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The encounter



今回、サラはタナーより任務を受けたのだが、マロリーからは何の連絡もなかった。彼は常に多忙を極めている為、仕方がない。分かっているつもりではいたが、心の何処かで期待はしていた。遥々北アフリカまで、エージェントの為に超危険な化学薬品を運ぶのだ。諜報員ならば一様に降り掛かる身の危険──敵対する組織に情報が漏れていれば、例え彼女が死んだとしても、英国の土を踏めなくなるという危険は依然としてある。だから、出立前に、何か一言声を掛けられるだろうと自負していた。『気を付けて行って来なさい』は些か優し過ぎるかも知れないが、あの007に言ったみたいに『しくじるなよ』でも何でも良かった。だが、搭乗ゲートを潜っても、何の音沙汰も無かった。彼女は時折、彼の目には自分が透けて見えていないのではないかと思う事がある。自分は英国の諜報機関を構成する一部に過ぎず、また、彼への想いを構成する一人に過ぎないのだ。彼に『君は全く思い上がっている』と言われれば、『じゃあ、なんで私にあのような眼差しを向けるんです?』と言いたい。今なら言える。『身に覚えがないんですか?サー』とも煽れる──飛行機の着陸による衝撃から、サラは目蓋を開けた。最後の機内食を食べてからずっと眠っており、観たかった映画も途中で放り投げていた。エコノミークラスが齎す首の痛みを感じながら、ふと窓の外を見た──晴れ渡った青空は、英国人の網膜を怯えさせる程であった。舗装された地面からは細やかな砂が金色に舞っている。正に異国、北アフリカに位置するエジプト、古代から続く魂。『再び昇り出でよ、神々の都市よ』と魔術を以て命じるがの如く。
カイロ空港の外へ出た。英国の空に昇る太陽とは全き別物の太陽が、頭上には昇っていた。太陽は非常に大きく、また非常に近くにあり、直ぐ傍でその息吹が感じられる程であった。まるで太陽神ラーが、正に天より我々を俯瞰しているようである。これならば太陽神が其処にいると言われても信じて疑うまい。観光客の風貌を醸し出す為、Qより高価なカメラを預かっていた。サラはそれを首から提げると、法外な値段を請求されるタクシー乗り場へと向かった。諜報界のフォークロアに、全ての秘密作戦には天国でも数え切れぬ程の待機の日々が付き物であり、それぞれ別様にではあるが果てしもなく思え、元より来世とは何の関わりもない、というのがある。だが、今回の任務は、内容が内容なだけに直ぐに終わりそうだと思った。何のトラブルもなく、エジプトでの思い出作りをしないまま、直ぐに英国行きの飛行機に乗る事になるだろうと。
タクシーで郊外の方まで出た。サラは陽気な運転手に気前良く代金を支払い、遮る物が何もない青空の下を歩いた。心地良い夕べだった。全身が一つの感覚器官となり、全ての細胞から喜びを吸い込んでいた。彼女は自然の一部となって、不思議な自在さでその中を行きつ戻りつしていた。些か風が強く、砂埃でカメラは直ぐ様汚れてしまった。画面を拭き取った手を見ると、黄色の細やかな砂が付いていた。Qならば苛立ってそうだ、と彼女は何だか楽しくなった。これら全てが、心を惹かれるものであった。シャツ一枚になって石ころだらけの道を歩いていると、自然を構成する全ての元素がいつになく親しみ深く思われて来る。蛙が夜を迎える賑やかな鳴き声を上げ、鳥の歌声が、水面に細波を立てる風に運ばれて、対岸の方から聞こえて来る。サラは、風に騒めく木々への共感で息が詰まりそうだった。この川に似て、彼女の平静な心は幾分波立つ事はあっても、掻き乱される事はない。夕風が引き起こすこうした細波は、物影を映す滑らかな水面と同じように、嵐とは似ても似つかぬものである。
砂漠の上を飛行するというツアーが目当てだった。だが、その案内所には、長蛇の列を成している観光客。サラは様々な国籍の顔を遠くから眺めると、小さな飛行場を徘徊した。今日は無理かも知れない。すると、短い滑走路を歩き、一機の飛行機が帰投した。その飛行機は観光客用ではなく、どうも使い古している様子で、一人の男が降りて来ただけであった。革のヘルメットとゴーグルを付けたまま、男が何処かへ行くのを偶然見た彼女は、その目立たぬ地味な飛行機へと近付いた。踏み台に登り、前方の操縦席を覗き見た。降りる際にナップサックを漁ったのだろう、分厚い本が席に置かれてあった。その他に、エジプトとリビアの地図、シガレットペーパーに書かれた文字の羅列。何かが泳いでいる写真。恐らく壁画を写真に撮ったのだろう──これは人間だ、泳いでいる人間の壁画だ。此処に海はないにも関わらず……。
「どうかされましたか」
その瞳は灰色掛かった青色だが、底知れぬ深さを湛えた色で、額は物思わしげであった。顔の表情は情熱的だったが、何となく傲慢な感じがあった。痩せた顔立ち、日焼けをしていなかったら、顔色は蒼白であろう事が分かる。革のヘルメットを脱いだ男は、それはもう何とも言えない、この世のものとは思えない美しい男で、日頃他の異性には一向無関心であった彼女も、この砂漠の中の男だけにはゾッと寒気がした程であり、うっかり心を乱されそうになった。振り返ったサラは何か正気のない、引き攣った微笑をちらと浮かべた。砂と埃を纏う男。太陽とエンジンオイルの匂い。ただ美しかっただけではない。エジプトへ赴く自分に何の言葉も掛けてくれなかった彼、身を案じる素振りさえしてくれなかった彼、恐らく自分と距離を空けようとしている彼……その彼を、この男の顔が彷彿とさせた為である。
「あ……いえ、何でも」
「夜は飛びませんよ」
考古学者だと、サラの深緑色の瞳はその男を捉えた──ケンジントン・ゴアにある地理学協会で、講演をした事はあるのだろうか。ゆっくりとしか進まない砂漠研究。どの探検にも、準備と研究と資金集めの長い年月が先行する。南極大陸の氷の中に失われた沢山の命。猛暑と砂嵐の中でも、同等の犠牲は出るだろう。だが、眼前のヨーロッパの砂漠人種は、人間や金銭に纏わる問題は取るに足らない、といった顔付きをしていた。地理学協会を一歩離れれば無名の人間。閉ざされた小世界の端にいる人間。特殊な人間だ。地図で形を見るだけで、名前などなくても、どの町か分かるのだろう。考古学者の念頭には、いつも海のように情報がある。海底の地形図も、地殻の傷を辿った地図も、十字軍の行路を記した羊皮地図も。嘗てアレキサンダー大王が、どのような大義名分を掲げ、どのような強欲を秘めて、この地を行軍して行ったか。溺死は絶える事がない。空気を求めて開けた口に、突然、砂が入り込み、部族全体が一晩で歴史に変わる──もう直ぐ日が暮れる時刻であり、案内所には依然として観光客の列があった。それは寧ろ増えているとさえ思われた。サラは諦め、踵を返した。此処からホテルへ戻る為にタクシーを探した。すると、観光客が引き返すのを待っていたのだろう、苦労はしなかった。だが、法外な値段を請求され、気前だけでは乗り越えられない壁を建てられた時、彼等の神であるアッラーを手玉に取るか……と彼女はふと考えた。信仰がある人ほど、効果は絶大である。
「おい、君、一週間分の給与を取られるぞ。英国人にしてはお情けが過ぎる。一人で来たのか?」
「貴方はさっきの、」
「この国では真面なタクシーは捕まらない」
男は余りにも"この国"という言葉に特に力を入れ、一語々々弾き出すように言った。眼前に佇む英国人──ひ弱な白い島は、習慣と礼儀、本と宗教、そして理屈で世界の他の国々を変えた。一体どうやったのか。英国人といえば厳格なマナーである。ティーカップを持つ指だって決まっている。違う指で持てば、即座にテーブルから追放される。ネクタイの結び方が違っても放り出される。何が君達にそのような力を与えた。船か。それとも、歴史と印刷機か。男は無言のまま背後にある、砂に塗れた、荷物を沢山積んだ車を指差した。途端、サラの顔に陰険な微笑がゆっくりと広がり、眼が無言の歓喜を込めて男にひたと注がれた。男の言葉は英語だが、彼女にはそれが男の母国語でない事が分かった。不明瞭な音が彼女には直ぐに分かり、それを発音する時の舌の形を見た際、内心少なからずギクリとした。陽が沈み掛けている。風は相変わらず地上を吹きながら微かな唸り声を上げ、ある生きものは子守歌を歌い、他の生きもの達に囁き掛けていた。ホテルまでの道中、沈黙の中にいる男に、彼女はどういう訳か、是非貴方の飛行機に乗せて欲しいと言った。心配しなくて良い、料金は倍払うと言った際、男は彼女に一瞥をやっと寄越した。世界とは無縁でいられた砂漠。此処に今、自分はいるという自覚が、世界からの解放が、彼女にそのような奇妙な言葉を言わせたのかも知れない──その時、サラの端末に一件連絡が入った。エージェントの到着が遅れており、手渡しまで数日延期されるという。彼女は此処でやっと、先程の言葉を後悔した。

Christian Kuria - Deep Green