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For it was not into my ear you whispered, but into my heart



花火が黒色の空に咲く音がひっきりなしに響いている。だが小雪の耳にはそんな花火の音も、人の話し声も入っては来ない。ただ聞こえるのは淡々と鳴る自分の心臓の音と、自分の思考の波の音である。夏の湿気を含んだ生温かい風が小雪の前髪を乱す。自分の手は髪を整えることもしないでただ両脚を固定している。恒例の祭りには里中の人たちが集まっていた。人はこの世に大勢いて、この世の何処にでもいる。自分も群れの中にいるが、人は自分には気づかず通り過ぎる。そして自分も人がいることには気づかず通り過ぎる。だがもし自分が誰かの存在に気づいたとして、それは一体人生に何回あるだろうか。その人の存在に気づき、その人の顔を見る。そしてそのとき、一体自分はその人をどうするだろうか。今までのように通り過ぎるのか、その人の手を取るのか。それともその人が自分の手を取ってくれるのか。
よう、と男性の低い声が耳に入って来て小雪は振り返った。立っていたのは浴衣姿のガイだった。下駄を履いている足から順に見上げた小雪はすぐさま目を細めて笑った。彼の真っ直ぐな視線と自分の視線が合わない為に笑ったのだが、相手が立っていると何処に視線をやればいいか難しい。だがガイは小雪の隣に腰を下ろしてくれた。安心した小雪は前を向いた。花火でも見るように前を向いた。彼とは顔見知りである。彼はとても騒がしい類の人だと有名だが、小雪の前では余り口を開かない。馴れ馴れしくよう、と言って顔を見せて来たり、何も言わずに隣に座ったりするが話題を振ったりはしない。小雪はそれを不思議には思っているが口には出さない。どうでもいいからだ。誰が隣にいようが、どんな話をしようが自分の気分次第では自分から腰を上げればいい。誰と一緒にいたいかは自分で決める。小雪は少し顔を右に動かし、花火の色に染まる横顔を盗み見た。なにか思いつめているのか、少し険しい顔つきだった。眉を寄せ、鋭い眼差しで花火を見ている。彼は何も言わない。そのとき小さな風がガイの髪を揺らした。生え際が見え、普段隠れている耳が見えた。──髪、切ったらいいのに。思わずそう言いそうになったとき、ガイの視線と小雪の視線が交わった。花火が幾つも打ち上げられる中、二人はお互いを自分の瞳に映した。小雪は一度瞬きをした。だが彼は一度も瞬きをしない。彼は一瞬たりとも視線を小雪から逸らさなかった。すると三人程の子どもの声が飛んで来た。ガイ先生!とその子どもたちは言った。小雪はガイの左手が空を切ったことに気づかなかった。ただ彼の持つ漆黒の双眸を見ていた。ガイは小雪の瞳から視線を外し、自分の班の教え子たちに向かって軽くその左手を上げた。そして彼は腰を上げた。お面をつけたり、食べ物を片手にはしゃいでいる生徒たちに囲まれたガイは心底楽しそうに笑った。小雪は前を向いた。花火を見たのだ。ガイは一度後ろを振り返って小雪を見たが、そこに彼女はもういなかった。
花火が黒色の空に咲く音がひっきりなしに響いている。祭り二日目の今日は昨日よりも断然人が多い。並ぶ屋台に群がる人々を小雪は見下げた。今日の朝、家のポストに珍しく新聞以外のものが入っていた。それを取り出して見ると、筆のようなもので『祭りの近くにある高台で待っている』と読みやすい大きな字で書かれてあった。小雪は思わず小さく笑った。これで来た人物が、彼でなかったらどうしよう。小雪はこの手紙の送り主が彼だったらいいなとぼんやり思った。思いつめた横顔を見てからずっと気になっていたのだ。悩みの一つもないような人だと思っていたから。今日はそれがなにかわかるかも知れない。自分に言ってくれるかも知れない。小雪は肝心の時間が書かれていないことに少し不安になりながら、手紙を机の上に置いた。
浴衣姿に戸惑いながらガイを待った。他の誰でもない、彼に来て欲しいとと小雪はただ待った。一秒一秒が長く感じて花火を見て気を紛らわせた。ここだととても近く感じる。もしかすると今あがった花火が散ったとき、もしくは次の花火があがったときに来るかも知れない。そう思うと一度心臓は大きく音を立てた。だが全く気を紛らわせることが出来ずに、背後の気配に気づくことが出来ずに小雪はその場に立っていた。
どうも調子が狂う。家から高台へ行くまでの足取りは酷く軽く、全速力に近い程だったのに、花火を見上げている彼女の後ろ姿を見ると急に足に重りでもつけられたように動かなくなったのだ。何故だ。昨日決めた筈だぞマイト・ガイ。ちゃんとこの心に決めた筈だ。手紙もポストに入れたし、幸運なことに彼女も来てくれたし、もう後には引けない。するともう行くしかない。行くという選択肢しかない。青春だ!青春を前に怖気付いていては駄目だ!
よう、と男性の低い声が耳に入って来て小雪は振り返った。濃紺の浴衣姿の彼が、ガイが立っていた。小雪は思わず微笑んだ。よかったと自分でもわかるぐらい安心したのだ。彼以外の人が来たら帰るつもりだったのだから。一方そんな可愛らしい彼女を見てガイの心臓は一層大きく鼓動をし始めた。わかった、もう十分わかったから、頼むから心臓よ、治まってくれ。ガイは彼女の隣に立った。今からなんだ、今からだ!言うぞ!!受け取れ!!
「」
花火の咲く音はガイの予想以上に大きかった。自分の耳に届かなかった時点で肝心の相手にも届いていない。そう考えたガイはスッと指先から心臓にかけて熱が冷めるような感覚に襲われた。この言葉が届いてから後のことばかりを気にして、この事態を想定していなかったガイは、ただ口を開けたまま、彼女の顔を眺めることしか出来なかった。散った。花火のように呆気なく散った。彼女の表情からは何も読み取ることが出来ない。もう一回言おうかと思ったが、さっきので一球入魂をしてしまったガイにはただ小さく息を吸って吐くことしか出来なかった。
小雪はものの見事に固まった。あれ程煩く打っていた心臓も、肺も動くことを忘れ、唯一目だけが彼を映してくれた。好きだと言ってくれた。今彼は好きだと言った。もしかして昨日、あんな思いつめた顔をしていたのは──私のことだったのか。人はこの世に大勢いて、この世の何処にでもいる。自分も群れの中にいるが、人は自分には気づかず通り過ぎる。この人が自分を見つけた。私もこの人を見つけた。随分と前に。小雪は恐る恐るガイの手を取った。
左手に温もりを感じた。見ると彼女の右手の温もりだった。ガイは彼女の瞳を見た。光で茶色に輝いている。そして彼女は笑った。自分の目を見て静かに笑った。視線を合わせることをしなかった彼女が、今自分をその瞳に映してくれている。自分の胸に灯ったこの想いを君に気づいてもらえてよかった。ガイは小雪の手を握り返した。