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Cold blood



トレーダーズ・ホテルのテラスは空っぽで、椅子が三つ備え付けてあった。一方の側は、見渡す限りテラスまたテラスばかりで、最後にその背後に暗い岩だらけの塊が横たわっているのは、第一の丘である事が分かった。もう一方の側は、幾つかの町並と見えぬ港とを越えて、視線は遠く、空と海とが定かならぬ脈動の中に溶け合っている水平線の上に没していた。彼処が断崖だと分かっているその向こうの辺りに、光源の見えない一つの光が規則的に明滅していた。瀬戸の燈台が、他の港へ航路を転じる船舶の為に、相変わらず回転し続けているのである。風に吹き払われ、磨かれた空には、清らかな星が輝き、そして燈台の遥かな閃きが、時折、束の間の灰色をそれに混えていた。微風が香味料と石の香りを運んで来た。それこそ完全な静けさであった──突然、直々に青天の霹靂の如く姿を現した男は、テラスに入って来るなり、先客である自分を一瞥したのを、サラは相手の心臓の鼓動で感じ取った。今、彼女が眼を通している新聞には、現段階で発表されている事件の詳細と、事件を担当している警部補の顔写真と経歴が掲載されていた。世界に一人は自分と同じ顔があるというが、真逆此処にいようとは──彼女は、自分でも分からぬ怯えのようなものを感じた。その記憶が未だ痛みを呼ぶのは明らかだった。
マグルの捜査方法は実に厄介なものである。開心術というものを持たない為に、他人の心が分からない。犯罪心理学という学問さえあるという。しかし、魔法族は開心術を持つが、当然その反対呪文も持つ為、マグルと同様に他人の心が分からない。マグルは人間の心の仕組みを理解しようとし、一方で魔法族は人間の心を開かせる仕組みを理解しようとする。マグルになんぞ何の興味も持たないサラだが、自分がもし不穏な動きを見せさえすれば、この警部補に立派な容疑の一つでも掛けられるのだろうか?このような事件の後に、海と空以外に何もない町に、明らか此処とは無縁の人間が宿泊している事が最早怪しいのではないか──彼女は灰色の瞳を警部補へと転じた。彼は此方に背中を向けてはいるが、恐らくビールサーバー越しに投映された自分の姿を見ている事だろう。闇払いという職業から、彼の心を覗いてみようとした。しかし、彼は"あの彼"とは全く異なる人間であり、子供殺しの犯人を捜しているだけの唯のマグルであると、辛うじて思い止まった。彼女は両手が冷たくなるのを感じながら、自制心が失われて行くような気がし、スコッチを飲み始めた。バーテミウス・クラウチ・ジュニアの遠い茶色の影が、彼女を促すように見えた。
サラは、湿った薪が燃え付いた時に、初めて焚火が強く燃え出した事をふと思いだした。つまり、クラウチの心が燃え出して、初めて自分の心に火を移したのであった。色々な理由を付け、無理矢理頭の端に追いやっていた存在だが、いざ考え始めると、それは浸水するが如く、念頭全体に広がって行った。それと同時に生まれた小さな心臓の疼きに、彼女は自分が未だ心というものを持ち合わせた一人の人間であるという事が分かった。その理解が正に彼女の苦しみであり、彼との過去を葬る事の出来ない弱さが苦しみであり、何処へ逃げたとしても彼の面影を追い求めている未練が苦しみであった。この事を彼は知る由もなく、彼は自分を捨て、愛も過去も何もかも捨て、悪の道へと入ったのだ。今頃、どうしている事やら──。
「面白い記事でも?」
サラは男の声を聞いた。聞き覚えのある、気持ちの良い、静かで落ち着いた声。決して昂らぬ声。警部補は此方を従容と振り返った。"シットフェイス"との渾名が彼女の脳裡に浮かんだのと同時に、どう見方を変えようと付き纏って来る"あの彼"の粛然とした面影が、彼女の孤独な心に強烈に迫った。マグルとして生きていたのなら、このような男になっただろうか。気位は些か"あの彼"の方が高いかも知れないが、この声は"あの彼"と殆ど同様ものであり、そして正にこの風采──痩せた壮健な学校教師のような身体付き。教養はあるが、救われない定めの為に、他人に笑み一つ浮かべる事をしないところも"あの彼"と同様のものであった。サラは、礼儀正しい淑やかな物腰で軽く会釈し、並々ならぬ謙虚さと丁寧さを装いつつ、そういう唐突な質問と一人のマグルに対する尋常ならざる驚きを、顔の表情や身体の動き全体で焦って表そうとした。だが上手くはいかなかった。
「この事件の担当の方なんですね」
「此処には観光で?」
警部補がビールを一口飲んだ。彼は周囲の人々に対して、決して甘やかしたりせず、突っ慳貪な態度を取ってはいるが、彼等の信頼を得る才能を持っているようにサラには思えた。思い遣りのある男、いや、善人でさえあるのだ。この表情の変わらぬ堅い心は、彼の温情的性格に屡々冷淡な仕打ちをする世の中で、心ならずも職業的制服の如く身に着けているものなのだ。彼女の心臓は、自分の耳にも聞こえそうな程に激しく鼓動していた。いや、その呼吸は止まったかと思うと、再び急に重い吐息となって迸り出た。
「いえ、人を探しに」
嘘を吐く事は容易い。しかし、サラは自分でも分からずに事実のままを言った。警部補は辞する際、返事の代わりに、緩やかに彼女の方へ顔を向けた。彼女は、その目に深い苦悩の色がある事に些か驚いた。無知なマグルの目とは、俄には思う事が出来なかった。この男は、"彼"のような人間を見ると、『ああいう才能のない、短気で欲深い蛆虫共にとっては、犯罪が何より有り触れた避難所だ』とでも言うのだろう。けれど、私はそんな"彼"を、この手で救いたかった──青春は虚しく夢見て過ぎるものである。茫々と悲しく過ぎる青春の日々。微笑の後に残るものは何もない。時間の空と言うもの程、この世の中に悲しいものが他にあるだろうか。ただ、恋の美しさは時間の虚しさを自覚させる、切なく激しい悔恨の中にある。一度疲れたる目蓋を上げ、この不思議なる、眞書の幻の幾つとなく浮かぶ、魂麗の海に解纜し給わん事を……。サラはまたサラで、"彼"の為に無限の苦しみを耐え忍ばねばならなかったのだった。

One Direction - You & I