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To see a world in a grain of sand



陽の光の中に立ち尽くしていると、太陽の輝きに浸された夏の国の上に大きな影が落ち掛かる。それこそこの影ではないか?ベッドの上で傷ましげに俯いている、暗く沈んで半ば身を起こそうとして蹲り、鬱々と強烈な光に眼を細めながら、我々両者を待ち伏せるものは、正にこの影ではないか?夏の日差しと邪悪な風に苛まれ、夜な夜な安眠する事も敵わず、手を心臓の上に震わせるこの影ではないか?──その青褪めた顔色に、直様気が付いた男は、自身の私室へ女を運んだ。慣れない気候が、知らぬ間に女の身体に負荷を掛けていたのである。僅かな熱を発している額に、男は水を含ませた手拭いで小さな粒の汗を拭き取った。日中は色が色の上を滑るよう。周囲の雑多さの中を滑り抜けていく男が、夜になると活動を停止する。身に付けた秩序と訓練は目にしか現れず、その目を隠す闇の中で、男に入り込む為の鍵はなくなる。だが、探れば、至るところに点字の戸口がある。心臓が、肋骨が、全ての内臓が皮膚の直ぐ下に見え、男の指で掬った女の汗さえ色になる。覗き込むと同時に、アルマシーは指の先で、サラの唇に触れてみた。眼は覚まさない。眼を覚ましている時には、到底叶わない。彼はポケットに手を突っ込み、プラムを取り出した。歯で皮を剥き、種を抜いて、果肉を彼女の口に運ぶ。その小さな顎を指で掴み、閉じている歯を舌で開ける。潰れた果肉から滲み出た汁が、味覚芽を滑り、咽喉へと通って行く。
今日、サラを食事に誘った。明日やその次の日といったのでは、気紛れな彼女の事だから忘れてしまうか、行く気を失ってしまうのではないかと思った為である。考古学博物館に展示されている、若くして亡くなった王ツタンカーメンに、妻アンケセナーメンが捧げた溢れんばかりの矢車草。今では朽ち果てた代物だが、名高い黄金のマスクや王座よりも、その花束を見詰めていた彼女に、アルマシーは急に切り出したのだった。彼女は最初、渋るような表情を見せたが、結局は承知した。それから二人は強烈な日差しの中を歩いた。場所は何処でも良かった。ただ、時間がないとだけ考えた。遠征までの時間ではない。彼女への道のりを歩く時間である。彼女を考えながら音楽を聴き、執筆し、歴史を読む時間。そして、彼女をこの目に映す時間である。だが、アルマシーは既に知っていた。このサラという女には事情がある。自分には如何にも出来ない理由で、突然姿を消す。そして、二度と再び、自分の前に現れる事はないであろうと。それを知っている事を、彼は当の彼女に言ってみたかった。彼女の秘密を暴く時間さえも必要だ。愛してるとは言わせる事が出来なくとも。だが、苦しみながら言ったとて、彼女はこう言ってのけるだろう。『女が男と夜を明かさない理由、知ってるわよね?』彼は、そっと彼女の手を握った。この手が自分を魅了して止まないものとは考えたくなかった。
世の中の人々には、意中の相手をよく連れて来る場所がある。恋人や、半分恋人や、四分の一の恋人を。アルマシーはあの洞窟へ、サラを連れて行った。恋人や、半分恋人や、四分の一の恋人としてではない。欲しくて堪らないただ一人の女は、彼女だった。彼は見せ掛けの会話を嫌い、また、見せ掛けの会話をする都会連中も嫌っていた為、見せ掛け以外の会話をしていた自分を詰る事はなかった。彼は此処数日、寝ても覚めても彼女の仮初であろう人生を、一刻一刻、我が事のように共有して来たのではなかったか。彼女の凡ゆる衝動、純粋な心の凡ゆる揺らぎに応えて来たのではなかったか。未だ夜を明かしていない内にこれ程に知り合い、これ程に親密になった女が他にいたなら、教えて欲しい。永遠という言葉を放った後、自分の言葉に怯えたような瞳。一瞬にして、意識が何処か上の空へと舞い上がり、舞い上がっては憂いをひたと抱き締めながら、地上へと降りて来る──サラの額にキスをした。何もかも忘れ、幾度も幾度もキスを繰り返した。アルマシーはすっかり喜びに包まれ、彼女の傍に横たわった。ハンガリーの、自分が生まれた家で、懐かしい乳母の親切な手が拵えてくれたベッドの上で眠るような、何とも言えぬ良い気持ちだった。乳母からは沢山の事を教わった。だが、この恋の苦しみだけは教わらなかった。その時、脳裡に過った"裏切り者"の影……いや、"裏切られた"、若しくは"裏切られつつある"影……。灰色の硝煙の中に浮かび上がる、すらりとした冷徹の影。雨と紅茶の香り。彼女の綿のような意識を捕らえている人物。彼女の首の根元にある窪みをなぞった。彼女もまた、微笑んでいるように思われた。

南カイロにはインディゴ市場がある。男と女は其処を通る。一つのミナレットの呼び掛けに、別のミナレットが応え、美しい信仰の歌が矢のように空気中を飛び交う。だが、隣の女は時折、背後を振り返ったり、通りすがりの白人の顔を眼で追ったりする。同じように歩いていても、女には、自分の事を監視されているように聞こえる。炭と麻の匂いが漂い初め、冷たい朝の空気の奥行きが増す。繋ごうと伸ばした手は何も掴めず、気が付けば女は遠いところにいる。インディゴ市場の終わり。人の群れ。聖なる町の中で、男は女の名前を叫んだ。女は誰かと話している。もう一度叫ぶと、此方を振り返った。だが、女は戻って来ない。オウムが鳴く通りの北、市場を見下ろす部屋。ミナレットでの祈り。何と美しい響きか。俺は去った君の事を祈るだろう。アルマシーは目を覚ました。
「──"モード"って?」
サラはすっきりとした明るい眼で、アルマシーの目を覗き込みながら、ちらと彼の目の中に何かを捉えたらしく、テニスンの旋律を付け加えた。『願生に入っておいで、モード。黒い蝙蝠のような夜は過ぎてしまったよ。園生に入っておいで、モード。この門は辺に立つは僕ひとり、忍冬の香り、辺りに漂い、薔薇の香り、馥郁と風に運ばるる。馥郁と風に運ばるる』──デメルの包み紙に走り書き。彼女はすっと深緑色の眼を細め、指で文字の羅列に触れる。アルマシーは片時も目を離す事なく、そんなサラの姿を見詰めていた。先程、自分の心を裂いた女が眼前にいる。インディゴ市場で自分を置いて行った女が眼前で、自分が失意の内に書き綴った詩を、女と同じ血が流れている詩人のものを、声に出して謳った。軽度の熱中症は治り、顔色が良くなったと思えば、静かな眠り姫は何処かへ消え、海の色を湛えた瞳が男の心を笑う。だが、一つ素晴らしいと言えるのは、俺が君の中に永続的な価値と喜びを見出した事だ。他の誰と歩んだ事があるにせよ、今、他の誰と意識を分かち合っているにせよ、俺は此処で自分の運命に出会ったという訳だ。
「俺の本は読んだのか」
「いいえ。だって、これは貴方の心でしょう?」
机の上に置いていた本は、依然として閉じられたままであった。サラのマナーを、アルマシーは気に入った。彼女もまた、言葉を欲しがる生き物であるのだろうか。言葉を愛し、言葉で育って来た女なのだろうか。女にとって言葉は物事を明晰にし、理性と形を齎すものである。だが、彼の考えは違った。言葉は感情を歪める。棒を水中に入れれば、歪んで見えるように。彼には、彼女は自分と同様、言葉を相手に求めない生き物のように思われた。まるで言葉そのものには何の意味もなく、出任せばかりだと言わんばかりに。また、恋人の全てを求める人間が時折いる。だが、アルマシーは自立自存を保ちたい質だった。例え恋人がいたとしても、自分という人間は、恋人を放り出して何処かへ行方を眩ますだろうと。砂漠では、軍隊だって砂の下に消え失せるのだ。所有する事も、される事も嫌いだ。しかし、例え自分が行方を眩ましても、眼前のサラは探す事をしないだろう。もしかすると気にする事もないのかも知れない。どうしてか、彼女は自分の言い表す事の出来ない質を容易に理解しているようだった。俺は帰って来る。何処へ行ったとしても、何日掛かろうとも来た道を通って帰って来る。恋人の名を呟きながら、恋人への詩を書き記しながら、細波立てる風が恋人の頬に触れる様子を考えながら。だが、君はどうだ。
「俺は君のカメラを見た」
「そう」
ベッド脇の小テーブルに置いてあった手帳を、サラに渡した。男が持ち歩いている本。基本的にはヘロドトスの『歴史』だが、書き込みやら、他の本からの切り抜きやらで膨らんでいる。全てはヘロドトスの文章の中に居場所を見付け、大人しく収まっている。彼女は、ごつごつした手書きの細字を声に出して読み始めた。『朝の微風が香りを運び、愛の惑星が天高く昇り、あのひとの愛する光の中を、水仙のような青空を褥に薄れてゆくから、あのひとの愛する太陽のなか薄れてゆくから、陽光の中薄れゆき、死に絶えるから。夜通し薔薇は聞いていた。フルート、ヴァイオリン、バスーンを。夜通し窓辺のジャスミンは揺れていた。調べに舞い遊ぶ踊り子に合わせて。軈て鳥の目覚めと共に静寂が訪れ、月の沈むと共に沈黙が落ちる』──アルマシーは、モザイク・タイルの床に膝を突き、カーテンのように垂れる彼女のガウンに顔を埋めた。あのカメラは私の心でも何でもない、という風に気のない返事をした女。心無い女。いや、もうそれは既に奪われている。
「もっとゆっくり読まなければ。テニスンはゆっくり読むのが正しい──テニスンに限らず、他もだが──句読点の位置に注意すれば、自然な息継ぎの場所が分かる。 あの時代はペンとインクだ。そのページを書きながら、何度も原稿から顔を上げただろう。きっと、窓の外を覗き、鳥の囀りを聞いた筈だ。殆どの作家は、一人の時、そうする。言葉は人の考えを隠すものだが、詩は違うぞ。君にもテニスンと同じ血が流れているんだ、彼のペンの速度を思え。同じ速度で読むのでなければ、恐ろしく下手くそで、カビが生えたような書き出しになってしまう」
「あら、私の中のテニスンはもっと早口よ」
サラはクスクス笑いながら、自分に対して一人前に説教をするアルマシーの頬を抓った。殆ど肉が付いていない痩せた頬。自分の太腿の上に頭を預けている大きな身体の男。血の中に流れる詩、それを血を吐く思いで書き記したであろう男。自分の事を欲しいと思い、また手に入れる事に何の恐れも抱いていない男。澄んだ青色の目が幸福そうに細められ、微笑に目元の皺が現れる……。その様子が不幸な彼女の脳梁を震わせた。痛みから逃げるように、彼女はシガレットペーパーに記された、誰も知り得ぬ砂漠人種の心の内を眼で追った。『バグノルドが調査を終え、マドックスと私と他の仲間はあちこちに散った。カンビュセス王の埋没した軍勢を捜す者、ゼルジュラを捜す者......。 三年間は、そうやって過ぎた。仲間の顔を一度も見ずに、何か月も過ごした。四十日の道を行き来するのは、私達とベドウィンだけ。砂漠の民は川のように砂漠を流れる。私の人生で出会った最高に美しい人々だった。私達はドイツ人、イギリス人、ハンガリー人、アフリカ人と名乗る。だが、砂漠の民には国籍など意味がない。私達も次第に国籍を忘れ、私自身は国を憎むようになった。 国は人を歪にする。国などがあるから、人は絶望の内に死ぬのだ』、『砂漠は風に舞う布。誰のものでもなく、誰も所有出来ない。石で繋ぎ止める事も出来ない。砂漠は古い。カンタベリーが生まれた時、西洋と東洋が戦争と条約で結ばれた時、砂漠は既に何百という名前を持っていた。砂漠のキャラバンは不思議な文化だ。 連夜の饗宴の後に何も残さない。火の燃え残りすらない。私達は皆、国という衣を脱ぎ捨てたいと思うようになった。遠いヨーロッパに家や子供を持つ者もいたが、その人々も例外ではない。砂漠は信仰の場。人はオアシスの港を出て、火と砂の風景に消える。オアシスは水が立ち寄る場所……アイン、ビウル、ワジ、フォッガラ、ホッタラ、シャードゥーフ。 実に美しい。その美しい響きの横に、醜い人名を晒すのは恥ずかしい。人の名前を消せ。 国名を消せ。私は、砂漠からそれを教えられた』
「君の心は何処にある」
「さあね……」
サラはページを巡り、ヘロドトスには触れずに、アルマシーの心を探し続けた。すると、欠片がまた一つ。スラの涸れ谷、連れて行ってくれた洞窟の写真。その裏に見付けたインク──恋人は去る。海でさえ去って行くのだから。エフェソスの港。ヘラクレイトスの川。何れは消え、沈泥の溜まる入り江に変わる。カンダウレスの妃はギュゲスの妻になる。図書館は燃えて無くなる。モードは西風に連れ去られる。砂漠の風を以てすれば、それを止める事が出来るのではないか──視線をカチッと固定するように、彼女は心をつれない想い人に向けた。自分の事を欲しいと思いつつ、手に入れる事を恐れている人。澄んだ青色の目を幸福そうに細める事もしなければ、詩なんぞを血の吐く思いで書き記す事もしない人。凡ゆる精神的苦痛に耐える事が出来るよう自らを訓練し、また日頃より足元を掬われないよう注意している人。感情を支配し、胸の内を決して明かさない人……そして、私の魂を掴んで離さない、美しい人。
「俺が砂漠に消えたら、君は別の男のところへ行くが良い」
アルマシーは、まるで途方に暮れた者が何か神聖なものに向かって叫ぶように、と同時に、最早失うべき何ものをも持たぬ死刑囚のような大胆さで、この言葉を発したのであった。彼は死んでしまう程の憂愁に駆られながら、それに対する返答を待ち構えた。この薄情な言葉がサラの胸に、どれ程に悲しく響く事かと気遣われた。直ぐに、彼はその心情に耐え切れなくなり、彼女から本を取り上げる素振りを見せた。本心ではなかった。自分の言葉に対して、何かしら反応する彼女が欲しかった。"別の男"──これは歯の間から押し出すように言わなければならなかった。その言葉に一瞬、何かしら重苦しい不愉快なものが、自分の胸をちくりと刺したように彼女には思われた。今、自分が見ているもの、これは夢想だと思った。マロリーが見せる、マロリーへの報われない想いが見せる夢想だと思い込もうとした。彼との曖昧な関係、言葉では言い表す事の出来ない、彼に触れた事もなければ触れられた事もない関係をどうにかしたいと思いつつ、彼を気遣い、後退る自分を何とかしたいと思っている自分が見たいと望んでいるマロリーとの夢想だと。彼の面影を持つ若き考古学者。砂漠に魅了され、一方で、自分を魅了しつつある男。アルマシーの前にマロリーが居たから、彼が居たから、私は……。一転、サラは笑って見せた。そして、些か機嫌を損ねている男の、首元の窪みを親指で押して呟いた──「迷える惑星」と。女は、自分の心の中を覗いて見るのが怖かった。思ってもみなかったものが其処にありそうな気がして怖かった。今、触れたところを女はボスポラスと呼んでいた。男は一度、女の肩からボスポラス海峡に飛び込み、其処で目を休めた事がある。跪く男を、迷い惑星を見るような目で、女が可笑しげに見下ろす。ヘロドトスの本にも、この世の何処にも書き記していない胸の内。それは砂漠の中に埋めたも同然の詩の一説。『私は薔薇に話し掛けた。束の間の夜は過ぎる。歓談と饗宴とワインの随に。ああ幼き神の側女よ、手に入れられないものの為に、あんな溜息を吐いて何になるんだ?私だけのものなのだからと薔薇に誓った。永遠に、私だけのもの』──俺は夢も空想も要らない。俺は君が欲しい。俺は君の後について行く、とアルマシーは心の全てをサラに委ねながら言った。

Mitski - My Love Mine All Mine