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A ROOM WITH A VIEW



髪と髪の間を縫うようにして何ものかが通った感覚に、オーベルシュタインの頭が覚めた。恐らく本来起床する時刻よりも早いだろう。自身の身体の傍にあった右手をシーツに添わせながら動かしたが、右側に横たわっている筈の厚みのある身体は既になかった。珍しい事もあるものだ、いつも彼は、日がその姿を全て見せ高く上った頃に目を覚ますというのに。オーベルシュタインは左手を伸ばし、ある小さな容器の中で寝転がっている二つの義眼を手に取った。その時、彼の露出した肌に早朝の清らかな微風が撫でた。それは先程、彼の髪の間を通ったものであり、それを屋敷の中へと通した扉の方に瞳を転じた。寝室と庭は二つの扉を隔てており、扉が開いておればベッドから一直線に庭を窺う事が出来る。ケスラーは其処、その一直線上にいた。二つの扉を開け、その間にあるベランダの椅子に腰掛けて、朝の景色を見ているようであった。未だ日が差していない時には、ケスラーの深い茶色の髪は闇色に変化をして見せる。米神から伸びている白髪は耳の背後まで畝りを立て、そのすっきりとした後頸部は彼の颯爽たる謹厳さを示している。その心は正に青銅、そしてその身体は大理石のものである。彼の生命が持つ鉄の弦は未だに錆びる事を知らず、永遠に若々しいものであるようにオーベルシュタインには思われた。ケスラーと出会ったのは士官学校であった。オーベルシュタインは其処で初めて何の身分も持たない平民という人種と関わる事となり、そしてケスラーも同様に貴族という立派な身分や誇りを持った人種と一つの屋根の下で学ぶ事となった。当然それは互いに容易いものではなかった。そもそも宿舎が平民出身のものと貴族のものとに分かれていた為に、その仲間意識、或いはその一方の意識が頑丈なものとなり、全ての場面に於いて二つに分裂した。また、人間がいるところには虐めというものがしばしば発生する。対象は平民と貴族の何方でも構わず、原因や問題が一つでもある人間に対してそれは躊躇なく行われた。オーベルシュタインが虐められた原因の一つにその彼の気性、そして問題の一つにその目の先天的障害が挙げられ、平民ではなく同類である貴族の内で標的とされた。彼には他人と親しくなろうという気持ちが欠けており、友人がおらず常に一人であった。陰険で威圧的な言動、しかしそれにも関わらず学業優秀。文具や教科書の破壊や掩蔽から、廊下を歩くその細い身体に対する体当たりなど散々な有様であった。ある日の事、通常通りに身体を衝突させられて地面に教科書を散らかしたオーベルシュタインを、偶然その場に居合わせたケスラーが見ていた。虐められている事に対して慣れてしまっているのか、忿懣の影すら窺えない無表情の生徒に彼は近寄り、黙ったままそれらを集めるのを手伝った。彼は何も言わず拾った物を自分に差し出し、また自分も何も言わずにそれを受け取った。廊下に斜めに差した日の光、そして琥珀宛らの虹彩。真っ直ぐに相手を貫くその視線は貴族には存在し得ない公明正大さを示しており、オーベルシュタインがこれまで見た事がない程に聡明で情熱的に輝いていた。烏合の衆の中に一点の曙光が見えた時、それは周りの凡ゆるものを消し去り、見ている者を魅了する。オーベルシュタインとケスラーは互いに無意識の内に相手を観察し合いながら、絶えず激情の淵の縁で危うく踏み止まっていながらも、表面は冷静を保っていた。その間ずっと二人は、丁度谷間を流れる二つの川の如く、抵抗し難い法則に従って、確実に一つに合する道を辿っていた。二人はこの人生に於いて、今程に幸福な事はない、恐らく二度とこれ程の幸福を味わう事はないであろうと信じていた。それでいて、二人は未だ好意とも恋愛ともどっち付かずの不明瞭なところに立っていた。特に深みへ嵌る事もなく、また、この新しい流れは自分を何処へ連れて行こうとするのだろう、これは自分の未来に対してどのような意味を持つのだろう、自分の過去に対してどのような関係にあるのだろう、と密かに自問する日々を暫く送った。軈てケスラーが息を吐くように『君が好きだ』とオーベルシュタインに言った。笑顔を浮かべ、自分に何も求めずただ愛のみを捧げた、こざっぱりとした青年。幸福の只中にいる時間はこの士官学校のみである、彼と自分は別れなければならないと信じて疑う事をしなかった──しかし奇妙な事に、彼と共にいる。彼と視線を合わせ、言葉を交わし、同一の主君に仕えている。オーベルシュタインはケスラーの、あの琥珀色の瞳を想起した。木々の繁茂が、戸外での唯一の目標かと思われる青葉の季候は過ぎた。私は此処からの光景、彼のこの後ろ姿を忘れる事をしないであろう。間もなく彼は私が起きた事を知り、此方を振り返る。加齢により目尻に刻まれた皺を深くし、『おはよう』と私に微笑するであろう。