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Love is stronger than pride



騒がしく俗物な凡ゆるものから、常に遠く離れたところにサラ・バラデュールという人間はいる、というのがローゼンフィールドの認識であった。だが、今、注文した酒を飲む事をまるで失念したかのように、遠くにいるクーパーを見詰めている彼女を見た時、ローゼンフィールドがすっかり等閑視していた感情、自分の中ですっかり死んでしまったものと思い込んでいた感情が轟音の如く、その念頭で轟き始めた。仕事終わりなのであろう、気の迷いか何かでバーに立ち寄った二人の特別捜査官には、昼間の存在感がまるで無かった。ステージ上のジャズシンガーは、客を無上の眩惑に包む事に成功しており、また、客席の照明は酷く、まるで外界の闇夜に取り残されているかのようだった。その為、この二人の来訪を知った者はバーでたった三人だけであった。酒の注文を受けたバーテンダーとホーンの娘──後者は直ぐに感知した。恐らく意中の人物なのであろう、法悦さを隠す事をしないままクーパーの元へ赴き、いじらしくダンスの誘いをした少女。そして、その顛末を見ていたローゼンフィールドである。バーの中央には薄暗い光を浴びた踊り場があり、既に男女の影が幾つもあった。少女からの誘いを受ける事を躊躇していたクーパーだったが、サラが彼の持っていたグラスを取って促した。色の付着した照明が、才気と粛然さを具現させている、彼の彫刻のような顔立ちに当てられた。ローゼンフィールドは再び彼女へと瞳を転じた。その時、彼が出会ったのは、彼女の睫毛の長い、夢見るような眼差しであった。頭は軍鼓の如く鳴り響いた。耐え切れず、彼は闇夜の席を立ってしまった。
「帰ろうとしたら君らが来た」
「知ってる。貴方があの席にいて、こっちを見てたのも」
ローゼンフィールドはその日、自分でもどうしてか気付かぬまま、仕事に興味が湧かなかったばかりか、無意識の内に仕事から解放されようと努めてさえいた。これまで重要に思われ、彼を喜ばせていたものが、その日だけは下らぬ事に思われた。よく考え、判断する為に、解放される必要があるのだという気がしていた。結局、彼は仕事から解放される事はなかったが、ツイン・ピークスの町の中を移動する際、一人になる事が出来た。無駄に広い為に手入れが施されていない庭や、鬱然とした森林など、それらの場所は全て断片的な思い出によって、心を捉える思い出によって存在していた。息を吹き返すような空気の中、自分は何事かを思い巡らしているのだと心に言い聞かせはするものの、何一つ思い巡らしている訳ではなく、行く先々で狂おしく、サラの姿を見る事が出来るのではないかとローゼンフィールドは感じた。自分がこれ程に彼女を欲している事を、何かの奇跡で彼女が悟り、此処なり、何処か誰にも見られぬところなりへ突然現れてくれる事を、さもなければ、誰一人、彼女自身にさえ自分の姿が見えぬような、月のない夜更け、そのような夜更けに、あの夜のように、彼女が自分の元へ忍んで来てくれる事を自分は待ち望んでいるのだと、彼は感じていたのだった……。
ローゼンフィールドが何より辟易していたのは、自分が打ち負かされ、自分には意志がなく、自分を動かす他の力が存在すると感じた事だった。今日、救われたのは偶然に過ぎず、今日でなければ明日か明後日、自分はどの道破滅すると感じた事だった──そう、破滅するんだ。この町の連中の目の前で、サラの事を愛しているクーパーを、俺ではなく彼女に裏切らせるなんぞ、これが破滅ではないだろうか。その後、ノコノコと生きて行く訳に行かない程に恐ろしい破滅ではないか。当然この有り様ではいけない、何とか手を打たなければ……だが、どうすれば良い。本当に俺はこのまま破滅するんだろうか?ローゼンフィールドは自分自身に言った。何か手を打てないものか?そうだ、何とかしなければ。彼女の事を考えてはいけないんだ。この事は破滅以外、他に理解しようがなかった。彼は自分自身に考えるなと命じた。その癖、直ぐに彼は考え始め、目蓋の裏に彼女の面影を見るのだった──彼は答えた。そして、例えこの場で直ぐ、永遠の地獄へ落とされようとも、自分はその嘘を言っただろうと思った。
「君も帰るか?俺はこれからまた一仕事しなきゃならん」
恐ろしく奇怪な考え、一見して凡そ有り得ないような考えが、念頭に余りにもしっかりと根付いてしまっている為に、軈てそれを何かしら実現可能なものと看做してしまう事が時にある。そればかりか、その考えに、強烈で熱烈な願望と結び付いていたりすると、何故かそれをある運命的なもの、不可欠なもの、予め定められていたもの、最早生まれざるを得ない、起こらざるを得ない何かと捉えてしまうものだ。もしかすると、其処には更に何か、様々な予感のある種の配合や何かしら異常な意志の力、己の幻想への自家中毒、或いは他にも未だ何かがあるかも知れないが、それはローゼンフィールドには分からない。しかし、この夜、彼の身に奇跡的な事件が起こったのだ。それは、数学のように完全にすっぱりと説明出来る事だが、彼にはそれでも今もって奇跡的なのだった。それにしても何故、どうして、あのような感情がこれ程にも深くしっかりと、彼の中に根を下ろしたのか。その事について彼は確かに、諄いようだが、何かしら起こり得る、従って起こらないかも知れない、偶然の一つとしてではなく、決して起こる筈のない何かとして思い浮かべていたのだ。
バラデュールの所為だ、何もかもバラデュールの所為だ──もしも彼女がいなかったら、こんな"ポテトヘッド"のティーンみたく馬鹿な真似などしなかったろう。いや、万が一、これは全て自棄っぱちでやらかした事なのかも知れない。最もこのように考える事自体、実に馬鹿げているのだが。それにしても、ローゼンフィールドには彼女の何処が良いのか分からなかった。確かに彼女は美人であり、綺麗だ。何しろ彼女の所為で、他の男共も正気を失っているではないか。 背は高い方で、すらりとしている。但し、とても細身だ。 彼女ならそっくりそのまま袋に入れて、二つ折りにする事も出来そうだ。彼女の腰も細く、悩ましい。本当に悩ましい。眼は本物の猫の眼のようだが、その眼で傲然と相手を見下すところなど、見事の一言に尽きる。だが、自分を見詰める彼女の眼が余りにも……静穏で優しいのだ。彼女とは多くを語った事はなく、過ごした時間も少ないにも関わらずだ。
「いいえ。私、未だ楽しんでないし」
サラは気持ちの揺れを外に出さぬ、落ち着いた声で言った。ただ一人彼女だけが、席に座って月の神宛らの光を浴びつつ、あの二人を眺めていた。思い掛けない少女の出現と、クーパーに一瞬閃いた優しい眼差しと、少女相手の奇怪とも言える振る舞いが、魂の奥底までサラを刺し貫いたかのように、ローゼンフィールドには思われた。彼には、何としても彼女とクーパーの心が分からなかった。もし彼女が自分ならば、嫉妬が自分の胸を突き上げただろう。まるで冷たい手が自分の心臓を握り締めたように。また、底無しの深淵が、自分の足元で黒々と騒めいているかのように。サラはあの二人から、眼前に立っているローゼンフィールドへと視線を移した。彼の視線には、突然、何やら全く新しい、想像もつかない表情が閃いたが、それはあの意地悪な、これまでは卑しく歪んでばかりいた彼の顔を、すっかり違った趣きに変えてしまったようだった。彼女は立ち上がると、彼の手を取った。
「──嫌じゃない?」
死体とこの世の遺物に触れる大きな手。何故かサラが冷たいと思っていたその手は、全てを焼け尽くが如く、まるでローゼンフィールドの魂そのもののように、隠れた情熱を帯びていた。その手を引き、踊り場へ誘うと、彼の身体は最も簡単に付いて来た。彼女は振り返り、彼と視線を合わせた。頭上の淀んだ色の照明が、彼の虹彩を穢していた。彫りの深さは影となり、其処からは相変わらず不機嫌そうな、だが拒絶を含んではいない双眸が、真っ直ぐに此方を捉えていた。二人切りの際は、互いに親しい口の利き方をした。二人が偶然に落ち合う事、また、話し込む機会があれば、時には互いの胸の中に忘れる事の出来ない感銘を残した事も何度かあった程である。彼女は彼の肩に左手をそっと置いた。大抵の事は彼の方が博学であり、頭も切れるが、こういった事に関しては途端に無口になり、大人しくなるのだ。彼女は照明の影で、勝ち誇った表情を浮かべた。
「この曲が終わったら、直ぐに帰るから」
クーパーはちらとサラの方を眺め、矢張り心の中で微笑を漏らした。しかし、その憂愁と焦慮とは、相変わらず益々募って行くように見えた──彼女はその視線から逃れるように、ローゼンフィールドの心臓の辺りに額を当てた。煙草の微かな香りが、モルグでのあの夜を思い出させた。彼女は息を継ぎ、ほっと溜息を吐いた。 彼が来てくれた事で、彼女がこの上なく満足した事は確実であった。兄のように思う事の出来るこの人に、胸の内を打ち解けたいと願う気持ちは、この時ばかりは病的な程であった。その上、彼が時々異常なまでの愛を込め、彼女を見た事は、絶対に彼女自身の欲目ではなかった。彼は、重ねている彼女の手を指で撫でたりした。二人は、まるで全世界の事を忘れてしまったように、たった二人切りでいるように、何かしら空中の何処かにいるように思う事が出来たのだった。
「この曲知ってる?」
「何処へ行っても流れてる曲だろ。知ってるよ」
情の手綱を余り緩め過ぎてはならない。極めて堅い誓言も、血気の焔に煽られると、藁しべも同然である。はっきりと見極めたくはない不安が、ローゼンフィールドの胸中に湧いて来た。あの端正たる美男子の影が、先程から幾度となく捉えられた為である──心配するな、クーパーは君の事が好きだ。愛してさえいるだろう。彼奴は少しずれているところがあるだけだ。その事実を声に出し、仕方なくサラに呟こうとすると、血が騒ぎ、視野内の色彩が鮮明になり、節度の感覚が危なっかしく傾き出すのを感じた。彼は口を噤み、その事実から背き、彼女だけを見た。灰色の瞳もまた此方を見ていた。すると、彼は、まるで夢の中にでもいるように身を運びながら、何やら馬鹿々々しい程に緊張した幸福感を、骨の髄まで感じたのだった。今、彼女といるこの時間が、本当の現実のように思われた。彼女の外、バーの外の世界、普段身を置いている世界は全て夢想であり茶番なのだ──クーパー、心配するな。彼女に対する君の想いは、この俺の胸の中にちゃんと仕舞って置くとも……胸の奥深くに!此処は墓の中も同然だからな!だが、俺が小さい頃に心得ずに、やっと後になって知った事は、生きとし生けるものは全て、夢想と同様の材料で出来ており、また、夢想と同様に消え去るものだという事だ……。一瞬、サラの手に力が僅かに加えられたのを、ローゼンフィールドは感じた。彼女はその美しい顔を一向に上げる事をしない。クーパーの方を見る事をしない。ローゼンフィールドは、彼女を早く此処から連れ出さなければならないと思った。彼女がこの茶番を幸福だと言うならば、そうなのだろう。だが、自分の幸福が、彼女にとってそうでないものならば、これに意味はない。一切の意味はないのだ。彼は彼女の手を強く握り締め、自らの誘いによって外界へと連れ出した。心臓は激しく打っていた。何故かこの時ばかりは、後悔が彼の念頭を過ぎる事はなく、ただ存在したのは、彼女と他でもない自分自身の僥倖であった。

Billy Joel - Just the Way You Are