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Thy grief in my deep sighs still speaks



男を女から遠去けて置く事は、誰にも出来ない──サラはこのままホテルにじっとしていたくなかった。一人切りでいる事が耐えられなかったのである。心は愛情で溢れていた。もう一人の冷静な自分が困った顔をしているのを感じたが、それでも誰かと一緒にいたかった。彼女は、もう長い間会っていないような気のする、つれない想い人を思い出した。だが、その想い人は、彼女が構ってあげない為に悲しみに浸るような人ではなかった。そのような時間も無ければ、そのような性格でもなかったのである。仕事を放り投げ、飛行機に飛び乗り、その想い人に会いに行こうかとも思ったが、その気持ちを彼女はどうにか抑えた。何故かは分からないが、このままだと一生英国に帰れなくなってしまう気がした……いや、サラはそれが何故かを魂から知っていた。その想い人に向けている愛情を、自分を騙し、面影のある別の男に注ぎ、気を紛らせるのが恥ずかしい事に思えたのだ。但し、面影ある男を訪ねなかったのは、結局、迷信からだった。会えば想い人を裏切る事になり、それが祟って彼女自身に不幸が降り掛かって来るような気がしたのだ。だが、アルマシーは現れた。その現れ方は、マロリーとは異なる。マロリーの特徴は背筋の通った姿勢、力強い歩き方。そして、自分を見る空色の目──他人を注意深く見詰める事を余りせず、いや、何かを仕出かした007とQを問い詰める際には、言い逃れ出来ぬよう凝視するのだが、自分の時はさっと見て、さっと視線を外す。腹立たしい程に潔く。だが、自分が話し始める時、特に何かについて夢中になって話し始めると、彼の目には幻想的な明かりが顕になり、消える事はない。虹彩の外側を縁取っている灰色の部分が青色を増す。そんな気がする。昨日、電話をくれた。どのような状況で掛けてきてくれたのか。残業中の一息吐いた時にふと思い出したのか、それとも出立前に声を掛けるのを失念した事を覚えていたのか、それとも私の事を、今少しは思ってくれていたのだろうか。対してアルマシーは今、気配を消した警護と化し、バザールで賑わう人々の間を進む、サラの少し離れたところから彼女を追っていた。彼女は其処ではたと気が付く。彼の表情を殆ど見た事がない事に……。彼女は首から提げていたカメラのシャッターを切った。一応観光客なのだが、カメラを構えた事など殆どなかった為、肘を変に曲げた。曲げ方が可笑しかったのではなく、エジプトの食事が口に合わず、痩せて骨が突き出ているように見えたのである。砂が付着した液晶には、一人の男。カイロに迷い込んだヨーロッパ人と言うよりは、砂漠が気紛れでカイロに送り出した漂流者。大抵の事について、『我が友ヘロドトスはこう言っている』と驚く素振りを見せないのだが、此処では珍しく些か目を見開いている。すっかり日焼けした肌。矢張り、美しかった顔立ち。それは最初に見た時と同じ。いや、それ以上に。尾行を撒き、角で待ち伏せしたのである。彼女は笑ってやった。
「また私がボラれないように、見張っていたんですか?」
「君は自覚がある。見張っていても意味はない」
「じゃあ、何でついて来たの?」
何らかの符合がアルマシーの心に何かを与えた。それから直ぐに彼はサラを探しに飛び出したのだ。そして、これ程までに早く彼が自分を思い出してくれた事を、彼女は永久に忘れる事が出来ない。カメラを下ろし、彼女は彼を見やった。そして鋭い、探るような、恐ろしく注意深い、極度に真剣な彼の目の表情に気が付いた。それは昨日、飛行機の座席から降りる時、気の沈んだ自分に水を与え、車の方へ自分を連れて行きながら、耳を欹て目を光らせ、自分の気を紛らわせる為に歌を歌ったり、砂漠の話をしてくれた時の、あの目と全く同じ表情であった。恋に酔い掛けてはいるが、未だすっかり酔い切ってはいない人間には、不意に頭が完全に冴え渡る瞬間があるものである。
「スラの涸れ谷には、泳ぐ人を壁一面に描いた洞窟がある。俺は君に、壁にその形を描いて見せてやる事も、六千年前の湖岸まで案内してやる事も出来る」
サラはその場に佇んだまま、両手を重ねて、アルマシーの話を聞いていた。彼は度重なる遠征で培った知識で構成した自分の世界で、相手の心を掴もうとしていた。自分がその目的を達したかどうか、彼には何とも言えなかった。彼女の顔からは、その心がどのような動きをしているか、推し量る事は難しかった。顔は同じ愛想の良い、細やかな表情を保っていたし、美しい眼は注意深く光っていたが、それは穏やかな注意だった。彼の無愛想な態度は初めの内、彼女にぎこちない作用を与えたが、直ぐにそれが彼の照れ隠しである事を見て取ると、却ってそれが彼女の自尊心を甘やかした。ヘロドトスも彼だけの友ではなくなった。砂漠に水はない。だが其処には、泳ぐ人が描かれた壁画があるという。サラは顔を上げた。マロリーの存在が、このアルマシーという男の前になかったのなら、私は彼に恋をしただろうか?若さ故の情熱で以って彼を愛し、また彼の愛を受け止めただろうか?彼女は身震いが出た。ある種の恐怖で心が凍る思いがした。その考えを他へ外らそうと思った。だが、終に出来なかった。「──私、見てみたい」と、彼女はやっと息を整えながら囁いた。彼女の心は激しく踊っていた。そして、勿論、暑さの所為ばかりではなかった。

泳ぐ人の洞窟。北緯二十三度三十分、東経二十五度十五分。壁画のある、あの洞窟へ足を運んだ。今度は一人ではなく、女と一緒に。自分だけの世界の中に、アルマシーは女をいざなった。
「太古には、此処に湖があった」
忘れる事の出来ない、低い、なだらかな声が洞窟の中で響いた。その声でサラの心は一時に震え出した。その声には、何か彼女の心を貫き、波立たせたものが込められていた。
「古代の戦士は愛する者を永遠に保とうとした、とヘロドトスにある。永遠にしてくれる世界に連れて行き、其処に留めた、と。色鮮やかな液体の中、歌の中、岩壁の絵の中に」
美しい目をしていると思う。暗黒からの灰色の凝視。あの中で、全ての事が起きる。見られた者に、一瞬、無数の視線が煌めいたと錯覚させ、また灯台の光のように遠去かる。サラは、自分の直ぐ傍にアルマシーの接近を認めた。彼女は驚く様子を見せなかったが、彼との運命的な出会いを何と解釈したものか分からなかった。長い間、彼から眼を逸らす事が出来ずにいた。心身ともに震撼させられた一連の出来事により、全く熱に浮かされているのではないかと疑われた。
「──私を永遠にしてくれる?」
二人は岩を伝って高原の麓に降り立ち、暫く佇む。車はない。飛行機も、コンパスもない。あるものは、月と二人分の影。そして、北北西を指し示す古い石の標識。 北北西にはエル・タジがある。七十マイル行けば市場があり、時計の並ぶ通りがある。だが、其処に用はない。男は女の手を引き、自分の影の角度を記憶し、歩き始める。肩には、水で満たされた革袋。歩く度に、胎盤のように波打つ。女の手は次第に冷たくなる。洞窟の内部はもう寒い。男は、アカシアの小枝を集めて小さな火を起こし、立ち昇る煙を手で煽いで、洞窟の隅々にまで行き渡らせる。女に直接話し掛け、また洞窟に向かって宣言をする。声が壁に跳ね返る。そして、ヘロドトスを取り出し、二人の傍に置く。月の光に満ちた砂漠から、洞窟の焚き火の光の中へ──声が震えた。死ねば、此処で永遠となる。この洞窟の中で、私は貴方によって永遠に保たれる。そして貴方も、私によって永遠となる。

ホテルの光がサラの脳梁を震わせた。感じた疲労と全身に纏った砂埃。上下に激しく動く鉄の箱から降りた二人だけが、砂漠帰りを表していた。頭はがんがんと鳴り響き、その頭を急激に動かすと眼前がふっと暗くなり、高熱が引かず、時々意識が半分遠退いた。私はこの国へ何をしに来たのか。任務をしに来ただけ、ある物を、一人、或いは複数の敵がそれによって死に至らしめる物を、仲間に手渡しに来ただけ。此処は単なる場所であり、私はその訃報とエージェントの勝利を英国のラボで聞くだけである。エージェントが来るまでは非日常、来た後は日常の再現。無情の再現。さあ、お馬鹿さん、貴女は独り切りなんだからね。サラは心中で自分に言い聞かせた。自分以外に頼れる人はいないんだから、しっかりしなきゃ駄目。夢想を追っては駄目。夢想は消えて無くなるもの、だから諜報員には不要なもの。英国は決して夢を見ない。英国が見るものは影と勝利だけなんだからね──遠い、背後で、ギザの夜空に音楽が鳴り響いた。彼女は振り返った。様々な色に着色された三つのピラミッド、天を貫く照明、そして、それらを見守るスフィンクス。生暖かく心地良い夜風が、夢想と無数の砂を運んで来ては、彼女の頬にキスをした。
「ヴェルディのアイーダだ。観光客向けのショーを音と光で演出していて、アブ・シンベルでもやっている」
「スーダンとの国境付近の?」
「ああ。スーダンに向かって四体のラムセス二世が建てられている神殿だ」
「──ラダメスは嘸かし幸せだったでしょうね」
サラは血の気の失せた唇を震わせて呟いた。突然、小さな痙攣のようなものがその顔を走ったのを、アルマシーは見逃さなかった。若い頃は、誰も鏡など見ない。鏡を見るのは、年を取ってからだ。年を取ると、名前や評判が気になり始める。自分の人生が将来にどのような意味を持つのか、考えるようになる。名前が自慢の種になる。 我こそ最初の発見者、我こそ最強の軍隊、我こそ最高の商人.....。 ナルキッソスも、老いると自分の像を刻んで貰いたがる。だが、彼の関心は、未来にはなかった。 重要なのは過去。 自分の人生が、過去にどのような意味を持つかだ。自分達は若く、権力や財力が一時のものである事を知っていた。『先の時代に偉大だった都市は、今衰えて小さくなり、私の時代に偉大である都市は、先の時代には小さかった……人の幸運は、決して同じ場所に留まらない』──彼はヘロドトスに共感した。
「人の幸運は、決して同じ場所に留まらない」
『私はエジプトを率いる事になるだろう。そして勝利の只中で、王の前に跪き、私は心を開く。貴女は私の勝利の花輪となる。そして、不滅の愛に祝福されながら、私達は生きよう!』──エジプトの若き司令官ラダメスが、王女アムネリスの仕女であり奴隷であり、敵国エチオピア王の娘である、想い人アイーダにそう告げる。幸福の中におり、幸福を知った若き男女である。だが、不幸は突然訪れる。エジプトは敵国エチオピアに勝利する。エジプト国王はラダメスのその功績を称え、娘である王女アムネリスの伴侶である、次代国王に指名する。恋人二人は心臓を裂かれる。ラダメスは先の戦争で、アイーダの父であるエチオピア王を捕虜としていた。エチオピア王の軍とアイーダを秘密裏にエジプトから逃した際、ラダメスは逮捕され、裁判に掛けられる。『人生は憎しみに満ちている。喜びの源は、全ての喜びの源は枯渇し、全ての希望が消えた。私はただ死にたい』、『死は最大の善である。彼女の為に死ねるのなら、自分の運命に出会う事で、私の心は大きな喜びを知るだろう。私は死を恐れない、私が恐れるのは貴女の憐れみだけです』──王女アムネリスはアイーダの死を偽り、それをラダメスに告げる。アイーダを諦め、私のものになるのであれば、私は貴方を助けようと王女アムネリスは言う。しかし、ラダメスはアイーダだけを想い、王女アムネリスの憐れみを退ける。エジプトの裏切り者ラダメスは死刑となり、静謐なる地下へ。だが、其処には死んだ筈のアイーダがいる。『心の中で、私は貴方の運命を感じました。私は密かにこの墓に入り、貴方を迎える為に、人の目から遠く離れたこの場所で、貴方と共に死ぬ事を選びました!』、『地球よ、さらば!ああ、天国が私達の為に開かれる』──此処で、ラダメスとアイーダは再び幸福となる。二人を自由にするものは死であったという訳である。生と死によって、愛する人と裂かれる事よりも、愛する人と一緒になる為に死を選んだのである。
アルマシーの顔は暗く、厳しく、微笑の陰影もなかった。目にはある決意が焼き付いていた。サラは見詰め返した。マロリーが思い出された。彼の名を叫びたかった。届く筈はない。だが、ついこの間、あれ程に近くにいた時も、何度も彼の名を心中で叫んだが、届く事はなかった。全てを飲み込むこの地でも、矢張り彼の名は星の如く光り続け、その配置を換える事は出来ない。手は届かず、私の息吹も感じる事はない。サラはホテルの影の中にいる。アルマシーは月光の中に立っている。男が女に歩み寄る。更に近く。抱き締めるのか、と女は一瞬思うが、男は右腕を前に突き出し、女の剥き出しの首に触れながら、また引っ込めた。肘から手首まで、男の湿った前腕が肌を擦って行った。男の腕の動きは、刃を真似たように見えた。女は、首に残る男の汗を血糊のように感じていた。砂漠で祝われるものは水以外にない。この砂漠で、祝われるものは水以外にない。ラダメスとアイーダの愛が祝われる事がなかったように、私と彼の出会いも祝われる事はない。決して。
「じゃあな」
泣きそうな顔を浮かべたサラが、ホテルの中へ消えて行く。振り返ってはくれない。アルマシーは車に戻った。助手席には置いてけぼりのカメラ。彼の給料では簡単に手に入れる事が出来ない程の、上等な代物。愛用していたとは思えない程に傷が無く、そして砂で汚れている。彼はその中を覗き込んだ。一枚目はテムズ川を撮ろうとしたのだろうが、ぼやけている。奥には血のロンドン塔。二枚目からは雨降るような数々の砂漠の写真。そして最後に、バザールでの、驚いた顔の男……。人間が唯一として写っているのは最後のみ。『私を永遠にしてくれる?』──アルマシーはホテルを見上げた。早く遠征が始まれば良いと思った。そうなれば、数ヶ月の間は余計な事は考えなくて良い。はっとさせられる程、自分をこれ以上近付けさせないようにする、時折鋭く光る深緑色の眼差し。茫洋と空を見詰める後ろ姿。非の打ち所がないアクセント。目が合うと、年頃の女らしく振る舞い始める、小生意気な表情。サラ、と彼は無言で呼び掛けた。遠征が始まれば、砂漠と死の事を考え、ヘロドトスとの対話のみをする事が出来る。サラ、と彼はもう一度呼び掛けた。ホテルの窓に、アイーダは現れなかった。

Lana Del Rey - Margaret ft. Bleachers
Giuseppe Verdi - Aida