×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -

I’m leaving you in June



新聞と花束を脇に抱え、長い廊下を進む一人の男がいた。ウィゼンガモット法廷での最初の期日を済ませ、此処、聖マンゴ魔法疾患傷害病院へ立ち寄ったのである。眼前に続く廊下は、判決までの長い道のりのように彼には思われたが、この先には彼の希望が存在する。何の躊躇いも、何の後悔もなく、ただ一つその胸に抱いたのはサラであったと、今更告げるまでもない。廊下に面している広い中庭には、この上なく快い爽やかな静けさが立ち込めていた。聞こえるものとしては、ただ木の葉がさらさらと触れ合う響きだけで、その為に却って辺りが一層静まり返り、物寂しくなっていくようであった。心は今も尚彼女に纏わり、彼女がこの自分を迎える事はあるだろうかと、一人思いに沈んだ。彼女と離れていて、何処に幸福があるのか──魂にかけて、君の姿が見える。サラ、君の存在が、巡りの遅いこの数年もの間、この私の目を開かせてくれたという訳なのだ。サラ、私はこの世に君以外に何もない。君という存在があればこそ、私は生きもし、苦しみもし、また幸福にもなれる。私が世間から虚しい仕打ちを受ける事になったとしても、血はこれ程に辛くはない。君の為なら、心から血を流しもしよう──急にスネイプは、先程ごく短時間の内に過ごした神秘的な、恐ろしい、この世ならぬ現実世界から、忽ち元の住み慣れた世界へ、しかし、今や新しい耐え難い程の幸福の光に輝いている世界へ、舞い戻って来たような気がした。張り詰めていた弦はすっかり断ち切られた。まるで思いも掛けなかった喜びと静穏とが、恐ろしい力で彼の身内に湧き起こり、その心臓を震わせた為、彼は口を利く事も出来なかった。病室より去り行く癒者の陰から、一人の非常に懐かしい友がその姿を覗かせた。嵐は過ぎ去った。あの夜、無限の天を覆い、我々が持ち得た全てを呑み込んだ闇は消え去った。戦慄と慟哭は、皓々とした光に払い退けられた。その一瞥で、凡ゆる事実をひたと自身の胸に秘めて来た二人の間には、一瞬の情誼が通った。些かの窶れが現れている顔は、唇を固く結んでいたが、それが微笑とも見えた。彼を生き永らえさせ、呼吸をさせている程のもの。偉大なる目的に取って代わるが如く、一切の闇を払うが如く、その心の内に燦然と存在しているもの。『心静かに終焉を迎えたまえ、我が友の墓に名声あれ』と最後に贈った文言が脳裡に思い起こされた。
「何故私は此処に?」
あの夜は、不思議な程に厳かで静かだった。スネイプは負傷したサラを抱え、二人共今にも生命を失くすかも知れないのにも関わらず、死の猿臂から無事に逃れ、廃人で溢れ返った病院の、石棺の上に彼女を横たえたあの一部始終を、当然の事乍ら、彼女自身は全く知る由もない。もしこの彼女が死んだら、他はどうにでもなれだ。人の魂を散々裂いて来た私のような人間に歩む未来はなく、何かを生み出す力もなければ、何かを死守する力もない。もし彼女が死んだら、今度は私の死だ。それはもう直ぐ其処にある。この石棺の上に、或いはホグワーツ城の荒野か、将又スピナーズ・エンドか。しかし、死に行く彼女に付いて行く事が出来ないのは、事実を知る者がもうこの世に私一人だけになってしまったという事である。事実を知らせなければならない、人の手によって裂かれた己の魂を見せなければならない──見事、サラはこのように命を取り留め、足枷のない意識を彼女自身の手に再び委ねる事が出来た。すると、生きている事への賛美というものが、その意識と結ぶ事があるのではないかという考えが、少しばかりスネイプの胸を噛んだ。だが、寝台に横たわっている小さな身体、此方を捉えている灰色の双眸、氷のように透き通った色には、翳りがあった。それは死に取り憑かれている翳りであり、彼女は激怒していたのだ。彼はこれ程に怒った彼女を見た事がなかった。爪の伸びた細い手がわなわなと震え、生気のない眼がかっと燃えていた。今も尚、彼女の心にあるのはあの男の事ばかりで、他の人間の事は微塵も思ってはいない。あの夜も、自分を助けるつもりは毛頭なく、死ぬ為であったという奸計を、彼は彼女によって眼前に突き付けられたのだった。神が黙している天上の世界に眼を向けるな。全ては終わりを告げたのだ。サラ、君は其処に眼を向けなくて良い。「君には生きて欲しかった」と、スネイプは歯の間から押し出すように言った。
途端、サラは血の気の失せた唇を振るわせた。痙攣のようなものがその顔を走ったと思うと、寝台の傍に置いてあった薬瓶が瞬時に弾け飛んだ。スネイプは、彼女が此処で治療をし、精神の回復をし、再び元の生活を送る気になるよう説得する事に努めた。この機会は、君を全きの自由の身にするという開かれた扉であり、摂理による招きであると考える訳にはいかないのか。人生万般の事を司り統べている摂理が、今、君の未来を幸いならしめると共に、君をこの世の有用な人間たらしめようとしているのではないだろうか。彼はその様に説いてみた。しかし、サラの心臓からは何かが引き千切れ、心が震え慄いており、大声で泣き出したいのだと彼には分かった。それと共に、彼女は自分の願いがもう叶えられる事はない、もう破られたという事も分かっていた。すっかり絶望した彼女に、例え死んだとしても願いが叶う事はない、そんな事は不可能だと説得し始めた途端、彼女は眼を閉じ、彼の言葉など聞こえもしなければ姿も見えないというように、最早一言も口を利く事をしなかった。
『私は死を待ってた……』
サラは人生の茨の道であの男と初めて出会い、彼女を甘美な死の方へと誘った。昼が夜を、春が冬を、束の間の希望が光と生命、そして平安に導くように。あの男は彼女の光にはなり得なかった。彼女のそのような悲しい姿を見てからというもの、スネイプの念頭には、これがこの人の見納めかも知れないという事しかなかった。何かを言ったり、したりする事に答える事が出来ず、殆ど生気のない屍のようになってしまっていた。私は君を愛していると、私の為に生きて欲しいと、そう努めて言おうとすると、それが何だかぎごちない言い方になってしまい、聞く者にはその反対を言っているように捉えられた。もうこれ切り、分かり合う事が出来ないという考えが頭に焼け付いており、どうにもならなかった。深い憂鬱が重い霧のように彼の心を包んだ。深い恐ろしい憂鬱だった。

《お前も一緒だ。これからはお前を見捨てはしない。だから、俺と一緒に来い》
感情の込められた、優しいクラウチの言葉が、直ぐ耳元で聞こえた。途端、サラの心は燃え上がり、何かの光を目指して突き進む事を切に望んでいるようであった。彼と生きていたい、彼と生きていたい、呼び招くその新しい光に向かって、何らかの道を何処までも歩き続けて行きたい、それもなるべく早く、一刻も早く、今直ぐに、たった今からでも──彼女の胸は鍛冶屋の鞴のように膨れ、心臓は鐘のように打ち、足は自分のものでないように蹌踉としながらも、病室に現れた屋敷しもべ妖精の手を取った。惨めな現実世界が丸いものと成り果てた際に、彼女が見た寝台の脇に置かれた水差し。それには花、たった今咲いたばかりのような、生命力に潤っている花々があった。長年の友人の、血の通った数少ない言葉に、私は答える事をしなかった。私は彼の想いに応える事をしなかった。彼のような、高潔な人の魂に、私は背く事をした。私はただ、この世の凡ゆるものから逃げ出したいだけなのだ──今のサラには、自分の現在の不幸以外の事は、何一つ考える事が出来なかった。凡ゆるものがその悲しみを大きくするのみであった。自分の屋敷へ帰って来てはみたが、調度の一つ一つが、装飾品の一つ一つが声を発して、彼女にその不幸を何か事新しく感じさせる事実を鋭く告げるような気がするのだった。クラウチのたった二つの遺品を見る事さえ、彼女には耐える事が出来なくなっていた。
潮風はしっとりと重く、サラの火照った顔へ香りを吹き付けるのだった。どうやら雷雨が来そうな模様で、黒い雨雲が湧き出して空を這い、仕切りにその不明瞭な輪郭を変えていた。微風が背後の暗い木立の中でざわざわと身震いをし、正面にある地平の遥か彼方では、まるで独り言のように、雷が鈍い声でぶつぶつと言っていた。私は何故躊躇い、何故引き返し、何故怯むのか。私の希望は既に去った。この世の凡ゆるものからそれは過ぎ去った。今こそ私の去る時なのだ──光は巡る歳月、あの記憶から、私と彼の二人から消えた。そして、定めは私を潰す為に引き寄せ、私を枯らす為に反発する。爽やかな大空は遠くで轟き、微風は近くで囁く。呼んでいるのは彼だ!死が繋ぐものを、更に生が裂かないように。柳の園に来て、愛する人と私は出会った。小さな足で園を歩みながら、彼はこう言った。愛は素直に受ければ良い、木の葉が芽吹いて来るように。だが、私は若くて愚かで聞き入れようとしなかった。川の近くの野原の中に、愛する人と私は立った。私が傍に寄り添うと、真っ白な手を肩に置いてこう言った。人生は素直に生きれば良い、堤に草が萌え出るように。だが、あの頃の私は若くて愚かで、今はただ涙に暮れている。サラは彼の杖に、血の通う唇を押し付けた。
「さらば、とこしえにさらば……」
一切を燃やし尽くすその赫赫とした火を、幻影のクラウチも座って見ていた。彼は黙ったまま、瞑想に沈むかのように、ただ二つの遺品を見ていた。大海に注ぎながら雄大に広がり、伸び切って行く河口を、嘗ての私は貴方に見ていた。私のような人間にとっては、何と輝かしい想いだったろう。貴方がどのような人間であろうと、どのような人間になってしまおうと、愛しくも私一人のものと思っていた。いや、正しく私一人のものであったのだ。そして、私の中に存在する一切も、貴方のものであった。さらば、とこしえにさらば──彼が顔を上げ、サラを見やった。揺れる炎の明るい光を含んだ瞳は、あの写真のように微笑んでおり、名状すべからざるあるものが煌めき通っていた──此処、この美しい英国が貴方の墓所となる。貴方の魂は、決して冷たい大地の下に眠る事はない。再び私の元へ降り立つ、その時まで。今は、この風と海のように絶望さえも優しかった。彼女は疲れた子供のように伏した。これまで耐えて来たが、尚、これからも耐えねばならないのだ。この時ばかりは、憂きこの世を泣いて忘れようとした。軈て死は眠りのように忍び寄り、暖かい大気の中で頬が冷え、海は死に行く頭の上で、その単調な最後の調べを囁く。

Stereophonics - Rewind