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Death in life



マロリーが同じビルにいると分かった時、他の事に集中するのは難しい。隣の部屋にいるかも知れないし、ラボの前を通り過ぎるだけかも知れない。しかし、彼は何処にでも姿を現した。廊下の角を曲がれば誰かと話をしており、会議室に足を踏み入れば既に着席しており、朝にはジャガーで出勤しているところを見掛ける。サラは、彼を無視して通り過ぎる事が出来ればと思った。しかし、例え彼が、彼女の組織全体の責任者でなかったとしても、それは難しい事だった。彼と初めて不幸にも出会って以来、彼女は毎日のように彼に会って来た。廊下の向こう側に彼のシルエットが現れると、心臓の鼓動が早くなるのを感じ、彼の声を聞くと脳梁が震えるのを感じ、彼の目が闇の中から自分の行動全てを追っているのを感じると、緊張から唇を舐めてしまうのだった──今、眼前に立っているのが誰なのか、直ぐに分かった筈である。背が高く、すらりとした堂々とした体格、完璧な仕立てのスーツ、自分の全てを一身に受け止めるような鮮やかな青い目。そして、不機嫌なのか、将又上機嫌なのか、その何方かを暗示しているか分からない表情。ラボのドアが音を立てながら開いた瞬間から、サラの眼はマロリーを追っていた。彼の身体が真正面から近付いて来る。背筋の通った姿勢、力強い歩き方。彼の長い脚をもう少し長く見ていたら、彼が彼女に投げ掛けた素早い視線を見逃すところだった。その仕草は彼女の顔を紅潮させ、心臓を締め付けた。
「──バラデュール」
嘗てのサラは幸福であった。いや、今尚も幸福であった。彼女が初めてマロリーを見た神聖な瞬間が、縦しんば最後の瞬間であったとしても、彼女は幸福ではないだろうか。彼女の魂が求めていた唯一のものを、彼女は一度見たのだ。星の彼方に遠避け、時の終わりにまで押しやった完成を、眼の当たりに彼女は感じたのだ。最高のものが存在していたのだ。人間の身と具象の世界に、それが存在していたのだ。それが何処にあるか尋ねる事はもう不要である。それが世の中に存在していたのだ。再び世へ還る事が出来たのだ。今は世の中へ隠されているだけだ。それが何であるかも尋ねるに及ばない。彼女はそれを見たのだ。彼女はそれを知ったのだ。智の奥底に、孜々汲々の喧噪の中に、過去の小暗い中に、未来の迷宮の中に、或いは星の彼方に至高至善を求め──一であり且つ全てであるその名は美である。欲しいと思っていたものが何であるか、未だ彼女は知ってはいないが予感してはいる。新しい神性の新しい領域と、其処へと急ぎつつ、他の人々も捉えては引き連れて行く。恰も、河流が幾多の河を大海へ導いて行くように。そして、彼は……彼は、彼女に道を示してくれた人であった。彼と共に彼女が始まったものであり、彼を知らなかった日は日という言葉に値しない。
「サー、わざわざ来て下さったんですね」
「近くまで来たついでだ」
初めて出会った時のサラは、マロリーの期待に反していた。彼女は二言三言にこやかに社交上の挨拶を交わすと、異常な好奇心を浮かべて彼の方を見た。そして、彼も彼女を見ると、彼女は不意ににっこりと笑い、彼に会釈したのである。 最も、彼女は組織に入って来たばかりで、新来の人間として会釈したのだが、 それにしても微笑には溢れるばかりの善意が溢れており、其処には明らかに心の用意があった。そして、忘れもしないが、彼は常になく快い感じを覚えたのだった。サラが美しい事は議論の余地がなかったが、些か人間嫌いといったところがあり、ニヒリストのような大胆さを備えた小柄の娘で、炎と燃える目、うっとりするばかりの微笑、といっても、これがよく意地悪な微笑になるのだが、それに驚くばかりに美しい唇の持ち主である狡い小悪魔でもあれば、ほっそりとスマートで、熱っぽい表情に思想が芽生えてはいるものの、それと同時に、未だ未だ子供染みたところがあった。その歩き振りや言葉の端々に、実年齢が見て取れた。サラはQと同じ部署で働いているが、機械技術よりも化学に興味がある。様々な薬品の開発と改良をしており、現場に活用させる能力もある。マロリーは彼女のみに振っていた仕事の資料を受け取ると、ある一つの薬品に意識を捉われた。
「これは何だ?」
「無味無臭の劇薬です。ですが、飲むとその場で死にはせず、約一ヶ月後に死亡するんです」
「ほう」
「しかも面白い事に、飲ませ続けると死が延期されるんです。一度飲めば毒ですが、飲み続ければ蘇生薬となるんです。まあ、未だ実用段階にありませんが」
「人間で試したいのならば、私が試そう」
「あ、えっと……今のってジョークですよね?」
「勿論だ」
恐ろしく奇怪なアイデア、一見して凡そ有り得ないようなアイデアが、頭に余りにもしっかりと根付いてしまっている為に、軈てそれを何かしら実現可能なものと看做して仕舞う事がある。そればかりか、そのアイデアが仮に、強烈で熱烈な願望と結び付いていたりすると、どうにかしてそれをある運命的なもの、不可欠なもの、予め定められていたもの、最早生まれざるを得ない、起こらざるを得ない何かと捉えてしまうものである。もしかすると、其処には更に何か、様々な予感のある種の配合とか、何かしら異常な意志の力とか、自分の幻想への自家中毒、或いは他にも未だ何かがあるかも知れないが、それはサラには分からない。しかし、今、死ぬまで決して忘れる事はないであろう、彼女の身に奇跡的な事が起こったのだ。それは、数学のように完全にすっぱりと説明出来る事だが、彼女にはそれでも今持って奇跡的なのだった。それにしても何故、どうして、このマロリーを愛するという確信がこれ程にも深くしっかりと、当時の彼女の中に根を下ろしたのか。その事について彼女は確かに、何かしら起こり得る、従って起こらないかも知れない偶然の一つとしてではなく、決して起こる筈のない何かとして思い浮かべていたのだった。
「まるで冥府の神の仕業のようだな」
「というと?」
「飲んだが最後、幾ら延命しようが、ハデスの猿臂に囚われているという事だ」
まるで、恋の末路の破滅を呼ぶように──マロリーは身動ぎもせず、じっとサラを見詰めた。彼女も同じように彼を見詰めていたが、ただ違いは、彼女の眼には測り知れぬ驚きがあったのも関わらず、彼の目には露程の驚きもなかった事である。それどころか、この五秒か十秒の無言の凝視で、彼女をすっかり見抜いてしまったらしく、彼は不意に微笑した。しかも、静かに音もなくその微笑が続いた。最も微笑は直ぐに消えたが、明るい楽しそうなその跡が、その顔に、特にその目に残った。驚く程に青い、きらきら光るような大きな目だった。この彼の微笑は何よりも彼女の胸を打った。
「そう、ですね、確かに」
「どうした?」
「いえ、今一瞬、サーの表情が冥府の神に見えまして」
「……今のはジョークか?」
「いいえ。美しい男神かなって」
一瞬、サラの息遣いや眼差しに接近したかと思うと、興奮が高まって来るのを覚え、マロリーは些か当惑した。如何なる年齢も恋には無抵抗なものである。しかし、若い純潔な胸には、恋の発作は、春の嵐が野原を吹き渡るように恵みを齎す。 情熱の雨に濡れると、若い胸は瑞々しく生き返って成熟し、力強い生命が豪華な花と甘い果実を授けてくれる。ところが、実を結ぶ力もない、人生の変わり目に立つ彼ほどの年輩になると、ただ情熱の亡骸が痛ましい影を落とすばかりである。丁度、冷たい秋の嵐が草場を一面の沼と変え、辺りの森を裸にするように──サラは、別に思わせ振りな事は一言も言わなかったが、マロリーは恋の虜となってしまった。恋の勝利に慣れていた彼は、今度も間もなく目的を達したという訳である。しかし、易々と勝利を得たにしては、彼の情熱は冷めなかった。それどころか、何故か彼は益々苦しく、益々強く、この若い女性に引き寄せられて行くばかりだった。この女性には、我を忘れて男に身を委ねたような時でさえ、秘められた、触れる事も覗く事も出来ない、何ものかが残されているかのようであった。この魂の中に一体何が巣隠っていたのか──それは神のみぞ知るである。彼女はある神秘的な、自分でも分からぬ力に支配されているかに見えた。その力が彼女を好きなように操っていたのである。

Troye Sivan - In My Room ft. Guitarricadelafuente