄い唇には微笑が漂っていた。すると、覚えているが、彼の顔に不意にいつもの影がちらと走った。哀愁と嘲笑を綯い交ぜたような、今の私にはもう余りにも見馴れた彼の癖である。彼はぐっと顔を引き締めると、幾らか緊張したような面持ちで口を開いた。とても綺麗だ、と彼は声を落として言った。再び白煙の影から、あの深緑色の落ち着いた双眸が、月から此方へと瞳を転じた。君はとても。一目見た時からそう思っていた。忘れる事の出来ない、低い、なだらかな、金属的な声が響いた。その声で、私の心は一時に震えだした。その声には何か私の心を貫き、波立たせるものが込められていた。私はどう応えるべきだったろう?自分がミンギスを苦しめていた事は、サラは前から知っていた。彼は数回、彼女のところへ来た事があった。彼女も、この二年の間に彼と交渉を持った事があった。しかし今は、彼の出現に些か狼狽したのである。河の上に明るい夕空が底知れず抜け上がり、鏡と紛う嬉々たる水面に、未だ月の女神の顔が宿らぬ夏の宵。過ぎし情愛を思い出し、過ぎし恋を思い出し、ふと感傷に胸を急かれては再び静心に立ち返り……心暖かい夜の息吹きを、幾夜二人で声もなく深々と吸った事だろう。宛ら捕われ人がふと結んだ夢の中で、冷たい牢獄から緑滴る森へ連れ去られるように、我々も夢想に誘われて、若き命の門先へと運ばれ──今にして、ミンギスとの日々、幸福とも不幸とも言える日々を回想してみると、サラは、これら全ての意外な出来事や偶然がまるで申し合わせをし、魔法の壺のような物の中から、一時に彼女の頭上に落ちて来たような気がしてならなかった。私は彼の愛にどう応えるべきだったろう?彼女は射撃場へ向かいながら、空を仰いだ。

Lana Del Rey - Once Upon A Dream