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With thy tears dissolve them into rain



サラは、昨夜と全く同じ夢を見た。最初、それは何の姿形もない、英国でよく見掛けるただの靄のようなものであったが、その靄は闇色を帯び始め、日が経つに連れ、徐々にある姿へと変化していった。年季の入った革靴を履いた脚が水の中を進んでおり、随分と向こうの方まで細波を立てていた。その脚に纏わり付いているローブの裾は翻る事はなく、ひたと水に浸かっており、ゆったりと歩む身体の直ぐ傍にあった。
『これ以上、私は行く事が出来ない』
この声を聞いた事があった。磊落な、しかも威のある声。すっかり癖になっている、そのような話し方をする人間は、この世でたった一人である。その人間は"本当の魂"を持っており、その人間の目には、克服する甲斐があるという限りでは、悲哀を克服し得た者の光があった。そのような光を持つ者は、この世でたった一人である。
『行く事が出来ないのだ』
サラは息を呑んだ。肉体の残骸や、ゆっくりと腐っていく血液や、癇癪を引っ張り出す錯乱や、鈍重な老廃や、或いはもっと不吉なもの──例えば友人達の死、はっと息を呑む程に輝いていた目のどれもが死に果てるなど──が念頭を過ぎったのである。その闇色の靄は、彼女の眼前でただ揺蕩っていた。しかし、彼女の胸は疼くばかりであった。この不明瞭な姿から立ち去った日の事は、そうして後悔となって現れ、軈てその靄は、一切が地平線の薄れ行く時刻の空の雲でしかないように見えるまで、縹渺と姿を眩ませた。あの日から約三年後の事であった。

スネイプの、相変わらず人の心の底まで見透かすような眼差しは、青白く痩せた、落ち着いた灰色の眼をした相手の顔を再び見た。何か身近な、随分と前に忘れていた、上品で感じが良いというより以上のものが、その注意を凝らした目の奥から相手を見詰めていた。こうして突然、自分から直々に、青天の霹靂の如く眼前に姿を現した女性は、「バラデュールです」と言葉を発すると、その玲瓏たる眼差しをじっと彼に固定し見詰め、相変わらず骨を折った苦労を懐奥深くに仕舞い込んだような傷付き易い光をちらつかせながら、錆び付いたドアが開くように、彼に微笑した。そして、その開いたドアから不意に、随分と前に忘れてしまっていた、いや、忘れようとしていた、特に今は考えてもいなかった幸福の香りが漂って来て、スネイプを包んだ。漂って来て、彼の全てを包み、呑み尽くした。その女性が微笑んだ時、もう疑う事は有り得なかった。それはサラだった。そして、彼はこの人を愛していたのだった。
「病院には?」
この再会に於けるサラの喜びは、殆ど悲しみに近かった。スネイプは下唇を噛み締めていた。彼女の眼は、彼の食い縛った薄い唇の辺りに彷徨って行き、そして細い血が一筋、歯の上に滲み出て、唇を伝うのを認めた。彼は落胆した表情を、その憔悴し切った顔に明瞭に浮かべた。彼は自分で意図する事なしに、彼女の心に接触したのである──私は一体、彼女に何を見せたのか。彼にとってこの三年は、頭は鉛の如く重く、手足は疲れ果てたものであり、彼を動かしていたものは生命ではなかった。過去の出来事を忘れる為に、彼は酒に酔う事が出来た。堅い角が取れ、暖かい気持ちになる事が出来た。すると、一瞬、寂しさは消えてくれた。何故なら彼は、自分の念頭に亡き友人達を集める事が出来たし、また、敵を見出してはそれを打ち倒す事が出来た為である。壕の中に座ると、大地はスネイプの下で柔らかになった。失敗の痛みは鈍り、未来にも脅威がない。そして、飢えは姿を見せる事がなくなり、世界は和やかに安らかとなり、彼は彼の目標とした場所へ行き着く事が出来た。星は、驚く程に近くへ降りて来て、空はいつだって穏やかであった。死が友となり、眠りは死の兄弟となる。懐かしい昔が帰って来る──あの荘厳な屋敷で、思い描く未来と胸に秘めた秘密とを夜通し語り合った、怜悧で昂らぬ瞳を持った女性──あれはいつの事だったか。彼女は自分の話し相手をしてくれ、自分は彼女の話し相手となった。たった一人だった。たった一人だけだ。彼女と一緒に過ごしたかった。夢想は彼に優しく暖かで、星を近くまで寄せ付けた。悲しみと楽しみとは誠に仲が良く、実は同様のものなのだとも、それは思わせてくれた。年中酔っぱらって居る事さえすれば。これを悪い事と蔑む人間は一体誰か。誰が悪いなんて言える?この世の誰が?それは、何もせず、喪失感を味合わされた事のない人間だ。戦っていない人間だ。我々は戦った。戦う事で未来を見出した。途中で逃げ出した奴等、奴等は奴等で酔っぱらっているのだ。だが、あの連中は哀れな身の上で、何も分からないのだ。何が正しい事で、信念が何か。奴等は生きるという事に深く食い込んでいない。だから、本当の事がいつまで経っても分からないのだ。星が近かった。それに、スネイプの念頭に次々と現れた面々は非常に懐かしかった。この瞬間、彼はこの空間と一つになり、何もかも神聖と思えた──何もかもが。世間という冷たい化合物が自分に行った仕打ちも、そしてそれを受け入れ、多くを語るという事をしなかった自分というちっぽけな存在さえも。
『私は虚しく涙を流すが、血はこれ程に辛くはない。君の為なら、心から血を流しもしよう』──スネイプは夢想の中で、報われぬサラに何度も手を差し出した。内省の中でも、矢張りその表情には閃きや生気が足りず、美しくて優しげな眼は何故か物憂げに開かれていた。夢想から覚め、曙を見た時、彼は彼女に思い焦がれた。陽が高く昇り、霧が消え、疲れた白昼が花や樹に重く伸し掛かり、去り際に休息に向かう時でさえ、彼は彼女に思い焦がれた。夏の日の去るよりも遥かに早く、青春よりも遥かに早く、幸福な夜よりも遥かに早く、夢想は訪れたと思うと去ってしまうのだった。そして、その後は、木の葉が枯れた時の大地のように、眠りが消えた時の夜のように、喜びが逃げた時の心のように、彼は独り、ただ独り残された。もし、もう一度彼女に会う事が出来たとしても、私はこのまま死んでしまうだろう。願わくば、永き悲しみと苦しみの果て、我が愛しの君の腕に、再び掻き抱かれん事を……。
「──何をしに来た?」
部屋を見れば、その人間の性格が分かるというが、確かにそう言う事が出来ると、サラは思った。それは、狭苦しい、ほんの申し訳程度に、僅かばかりの家具を置き、何とか住み心地良くしようと苦心した部屋であった。古物市場なんぞから買って来たような、危なくて動かせないようなソファーと、手洗い台と、衝立てで仕切られた鉄の寝台があった。また、特に丁寧に掃いたり拭いたりする事をせず、テーブルの下に薄っぺらく見窄らしい絨毯を敷いたりしてある。そして、本を山積みにしてある二つの机が、寝台の直ぐ傍にあった。本や羊皮紙、インク壺の何もかもが実にきちんと整理されていた。人生観と一致する秩序の典型、と彼女は心中で呟いた。本はかなり沢山あったが、それも雑誌や新聞の類いではなく、立派な書籍なのである。彼は明らかにそれらの本を読んでいる形跡があった。相変わらず彼は、極めて物々しい態度できちんと端坐して読み、書いているに違いない。スネイプの動作の一つ一つが、来客であるサラにこう語っていた、『私はこうして君と話をしているが、君が帰ってくれたら、中断していた仕事に直様取り掛かる』……それでも、彼女は矢張り去る事をしないで、その場に立っていた。何故か窓際に二つ置かれた籐椅子に、外の日差しが窓より差していた。それらを、スネイプは見ていた。その窶れた顔に柔弱な感じはなく、引き締まっており、以前のように親切げな影を帯び始めていた。闇色の目は、全ての悲しい出来事を経験して来たように見え、苦痛と苦悩の階段を一歩ずつ上り詰め、遂に高い静かな超人的な理解の世界に辿り着いたように見えた。
「取り敢えずこの部屋、綺麗にしても?」
「触るな、放っておけ」
スネイプは耳を傾けたようであったが、サラの方へはちらとも目を向ける事をしなかった。彼は、自分とは何者であるか、何の為に生きているのか、という事を考えると、その答えを見出す事が出来ずに、絶望に陥った。しかし、もうそれを自問する事をしなくなった時には、自分とは何者であり、何の為に生きているかという事も、何か分かっているような気がした。というのは、彼は病魔に冒されながらも、しっかりと働き、やるべき事はやり、悲しみは依然として心中に残っていたが、有終の美を飾ったという意識の下で生活していた為である。例えそれが虚偽であろうとも。
「辛いのなら、横になったら?」
「何も、触るな」
こうしてスネイプは、自分とは何者であり、何の為にこの世に生きているかを確信出来ずに、いや、それを確信出来る可能性があるとも考えずに、その無知を悩む余り狂死を恐れるまでになりながらも、それと同時に、この人生に於ける自分独特の一定の道をしっかり切り開きながら暮していたのである。サラは黙って彼に手を差し出した。ごめんね、と聞こえはしなかったが、唇の形がそう言ったのを彼は捉えた。あの時に去った事、自分から、自分の想いから背を向けた事。彼は己の手を力強く握り締めた。ある種の異様としか言い様のない印象を募らせながら、床をじっと見詰めていたが、実に様々な、この三年間の内に思い続けて来た様々な考えが唐突に、堰を切ったように浮かんで来たのだった。「君が謝る事はない」と、彼は悲しそうに言った。とはいえ矢張り、それが本心なのかどうかは、彼女には分からない。彼の内部には常に、どうあっても絶対に見せようとしない、心の皺のようなものがあった為である。『我が愛しの人、彼女が来るよ、その足音がどれ程に軽やかであろうとも、我が胸は聞いて高鳴る、例え我が身が土の褥に横たわる土塊になろうとも。我が骸は聞いて高鳴る、死んで百年横たわろうと、愛しの人の足元で驚き、震え、色紫と赤き花に咲き出す事もあろう』──ある日の新聞、欄外に追いやられていた古い詩の響きが、スネイプの脳裏に思い返された。サラの手は、未だ差し出されたままであった。

The Fray - Look After You