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Vacillation



サラは、自分が思考に耽っている間に、もうすっかり夜になっていた事に気が付き驚いた。辺りは黒い帳が垂れ、しんと静まり返っていた。そして、殺された少女の気味悪い程に蒼白い小さな顔が、サラの前をすうっと流れた。彼女はザ・グレート・ノーザンホテルへ戻ろうと思った。日中の長い間、疲労を覚えるまで歩き回っていたが、ホテルの清潔なベッドに横たわっても、心は容易に落ち着きそうもなかった。彼女は腰を上げ、保安官事務所を出た。車を運転しながら、物思わしげに眼を道路に落としたり、撒き散らされたような星屑が瞬いている夜空を見上げたりした。だが、胸の不安、何かを求めるような、漠とした悲しい不安は、矢張り静まる事はなかった。カルフーン記念病院の暗い廊下を進んで行くと、ある一室から一条の光が差していた。また、それを眼で捉えた途端、ある匂いも廊下に溢れているのが分かった。それはローゼンフィールドの煙草であり、一歩一歩近付くに連れ、匂いは徐々に強まって行った。『君、若い君には実に良い教訓だ。有益な例だな。忌々しい。何て下らん事だ。人間は誰でも一本の糸にぶら下がっている。深淵がいつ足元に口を開けるかも知れない、それにも関わらず、人間は色んな碌でもない事を考え出し、自分の生活を駄目にしている』── サラの脳裡に、ふと彼の言葉が浮かんだ。彼は周囲の人々に対し、決して甘やかしたりせず、終始突っ慳貪な態度を取っているが、それでいてどういう訳か、同僚の信頼を得る才能を持っている。彼女はドアをノックした。
「ローゼンフラワー捜査官、お疲れ様」
ローゼンフィールドは、サラの故意に間違えた呼び名に耳を傾けたが、彼女の方へはちらとも目を向けなかった。『あっ、そう!さっき、ダイナーで素敵な女性を見掛けましたよ。すらっとした眩しいような、あれは誰ですか?』──聞き込みの最中、一人の住人に事件に全く関係のない事をほざかれたのを、彼女の思い掛けない来訪で、彼は思い出した。質問のみに答えるという、至極簡単な事が何故出来ない?という苛立ちが懐の中で沸騰し、『生憎、彼女は貴方を存じ上げるという光栄に恵まれておりませんので。今後も、貴方とお話をする事は何もなかろうと思いますよ』と、厳しく応じた事をも思い出した。あの返しは中々秀逸だった、と彼は独り言った。
「上申書も用意しているの?」
「奴はどうせサインせんだろうからな」
モルグでの一悶着は、サラにとっては腹を抱えて笑う事象でしかなかったらしい。特別捜査官風の無表情の仮面を日頃より被っている彼女だが、そういった場面に遭遇すると、特別捜査官から唯の一人の人間に様変わりしてしまう。何の感情も漂わせる事のない灰色の瞳が、喧嘩が始まった途端、さっと明るく輝いたのを、ローゼンフィールドが見逃す事はなかった。遥々事務所から持って来たのであろう、ステンレスボトルに入っていた、未だ息のあるコーヒーを、カップに注いだ。「どうも」と、彼は漸く彼女にちらと目をくれて、口の中で小さく呟いた。不思議な事に、美は善であるという完全な幻想が、往々にして存在するものである。美しい女性が愚劣な事を言った場合、それを聞いても愚かさは見ずに、聡明さを見る。その女性が醜悪な事を言ったり、また、したりしても、何か愛すべき事のように思うのである。女性が愚かな事も醜悪な事も口にせず、しかも美人だったりしようものなら、直様、奇跡のように聡明で貞淑な女性だと信じ込んでしまい、この女性こそ道義的完成の極致だ、従って自分に相応しい女性だと決めて掛かる。ローゼンフィールドは、冷たい感覚が全身を押し包むのを感じた。それは、自分の将来に関わる事が何かしら齎される時、自分を包んでくれる防護膜だった。しかし、更に不思議な事に、自分の臆病さを自認したこの感情の中には、何かしら病的な、それと同時に喜ばしい、心を沈めるようなものがあった。
「君も災難だな、こんなど田舎に派遣されるとは」
「ええ、早く帰りたいわ。私、自然は好きだけど、此処は何だか不気味なんだもの」
「俺は此処の連中も気に食わん。『若気に任せ、し放題、食うや食わずの挙句には、身動きならぬ成れの果て』と言いたくなる」
「氷も持って来たの。頬に当ててあげましょうか?」
「君も徹夜するつもりか?」
「いいえ、十分だけ」
午後九時頃に解散し、皆それぞれの部屋に引き上げた。ローゼンフィールドはトルーマンから殴られたその瞬時に定めた通り、再びモルグへ行き、立て続けに煙草を吸いながら、検視結果の見直しと一部始終を記した報告書を纏め上げていた。その最中に、サラは目的もなく来たのだ。すっかり解放されたとばかり思っていた気持ちが、思いも掛けず現われた事が、彼を酷く驚かせ、些か嘆かせた。一度として、以前よく知っていた女性に対しても、例えどのような女性に対しても、このような気持ちを抱いた事はなかった。心中で幾度となく、自分のこうした解放を喜んで来たのにも関わらず、それが突然、このような些細とさえ思えるような偶然が、未だ我が身の解放されていない事を彼に示したのだった。今のローゼンフィールドを苦しめていたのは、自分が再びこの気持ちに屈した事でもなければ、彼女を考えている事でもなく、そのような事は考えたくもなかったが、そのような気持ちが自分の心中にしぶとく生き続け、用心深くそれに立ち向かわねばならない事だった。そのような気持ちを抑え付ける事に関しては、心中に一点の疑念もなかった。その感情が彼を苦しめもし、苛立たせたのである。もし、誰かが遠回しにでも、彼の内部に生まれたものの可能性を仄めかせば、彼は直ぐに侮蔑的な哄笑とシニックな痛罵を加え、その感情を拒否してしまうに違いない。氷の袋を持ったサラが左側に身を寄せ、その勢いで彼の身体に触れた。彼は彼女を見た。彼女と触れ合った時、ある種の感情が彼の身体を貫き、一瞬、彼女の息遣いを頬に感じた。
「殴られたのは其処じゃなくて顎なんだが」
「はいはい」
この状況の一体何が面白いのか、クスクスと軽快に笑っているサラは、ハンカチに包んだ氷の袋を移動させた。だが、暇を持て余していたもう片方の手はローゼンフィールドの口元へ、砂糖がたっぷりと付着したドーナツを持って行った──此奴、こんな物も持って来やがったのか。再び彼女をちらっと見た瞬間、その眼の中には何かがきらりと閃いた。最も、その火は、遂に疲労に耐え切れなくなった重たい目蓋によって直ぐに消えてしまったが、彼はその一瞬に幸福というものを感じた。彼は首を小さく振り、拒絶を示した。何れにしても、彼の心を惹き付けたのは、この彼女がそれは真剣な、一層厳しい程の態度で、それはそれは丁寧に──いや、丁寧どころか敬意さえ込め、仕事に向き合っている為であった。また、彼女には何か物欲しげなところは微塵も見えず、稀に見る心の綺麗な人間という事は直ぐに分かった。彼は、特に優しく注意深く、彼女に応対しようと努めた。
「……ホテルに戻れよ。君は睡眠を取らないと、全く使い物にならない」
「だってあのホテルも不気味なんだもの」
サラは勿体振り、一語々々切り離しながら言った。彼女の声は何方かというと低音で、いつも長い睫毛を少しばかり伏せ加減にし、蒼白い顔に仄かな微笑をちらと浮かべ、落ち着いて物静かに話した──昼間、事務所では食べていたのに、この人はなんで食べないんだろう。報告書を書き上げているから、手を汚したくないんだろうと思って、こっちが持ってあげたのに。ああ、そうか、私を此処から早く追い払う為だな。彼女は、彼に拒絶されたドーナツを一口食べると、皿の上に置いた。殴られたところを十分間冷やし続けると言ったが、彼女の身体はもう殆ど睡魔の猿臂に委ねられていた。人間の脳梁を毒する、結晶化した甘味料が含まれた彼女の豊かな唇は、咲き香る花のようであった。
治療する為、女の身体に手を当てねばならなくなった隠者が、女への誘惑から身を守る為、もう一方の手を釜戸に乗せ指を焼いたという、前に本で読んだ話をローゼンフィールドは思い出した。彼はそれを思い起こした。そうだ、俺だって破滅するよりは、指を焼く覚悟をする方がマシだ。そして彼は、自分でも何故そんな事をしたのか分からなかったが、部屋に他に誰もいない事を見渡し、自分の指の上でステンレスボトルを傾けた。さあ、今こそ彼女の事を考えるが良い。彼は皮肉たっぷりに自分自身に呼び掛けた。だが、苦痛になった。彼は熱で痛ぶろうとした指を引っ込め、自分で自分を嘲笑った。何と馬鹿な。必要なのはこんな事ではない。彼女を考えずに済むよう、手を打つ事が必要なのだ。俺自身がこの町を出るなり、彼女を遠避けるなりする事だ、そうだ、遠避ける事だ。彼女をあのクーパーにくれて、二人でさっさと去って貰う事だ。役立たずの保安官連中がそれを嗅ぎ付け、噂する事だろう。だが、良いさ、この危険よりずっとマシだ。ローゼンフィールドは心中で言い、尚も目を離さずに、テーブルに突っ伏して眠っているサラを見詰めていた。彼女はクーパーとなら生きて行くだろうか。出し抜けに、彼は自分自身にどうしようもない事を尋ねた。彼女はクーパーに気付き、だが今度はちらと此方を眺めてから、クーパーと手を取り合い、颯爽と、此方に片手を振りながら……。自分でも理由や動機の分からぬまま、全て自分の考えの為に、彼はさっさと此処から出て行きたかった。構うものか、こうなれば何が起ころうと構いはしない。この一瞬の為なら、全世界でもくれてやるさ──一方で、このような思いがちらと念頭を掠めた。闇色のコーヒー一杯を一気に飲み干すと、それはアルコール宛ら、途端にすっかり酔いが回ったようになった。夢想の中のサラは、ローゼンフィールドにうっとりとした微笑を浮かべていた。頬が燃え、唇が熱くなり、輝いていた眼がとろんとなって、情熱的な眼差しが、無上に彼の心を惹き付けた。彼女を見守るクーパーの聡明な顔は、白煙の中で翳ろい、何かに心を刺されたように、彼女の傍へ寄って来た……だが、ローゼンフィールドは、その白煙に息を吹き掛けた。

Gallant ft. Jhené Aiko - Skipping Stones