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I know in time will kill me



「──今日は解けていないな」
美しい、爽やかな朝だった。小さな色の斑らな雲が、薄れ掛けた瑠璃色の空に、子羊の群れのように浮かんでいた。細かい朝露が木の葉や草に一面に散り敷き、蜘蛛の巣が銀色に光っていた。湿った黒い土に、未だ朝焼けの赤い跡が残っているようであった。空から雲雀の歌声が降っていた──口を開くよりも早く、微かな閃きが、生き生きと輝く空色の目から放たれた。マロリーの視線は、直ぐにサラを見付けて捉えた。この瞬間、彼はいつもより大きく見えた。肩幅は広く、目はより青かった。彼はただ彼女を見て、彼女の表情を読んでいた。唇には微かな笑みを浮かべていた。
「どうやって結んだのか教えて頂きたいです」
「簡単に覚えられる。其処に座りなさい」
サラは靴を脱ぐ時に気付いたのだが、容易に解ける事のない、独特な結び方をしていた。マロリーが近くの革張りの椅子を指差し、その小さな仕草によって彼女は促された。椅子に座った途端、彼はあの時のように何の躊躇もなく床に片膝を突き、靴に触れて来た。あの時は咄嗟の、自然な流れだった為、意識は余り持って行かれる事はなかったが、今回は違った。彼がゆったりと近付いて来た為に、はっと息を止めた。咽喉が渇いたと感じた時には、彼女はどうする事も出来なかった。恐る恐る深呼吸をすると、彼のアフターシェーブの香りが胸を満たした。自分の心中に湧き上がる呻き声を呑み込んだ……彼からはとても良い香りがしたのだ。もう一度彼に触れて貰いたい、彼の香りを全身に浴びたい、彼を自分の近くに置きたい、彼がその素晴らしいスーツの下に何を隠しているのか見てみたい──サラはふわふわと何処かへ飛んで行くような気がした。彼女は彼に何かを打ち明けたいような気持ちにまでなった……しかしそれは抑えた。
「途中までは普通に結ぶ。そして、この輪になっている両端を持ち……」
マロリーは丁寧に説明をした。大きな二つの手の間にある靴は、何だか子供のようであった。サラは彼の、長い睫毛と形の良い鼻筋を、自分の脳裡に焼き付けるように見詰めた。彼は矜持に満ちた話し方をし、自分の意見を明確に表現する事も出来、いつでも人前に披瀝出来るだけの考えを密かに持っていた。彼は常に独自の見解を持ち、かといって決して見識振ったりはせず、無情で混濁しているように見えるかも知れないが、嘗てはワズデルの湖がそう思われていたのと同様、底知れぬ深さを持った人物なのである。大海に注ぎながら雄大に広がり、伸び切って行く河口を、私は貴方に見ている。ずっと前から。彼女は殆ど我を忘れて言葉を続けた。
「私のラボでも噂になっているんです。新任の委員長がとても魅力的だって」
「一体何の話だ」
自分の青春が空しく過ぎたと思うのは、何と寂しい事か。自分が絶えず青春に背いて来たと、また青春に見事一杯食わされたと、自分のより良い望みも新鮮な夢も、秋の木の葉が朽ちるように、みるみる内に朽ち果てたと思うのは。自分の行く手に、ただ死ばかりが長々と連なっているのを見る事は堪らない。 人生を儀式のように眺め、しかつめらしい人間の群の背後から、世論も情熱も分けて貰えず、とほとぼと歩いて行くのは遣る瀬無い。マロリーは笑い声を出し、空色の目はサラの顔を見上げた──昨夜、私は自分のベッドの上に横になったが、酷く胸が騒いでいた。私は大きな好奇心に突つかれ、仕切りに寝返りを打ちながら、有りっ丈の力を集め、この巡り合いの事を考え続けた。 自分がその時、この巡り合いから何を期待していたのかは知らない。勿論、私は取り留めもない考察に耽っていただけで、脳裏には思想ではなく、思想の断片がちらちらしていたに過ぎなかった。壁の方に顔を向けて寝ていると、不意に隅に明るく光る点が見えた。先程まで呪わしい気持ちで待っていたあの夕陽の作る明るい点である。ところがその時は、私の魂全体が途端に喜びに震えた事を覚えている。新しい光が、私の心に差し込んだような気がしたのだった。 この甘い一瞬を私は記憶に留め、いつまでも忘れたくないと思った。これこそ新しい希望と新しい力の一瞬であった……このような衝動は私の神経の状態の避け得ない余震であったのかも知れない。
「君は突拍子もない事を言い出すな」
「いえ……今、ふと思い出したものですから」
「で、結び方は分かったのか?」
「すみません、もう一回して頂いても良いですか」
マロリーが沈黙し、再び靴紐を解いたその時、オフィスのドアをノックする音が響いた。「入れ」との潔い号令に、サラはさっと顔を青褪めさせた。彼女は、この状況に対する羞恥心から顔を上げる事が出来ずに、彼の部下が近付いて来る靴音を聞いていた。肝心の彼は、そんな事に気にも留めず、相変わらず靴紐の結び方を淡々と説明していた。恐らく、いや、絶対に、彼の部下は私達二人に、怪奇な視線を思う存分注いでいる事だろう……。その時、彼の指が彼女の足首を一周した。彼の触れ様は温かく、確かだった。彼の肌は、彼女が夢見ていたものと同じくらいに柔らかい。彼の長い指が彼女の足首を圧迫し、脈を打たせた──果たして彼は今、私に与えている影響を感じているのだろうか?サラはふと思った。マロリーの感触は長く続いたように思われた。彼女の心臓は異常なまでに高鳴った。彼は彼女の心を引き寄せ、押し退けたりしない。彼女は、彼が触れている肌の隅々まで意識を持って行かれた。熱が全身をジリジリと刺激し、お腹や太腿に溜まって行くのを感じていた──お願い、お願い。私をこれ以上壊さないで。彼女は、自分が彼に何を求めているのか、明瞭に分かっていた。彼の静かな囁き声。二人の間に広がる静寂を満たす、あの声。ただ、彼がこのまま自分を見詰め、このまま自分に触れ続ければ、気が狂ってしまう事も明瞭に分かっていた。部下は抱えていたファイルをデスクの上に置くと、何も言わずに辞して行った。確実に、もうこれは決定事項だが、あっという間に噂が出回るに違いない。そして、その噂が一人歩きし、上司と邪な関係を持っていると言われるのだ……。最後に、彼の親指が彼女の足首の骨をなぞり、敏感な肌にヒリヒリとした感触を残して行った。
「──分かったか?」
サラはふとマロリーとの運命的な出会いを思い出した。その時の、あの本能的とも言える恐怖を考えると、それに比べれば、この状況は彼女を恐怖で満たしたとは言えなかった。漠とした思いに捉われた最初の瞬間、彼女の思考は彼に留まった。そして……彼女を何よりも捉えたのは、彼についての情報、 彼が恐らく独身であるという事、社交界での高名、彼を一目見られた時のお祭りのような日々、彼に認められた成功、輝き等々の情熱であった。『君の新薬開発は輝くばかりの美しさを持つ宝石のようだが、気を狂わせる』という彼の言葉が彼女の耳に蘇った。すると、彼女はこのような状況に陥っても心を引き締めて、沈黙を守り、もっと触れたい気持ちを抑える事が出来たとはいえ、自分の力を以てしてはこの循環から脱出する事が出来ない事を感じた。 この世界の生活の測り知れぬ渇望が、彼の魂が彼女の心の全てを掴んだ。そして、更にもう一つのある甘美な渇望が……彼女はそれを幸福なまでに、苦痛なまでに感じていた。彼女の考えは、何か堂々巡りをしているようだったが、彼女は回るに任せていた──今更、何を吟味する事があろう。マロリーは静かな美しい微笑を浮かべながら問うた。この微笑を、彼女は永遠に忘れる事が出来ない。彼女には分かった、この愛は軈て自分を殺すであろうと。

Taylor Swift - Bejeweled