×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -

When the lamp is shattered



「サラ……じゃなかった、バラデュール捜査官、おはよう」
「おはよう、クーパー」
「此処、ザ・グレート・ノーザンホテルのブラックコーヒーは最高なんだ。見たところ、君は未だ飲んでいないね──すまない、コーヒーを二つ頼むよ」
目覚めたてのクーパーは、非情な事件は一先ず置いておき、未だ薄められていない朝の大気を胸一杯吸い込む事にしている。朝の大気!もし人々が一日の水源でこれを飲む事をしないようならば、この世の朝の時間への予約入場券を失くしてしまった人々の為に、我々は是非瓶詰めにし、店で売ってやらなくてはならない。但し、朝の大気はどれ程に低温の地下室に入れて置いたとしても、昼時までは保たず、そのずっと前に栓を押し開け、暁の女神アウロラの後を追い、西の方へ行ってしまうものだという事を忘れないで欲しい。あの年老いた薬草の神アスクレピオスの娘で、片手に蛇を、他方の手に時折その蛇に飲ませる薬液の入った盃を握った姿で記念碑等に刻まれている、健康の女神ヒュギエイアを、私は決して崇拝したりはしない。私が崇めるのは、ユピテルの盃を捧げ持ち、神々と人間に青春の活力を蘇らせる力を持つ、青春の女神ヘベである。彼女こそ、嘗てこの地球上を歩んだ娘達の中で、恐らく完全無欠な肉体と健康と逞しさを備えた、唯一人の娘であったろう。彼女が現れると、いつでも春がやって来たのだ。春がどれ程に遠く、不可能に感じられようとも、彼女が現れると、いつでも春がやって来たのだ──一瞥の強い魅力の前には、何ものも適う事はない。クーパーは愛想良く身体を揺すったり、肩を竦めたり、綺麗な白い歯を見せたりしながら、気持ちの良い声でウェイターに声を掛けた。この美しい自然の中で二人。美味しい朝食と、眼前にはサラが座っている。全ては彼には夢のようであった。こうした夢の奇跡を彼は信じる事が出来たろうか。彼に出来たろうか。これ以上の幸福があろうか?喜びは彼を殺してしまう程であった。
「此処が肌に合ってるようね」
「退職金で此処の土地を買おうと思っている。私は植物に全く以て疎いが、此処の空気は何とも美味しい。まるでこのコーヒーのように」
湯気が出ているそれに、クーパーは息を吹き掛ける事なしに飲み、「うん、すげえ美味い」と安逸に言った。サラに向けたその眼差しには親友のような、恋人のような、或いはその両方のような、隔てを置かぬ情愛が込められていた。それは、アルプスの高地で曙の光が差す前に、雪山の頂の形をくっきりと闇の中から引き出して震えさせる、あの緋色掛かった薄明かりのように、俄かに差した光明のようなものだった。神秘な彩りとも言えよう。クーパーはまた、御使が降って眠れる水を今し方目覚めさせたばかりの、ベテスダの池を思った。サラの顔に、突然現れた天使のような表情を見て、彼は一種の恍惚を覚えた。ただし、その瞬間に彼女を訪れたものは、知性よりも寧ろ愛だったように思われた為である。そこである情が込み上げて来て、不意に彼は彼女の美しい額にキスを与えたかった。彼には、それが神に捧げるもののような気がした。
「ところで君、恋人とは別れたのかい?」
クーパーのその洞察は、半ば自信のないものだったが、サラの些か硬直した表情によって、まるで酒の酔いのように、少しずつ彼の身体を回り始めた──此処にして、漸くつれない彼女の姿が形を整え愛らしく現れたようだった。此処にして、漸く優しい花の唇を漏れる息吹きは訴える如く、阿るが如く、神々の誡を思わしめた。そして、彼女の神々しい声の中に、彼の胸は如何に慄いた事か。凡ゆる尊貴も自卑も、生の苦しみも喜びも、押し並べて如何に美化され、品位の高いこの調べの中に現れた事か。燕が飛びながら蜂蜜を捉えるように、彼女はいつも彼達の心を掴むのであった。歓喜が来たのではなく、また嘆美が来たのでもなく、二人の間に遂に天国の平和が来たのだ、と彼には思われた。幾度か繰り返し、クーパーは自分に向かい、またサラに向かって心中で告げた。最も美しいものは、また最も聖なるものである。しかも、これは全て彼女の身に具現しており、彼女の声と等しく彼女の生命は美しいように思われた。彼の声には優しい、親しみの込められた、愛ずるような微笑が輝いていた……彼女が気付いた限りでは、彼のその言葉には、彼の明るい顔に、何か心を唆るような、優しい慈しみがあった。彼は驚く程に興奮していた。
「彼は君を愛さなかったんだ、だから君が分からなかったんだ」
クーパーがそう言った時、その心中には一種特別なものが生まれた。まるで、何か新しい特別な想念が脳裡に燃え上がり、堪え切れずに両目に閃いたかのようであった。サラの顔が僅かに歪んだ。彼女という存在は、彼の想像に大きな打撃を与えた。彼女は彼の心を捉えてからというもの、彼は絶えず彼女の事を考えていた。彼女がいなくても、彼は退屈したり、待ち焦がれたりする事はなかったが、彼女が現れると、途端に生き生きとした。彼は好んで彼女と二人切りになり、好んで話をした。彼は彼女を通し、自分を知ろうとしているようであった──早くから君は遠く離れていたが、私の心に近付き、君の持つ光で私を酵化し暖めてくれた事が幾度であろう。その為に、堅く凍った泉に陽の光が触れる如く、凍て付いたこの胸も再び活動するようになった。その時、この幸福を抱いてこの世界へ翔り行こうと思ったのも、私の喜びが周囲に汚されまい為であったのだ。だが、それと殆ど同時に、サラの顔は俄かに真面目な、気掛かりげな表情になった。つと悲しみの影が差したようにも見え、それがクーパーを驚かせた。彼は今まで彼女のそのような顔を見た事はなかったし、想像した事もなかったのである。『貴方に何が分かるの』と言わんばかりの表情を浮かべ、彼女はその場を辞してしまった。
「彼女、なんか怒ってないか?」
「あ……うん」
クーパーは、サラが別の男と過ごしているという苦しみの期間中でさえ、ただ一人彼女に夢中になっていた。それは臆病で素朴な、恋に悩む女性ではなく、素っ気ない女性、 近付き難く艶やかで、気高い女神であった。折角与えられたものには興味を引かれず、絶えず蛇の囁きによって神秘の木に招き寄せられる──禁断の木の実を与えよ、然らずんば天国も天国ならじと。サラと入れ違いに姿を見せたトルーマンが囁いた。クーパーは、一口も飲まれずに放置されたカップを、じっと見詰めていた。次第に胸の痛みが募って来て、過去の彼女の行為に苦しんだり、苛々していなければ、あのような言葉は出なかっただろう。彼は火傷でもしたように、ぶるっと小さく手を振るわせた。日々の出来事の可笑しさが、恋の真の惨めさを忘れさせてくれる。彼は心中でそう繰り返した。出て行ってしまった彼女の後ろ姿は、未だ其処に存在しているように思われた。空想上で、再び、彼は彼女と顔を見合わせたが、矢張り互いに何も口に出して言う事をしなかった。君が私を苦しめたんだ、他所の男に意識を向けたりしたから。彼にとっても、将又彼女にとっても、他人の心中は決して分からない事なのである。

Lana Del Rey - Money Power Glory