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Heart’s haven



小型貨物機の着陸は独特である。水平に飛び、砂漠の光の中で翼を傾ける。エンジン音が止み、地面に漂い降りる。飛行機の着陸するところを見たが、サラには飛ぶ仕組みが良く分からなかった。 飛んで来た飛行機の翼が傾いて日を遮り、静寂の飛行に入る。その度に何だか怖かった。アルマシーが、彼女のそんな不安を掬うように、まるでこの地で祝われる水を扱うように手を差し伸べた。躊躇している彼女の小さな手を掴む。深緑色の瞳は、彼の瞳を見まいとしている。彼は離陸する際、ふと後ろを振り向いたが、依然として彼女の眼を捕まえる事は出来なかった。
ホテルまで迎えに来たアルマシーの元へ、サラは何かじっとしていられないような気持ちで外へ出た……何か新しい大きな感情が、自分の心に生まれた事を自覚したのである。おまけにそれを、まるで故意のように全ての事情が盛り立てた。人工物が一切存在しない茶色の風景に、ただ太陽の輝きが反射する。彼女はふと英国を想起した。都会での生活──不幸な人間は、都会で暮す方が楽なのだ。都会では人間は百年も生き永らえながら、自分が疾うの昔に死に、朽ち果てた事に気付かずにいられる。多忙で、自分を深く顧みている暇がないのである。仕事だの交際だの、健康だの芸術だの、他人の事情だの教えだのと。あの客、この客を迎えたり、誰と誰のところへ行かなければならないと思えば、この舞台を観たり、あの歌手を聴く必要もあるという具合もある。何しろ、都会ではいつどの瞬間にも、絶対に見逃す事の出来ない舞台が一つか、時には二つも三つも一遍にある。或いはまた、自分自身や家族の誰彼が医者に掛からなければならないとか、自分自身や家族の誰彼の教育の世話にも時間を取られるといった始末である。生活そのものは空疎な、虚しいものにも関わらず。しかし、此処は何と荘厳な、死までも飲み込む程の美しさだろう!正にこの美を、"彼"と一緒に見られたら!英国の鉛色の厚い雲の下、MI6本部のオフィスで、上質な椅子に腰掛けている、つれない想い人。別離から然程時間は経っていないにも関わらず、サラは既にマロリーの事を考えていた。彼の人生は其処にある。だが、自分の人生はまた別にあるのではないだろうか。英国の為に、寝る間を惜しんで尽くして来た。命だって捧げても良い。だが、それが本当の幸福だろうか?絶望の中で死んで行った諜報員の後に、自分は続いているだけではないだろうか。彼は本当に私を愛しているのだろうか。愛していたとしても、それが未来にとってどうなるというのだろうか。彼女の前方にはアルマシーがいて、見事な操縦技術を揮っている。異邦人である自分の為に、嘗てこの国を支配した者の為に……。彼がもう一度、此方を振り返った。サラはゴーグル越しにその青色の瞳を捉えたが、その目付きには何か特別なものが感じられて、彼女をはっとさせた。思わず拵えた笑い。彼は合図を見せ、着陸準備に入った。彼女は呪われた地上に降り立つ事をしたくなかった。また、どんよりとした祖国を思い出したくなく、また自分が何者かである事を思い出したくなかった。飛行機は高原を掠めるように飛んで行く。高度を下げ、轟音を立てて地上を飛び去る。低く。アカシアの葉を引き千切る程に低く。 飛行機は左に旋回し、もう一度狙いを定め、一直線に突っ込む。そして突然、前にのめり、墜落する──死ぬならこう。今、死ぬのなら、こうして死にたい。あの人を想いながら死んだという痕跡を一切残さず、あの人の元に私の訃報が届けられる。それは殉職という崇高な響きではなく、情報提供者或いは愛人との心中という神聖な響きで以って──砂漠では、分別の意義を見失いがちになる。 空から砂漠に着陸した時、砂漠が黄色い波間に見えた。
いつの世でも、人間は砂漠で詩を吟じて来た。砂漠での調査を地理学協会で美しく報告し、木の燃えさしに理論を吹き込む。孤独への愛を書き記し、発見したものを前に深く考え込む。一方でアルマシーは、仲間内の技術屋であり、機械工である。一体何を考えているのか、誰にも良く分からない。だが、彼も矢張り、砂漠を愛する人間の一人である。川を愛する人間には川を見せてやれ。子供時代を過ごした大都会を愛する人間には、大都会を見せてやれ。だが、ラディスラウス・ド・アルマシーには砂漠を見せてやれ。彼はつかつかと歩み寄り、サラのゴーグルと革のヘルメットを外してやると、微笑を溢しながら、なよなよしい彼女にじっと注意を凝らした。「砂の味がする」と彼女は言って、唇の隙間から舌をちらっと覗かせた。春咲く花のように、僅かに頭を下げると、半ば透き通るような指をした色の白い手を額へ持って行った。その影から、彼女の顔の端と頬の一部を見て取ると、彼の微笑は更に大きく広がった。アルマシーは水筒を持って来ては、手拭いに水を含ませると、彼女の口元を拭いてやった。水に生きる女、と彼は謳った。
アルマシー曰く──『空中には、常に何百万トンもの砂塵が浮遊している。丁度、地中に何百万立方メートルもの空気があるように。地表で草を食む動物より、地中を這い回る動物、ミミズ、幼虫、地下生物、の方が量的に多いように。ヘロドトスの記録には、"シムーン"に飲み込まれたまま、再び帰る事のなかった多くの軍勢の事が記されている。ある国は"この邪悪な風に激怒し、宣戦を布告して、完全装備で進軍したが、忽ち砂中深くに埋葬された"』、『砂嵐は三通りの姿で襲う。渦。柱。面。 渦の砂嵐は地平線を消し去る。柱の砂嵐は魔神たちの踊り。面の砂嵐は"銅の色をし、自然が発火したように見える"』──運転中、様々な歌を口遊んでいる男だが、特にガーシュウィン兄弟はお気に入りらしかった。神秘と捉えられるようなものを、単なる知識として口に出したと思えば、米国風の軽快なリズムを安物の小汚い車の衝撃に刻み続ける。そうしている内、砂のこびり付いたフロントガラスが、水と緑の到来を二人に知らせた。砂漠の中心まで豊かさを運ぶ事は、神にだって出来はしない。異邦人だと分かると手を振って見せる民族。日陰で身体を休めている主とヤギ。父親に教えられ、時代遅れの大きな車を運転している小さな子供。脅威の五人乗りバイク。ラクダに跨った王者の風格を持つ警官。
「ナイル川だ」
小型貨物機に生まれて初めて乗ると賑かだったが、その間中、サラの顔に漂い続けた不思議な微笑が、アルマシーは気掛かりでならなかった。 それはわざとらしい微笑で、今まで終ぞ彼女が見せた事のないものだったが、彼はそれを彼女の新たな眼差しの所為だと思い込もうと努力した。それはまた、涙のように両眼から頬へ流れる微笑でもあった。彼女はある秘密──彼女自身の秘密か、或いは自分の秘密──を見破ったらしい様子にも見えたが、もし自分とこれからも二人切りだったら打ち明けてくれるだろうか、と彼は思った。対照的に、彼女は殆ど口を利かずにいた。アルマシーは指差した。
「オシリスは、彼を妬んだ弟によって十四に刻まれた。その欠片は国中にばら撒かれ、オシリスの妻イセトは、全ての破片を見付けた。一つ以外は。それは魚に食べられてしまってね。オシリスは復活し、冥界の王となった。オシリス……神々の父。妻が夫の為に流した涙がナイルとなった」
「一つ以外、というのは?」
「性器だ」
「そんな大事なものを……」
ギザへと続く道、信号のない道。破損したままの尾灯、汚れた命のサイドミラー。誰が誰に対して、将又何に対して注意喚起しているのか、将又挨拶しているのか、或いは歌っているのか分からない程のクラクションの嵐。若い二人の安逸なる笑い声は、その嵐の中へ溶け入る。このハンガリー人には何かがあった。学びたい、ああなりたい、隠れたい。サラにそう思わせる何かがあった。英国人である事と向き合わずに済む、そう思わせる何かが。ハンガリー人が彼女に話し掛ける時、ものを考える時、その話し方や考え方からはワルツが聞こえた。君も国を捨てたらどうだ。彼女は、今、砂漠にだけは神が存在すると認めたかった。外には通商と権力、金と戦争しかない。金力と武力の亡者がこの世界を形作っている。だが、砂漠にだけは神がいると信じたかった。砂漠に国はなく、神だけがいる。いいえ、砂漠には貴方がいる……。

サラはナイル川沿いの、台座の一つの下に設けられた大きなベンチに座っていた。爽やかな空気と涼しい影の中で、本を読んだり、考え事をしたり、完全な静寂の感触に浸ったりするのだった。それは、自分達の周囲や、自分達の内部に絶えず揺れ動いている広い生命の波を、殆ど無意識に、黙って密かに見守っているような、何とも言えぬ良い気持ちで、恐らく誰もが味わった事があるに違いない。するとその時、殆ど忘れ掛けていた端末が、ポケットの中で振動を立てた。だが、それはたった一度切りではなく、今も尚、振動を続けていた。忽ち彼女は現実に引き戻された。それも、腕を半ば力尽くで引っ張られたように。"非通知"と表示している画面に触れた。勿論、彼女には誰か分かる。つれない想い人、国を持つ人、非情な決断で国を影より支えている人。砂漠人種が、長い年月と血と汗で作り上げた地図や、彼等の念頭にのみ存在する、閉鎖的な部族の言語や習慣などといったものを、国の為に、将又戦争の為に利用する事を、些かも厭わない人。何処にでも潜り込むスパイ。そのスパイの上には、彼がいる。
《──バラデュール》
どうか静かにしていて、美しい声!どうか黙っていて、貴方だけが私の心を掻き乱すのだから。私の喜べない喜びと、私には見付かりそうもない栄光をちらつかせる声。私はもう貴方の声なんて聞きたくない。何故なら貴方の甘美さは否応なく私を、瞬く間に私を貴方の元へ赴かせ、その足元にひれ伏させ、崇めさせる結果となるから。今にして、この不幸のような幸福のような出張の事を回想してみると、サラは、これら全ての意外な出来事や偶然がまるで申し合わせをして、魔法の壺のような物の中から、一時に彼女の頭上に降り、落ちて来たような気がしてならなかった。彼女の眼の輝きは、自分でも闇の中に見えるような思いだった。
《エージェントの到着が遅れているようだな》
「はい。帰国は数日延びると思います」
《どうだ?ラムセスの国は》
「ラムセスの民達に、初日からボラれました」
《そうか。まあ、その程度なら良い》
遥か北の英国で、マロリーが僅かに微笑している。サラはその柔らかさに閉ざされていた心が開かれ、エジプト到着後からの出来事を一切合切、彼に話したかった。飛行機の中から見た舞い昇る砂埃、太陽神ラーの囁き。日焼けをした肌の為、眼光が更に鋭く見えるのだが、至って陽気で甘い物好きな人々。宝やミイラを発掘しては自国へ持ち帰り、自国の博物館に展示している英国や他国を、少しばかり憎んでもいる人々。「この国は砂漠しかない」と言って笑い、喫茶店でシーシャを吸い、一日を潰している人々。洗車をする意味を見出す事が出来ない程に汚れる車。そしてその車が走っている直ぐ傍から、新しいミイラが今も尚、発掘され続けている。パピルスは生き永らえ、死者の書を人々に読み聞かせる。脚を飲み込む程に細やかなアスワンの砂は、巧妙なガラス細工となり、人々を見守る。そして、そして……。
《気の向くままに観光して来ると良い。君の専門分野では、珍しい薬品があるかも知れん》
「ええ──首の根元にある窪みを何と呼ぶのでしょう?首の前の、丁度親指で押した大きさの……ちゃんとした名前があるのでしょうか」
サラは何かきっぱりと決意するところがあり、しかも、ある不思議な思い掛けぬ感情に魅せられたかのように、不意にこう付け加えた──そして、そして……イスラム教徒の美しい祈りの中に錚錚と浮かび上がる、砂漠人種の事を。彼のこめかみから汗が流れ出る。砂漠の試練をその繊細さで以って乗り越え、ヘロドトスが記した正確さで以って砂漠というものを捉え、愛している男。頬を流れた汗は、首元の窪みを通り、太陽の光で煌めく。ヨーロッパの上流階級に生まれながらも、全身砂塗れになり、遠征では何ヶ月も孤独になり、その孤独を紛らわせる為に歌い、曖昧なオデュッセウスと、神と、戦争というものをする国を忌み嫌う男。その窪みは全てが通る、ボスポラス海峡。
《──さあ、聞いた事がない》
そして、あの真っ直ぐで愚直な眼差し。社交界から遠去かっていると言いながらも、世の中の仕組みを理解しているような態度を取り、だがその血には詩が流れ、だがある時にはぱっと炎が燃え上がる──私は無事に帰国出来るのでしょうか。英国からこの国へ来た時のまま、そのままの姿で、私は帰れるのでしょうか。実のところ、明日にはロンドン行きの飛行機に乗って帰国したいと思っているのです。この国は私に幻覚を見せるのです。眼が眩む程の美しさで以って、私を砂漠で溺死させようとするのです。此処には何かがあります。言葉では到底示す事の出来ない何かが。出来る事なら、私を連れて帰って下さい。雨降る土地へ、西風吹く土地へ、嘗て世界を支配した小さな国へ、貴方の手で連れて帰って欲しい。私は、彼処で沢山の人が死ぬのを見ました。ラボの中で、試験管の中で、或いはエージェントの目を通して。ですが、此処では、自分の死がはっきりと見えるのです。私の死は此処が相応しいと、耳元で囁かれたかのように──サラは遂に一人切りになった。もう夜が暮れ掛けていた。頭が少しふらふらした。アルマシーの顔がちらちら浮かんだ。あの男の話が、眼差しが、彼女に全く別の光を当てたのである。彼女は考え易いように、ベンチに浅く腰掛けて頭を預けた。ほんの少し眼を瞑るだけで、眠るつもりは全然なかった。それが忽ち眠りに吸い込まれてしまった。どのようにして眠ったのか、全然覚えがない程である。 彼女は殆ど一時間も眠っていた。 誰も彼女を起こさなかった。

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