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An exhortation



サラは、007の所為で着々と仕事が増えて行っているQの為に、彼の大好きなコーヒーを手に入れに外へと出た。彼女の散歩は暫く続いた。ある時は小さな花が、ある時はテムズ川が、それぞれの美しさでふと彼女の足を引き止めた。まるで、幼馴染みの親友と別れを交わすように、彼女は大急ぎで鉛色の分厚い雲や鳥の囀りとも話し合った。だが、その間にも、夏は素早く飛び去って行き、黄金色の秋が巡って来た。自然は華やかに飾り立てられた犠牲のように、打ち震え、青褪める。そう見る間に、北風が黒雲を追いつつふっと吐息を漏らし、ひゅうと唸り始めると、もう冬の魔女が近付いている──コーヒーショップから離脱する際、ドアのガラス部分に見覚えのある顔が映った。その非常に美しい目鼻立ち。サラははっと息を呑んだ。ギャレス・マロリーであった。彼は、ガラス越しに彼女の姿を認めるや否や、二つのコーヒーで手が塞がっている彼女の為にドアを開けてやった。何故か地面に視線を落としたままの彼に、彼女は不思議に思いながらも小さく御礼を伝えた。
「靴紐が解けている」
サラが念頭にてその言葉の意味を理解する前に、眼前のマロリーは既に姿を消していた。彼は冷え冷えとした地面に片膝を突いており、彼女のエナメルの靴に手を伸ばしていた。そして、彼の言葉通り、いつの間にか解けていた靴紐を、白皙の大きな手が手際よく結んでいた。ギャレス・マロリー──彼の名を口にすると、彼女は自分自身でも分からない気後れを、いや、寧ろ怖いような気持ちを感じた。そして、それと同時に、彼に対してのみ感じられる、感激に満ちた憐憫と愛とが彼女の胸を一杯にした。サラは彼に一目惚れした時の事をふと思い出した。彼女は相変わらずふわふわと宙に浮いており、心の中には、その時と矢張り同じ音楽が鳴っていたのだった。
「転びでもしたら、折角のコーヒーが台無しになる」
「気を付けます──此処には良く来られるのですか?」
「いや、今日初めて寄った」
「記念すべき日ですね」
其処でマロリーは僅かに微笑した。その表情が余りに突然で、新鮮で、従容たるものだった為、それまでのサラの深い疲労を殆ど吹き飛ばしてしまった。彼女を一時も見捨てる事をしなかったもの、常に彼女の前に存在し、彼女の心中でその美しさを些かも失う事をしなかったものが、たった今眼前におり、空色の澄んだ双眸が彼女を真面に捉えていた。
「仕事は順調か?」
「はい。というか、全部ご存知なのでは」
「まあ、そうだが」
サラは昔を想起した──部屋に美しい官吏が入って来た。彼女は貪るように彼を見詰めた。これまで未だ一度も会った事がなかったのである。といって、彼女が彼を美しいと言うのは、世間一般に彼をそう評している為だが、しかしこの美しい顔には何処となく人の心を突き放すようなところがあった。 彼女は最初の一瞬に、初めて彼に投げた彼女の眼が捉えて、その後永久に彼女の心に残った印象として、それを指摘するのである。彼は痩せ気味で、程良い背格好で、栗色の髪をしていて、顔色は艶やかだが幾分青みを帯び、決意に満ちた目付きをしていた。灰色がかった美しい目は、気分がすっかり和んでいる時でさえ幾分険しかった。しかし、この決意に満ちた目が人々を突き放すのは、どういう訳か見る者に何となく、その決意がごく安直に得られたもののような感じを与える為であった。どうも上手く言い表せないのだが、勿論、その顔は厳しい表情から一瞬にして驚く程に優しい、穏やかな、柔和な表情に変わる事が出来た。しかも、驚く事は、その変わり方の露骨な正直さである。この正直なところが人の心を惹き付けた。もう一つ特徴を指摘すれば、優しさと正直さがあるのにも関わらず、その顔が決して明るく晴れない事である。心底から呵々大笑している時でさえ、見ている者には矢張り、この男の心には本当の、明るい、軽い陽気さというものが決して宿った事がないのではないかというように感じられるのである......。このように、人の顔を看取するのは非常に難しい事だが、サラの魂は、その彼の美しさを拒む力を持ち合わせてはいなかった。一目惚れという形で心に残り、彼の名は懐奥深くに仕舞って置いたものだった。
「では、お先に失礼します」
何故、マロリーの名を懐奥深くに仕舞って置いたのか──私は貴方が好きだったんです、サー。サラは、突然、覚悟を決めたというように心中で溢した。それに、訓練生だった頃のあの一年も好きでした。貴方はお気付きになっていませんでしたが。私など、貴方に比べればちっぽけなものですから、貴方に気付いて頂くまでもないのです。第一、恐らく、そんな事をする必要はなかったのですから。それにこの数年間を通じて、私は貴方の事を忘れずにいました。何しろ、私の生涯でああいう年は今までにありませんでしたから。背を向けて、逃げるように歩いているサラの眼は、何か特別な輝きを帯び始めた。貴方の多くの言葉や格言は覚えていますよ、貴方の考えも。貴方の事は、火と燃える感情の持ち主で教養のある方だと、いつも思い出していました。高い教育を受けた、考え深い人というように。『偉大な思想は偉大な知恵よりも、偉大な善意から生まれる』これは貴方が言った事で、或いはお忘れかも知れませんが、私はちゃんと覚えています。ですから、私はいつも、貴方の事を偉大な感情を持っている方だと考えていましたし……それだけに信じてもいました、どんな事があろうとも。
このようにサラはマロリーに魅了されてはいたが、彼に一歩でも近寄ると、どうも上手く事を運べなくなってしまうのだった。特にあの空色の瞳が苦手に思えた。彼の魅力なのにも関わらずである──彼が未だ独身という事を考えると、彼を落とせた人は居ないという事だ。もしかすると、この英国を落とすより難しいのかも知れない。せめて、彼に相応しい見てくれの女性ならば良かったのに。靴紐を結んでくれただけで心を揺さぶられるなんて、なんと初々しい、愚かな女だろう……。彼という人間に、完全に魅了される前に、何処かへ逃げてしまおう。いや、逃げる事は出来ないから、極力顔を合わせないようにしよう。そうすれば、また彼の名を懐奥深くに仕舞う事が出来る。マロリーに会い、別れる頃にはいつも少し興奮して頭がぼうっとしてしまうのだったが、この"ぼうっとする"というのが、サラには何か危険な事に思えていた。ぼうっとした状態の時に我に返り、すっかり悲しくなる事もあった。但し、彼女はこの"ぼうっとする"に、簡単な説明を与えて済まそうとしていた。花が好きな人と同じだと考えたのだ。つまり、世の中には花は好きなのに、花の香りを嗅ぐと頭が痛み出す人がいる。それと同じだ、と。それなら花の傍で眠らない事、要するに、頭をくらくらさせるものに対して少し距離を取れば済む話だろう……。彼女がそのように考えたのは、このぼうっとした状態が不快なものだと思いたがっていた為である。だが、花の香りを引き合いに出すのは間違いであった。彼女が感じているのは頭痛ではなく、陶酔感だったのだから。

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