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From this time forth I never will speak word



一本の鋭利な鉄の表面に、ある方向へ流れたように付着した黒色の血痕。日の光に当て注視すれば、それには斑があり、所々に本来の冷たい銀色の肌が覗いている。当然の事ながら歯切れは悪く、生体の組織を切る際には力の加減をしなければならない。きめ細やかな動作を一切し得ないそれを、何故いつも持ち歩いているのか。何の番号や特徴を持たないそれらは、主人の思いのままに行動し、挙げ句の果てにはカランと音を立て地面に放棄され、二度と主人に拾われる事はない。一度使用すると刃が傷み、その様を見るだけでも不快な気持ちが胸を襲う。研磨なんぞは性分に合わない。にも関わらず──森には、その心情に名を付ける事をどうしてもしたくなかった。その血には、嘗ての自分を想ってくれていたであろう人間の愛が含まれているように見えた。病魔に対する不安と恐怖が入り混じった眼差し、その中に希望を見出そうとした幼くも気高い生命。『鴎外先生』と自分を呼び、自分の鼓動に細波を立て、水晶のように澄んだ眼を此方へ向けた少女──実際のところは、あの男に対する愛が含まれた血であった訳だが。あの少女が自分の許から逃げ出したのは、別に何ら不思議な事ではない。あの少女があの時に自分の許から逃げ出したのは、彼女自身がどれ程に激しくあの男に惚れ込んでいるかという事に、急に自分でも気付いた為である。だから、自分のところに居た堪れなくなったのだ。嘗ての想い人は、天敵の手の届くところにある。
白衣を身に纏い、エリスの小さな手を取って自由の街、横浜へ飛び出した時でさえ、激情を抑え付ける事に苦労をした。時に、小雪の事を思った。カメラのシャッターを切るように、チラッと心を彼女に向ける。ほんの一瞬、彼女の身体の、柔らかくて堅い感触が思い出される。遠い歳月の奥から、この錯乱の真っ只中に、彼女の瑞々しい声もが森の耳に蘇って来る。それはもう確かな事だった。彼は試着させた洋服に歓喜、或いはあからさまに辟易するエリスを二つの目で捉えていたが、彼は別の人の事を考え、その姿を見ていた。彼は突然、何故彼女と幸福になれなかったのだろうと考え込んでしまった。彼女が今何処にいるのかが分かれば、今直ぐに、迎えに行けるのに──いや、彼女がいる場所は、あの男を倒さなければ足を踏み入れる事など出来ない場所であり、彼女に指一本触れる事さえ出来ない──輝き渡る星は、彼女に等しく揺ぎなくあらばこそ。燦としてただ独り、高々と夜空に掛かり、永劫の目蓋を見開き、堪え忍び夜の目も眠らぬ自然界の隠者の如く。絶えず波の畝りが人々の生を尽くす大地の岸辺を周り、僧侶に等しく清き禊の行に勤しむその様を、将又山脈や荒野を覆う新雪の仄々と積りしばかりの仮面を見詰めつつ。いや、しかも尚更に揺るぎなく、更に移ろう事なく、我が恋うる美しき女の豊かに熟れゆく胸を枕に、高く低く仄かに起き伏すその膨らみを永久に身に受け、甘美に内震う心境にいて永久に目覚めたるまま、穏やかに出で入る息遣いを常に耳にしつつ、そのままに長らえ続けて、さもなくば喪神の果に死する事をこそ──森は様々な事を脳裡に思い浮かべたが、ただ小雪の名だけは思い出そうとはしなかった。昔の事は、取り分け彼女との恋については一度も思い起こす事をしたくはなかった。それは余りにも腹立たしい事であった。それらの思い出は、彼の内の何処か奥底に、そっと触る事をしないように仕舞ってあったのである。夢の中でさえ彼女を見た事は一度としてなかった。
しかし、小雪の姿と共に、彼女を連れ去った男の姿もが浮かんで来た。今思うと、彼が無意識の内に見せた所作には、何ら不思議なものはなかったと言える。ある日の事──暗殺者は考え込みながら何か呟くと、診察室を出て行った。森は思わずその後ろ姿を目で追った。暗殺者が急に放心した様子になった事に驚いた為であった。彼は出て行く時に挨拶も言わなければ、首を動かし合図する事さえ忘れてしまっていたのである。いつも彼が職業に似合わず慇懃で注意深い性格である事を承知していた森には、それが如何にも頷けなかったのだ。その時既に、彼女の事を気に掛けていたのだった。小雪の意識をどうやって自身に向けさせ、此処からどうやって連れ出そうかと──嘗ての二人を愛した季節に終わりが来たという訳である。大麦の束に棲む鼠にも秋が訪れ、頭上の七竈も濡れた野苺の葉も黄色となった。愛の終わる時が其処まで迫っていたのだ。いつからか、悲しい魂は疲れて窶れ果てていたのだ。情熱の季節が過ぎ去る前の別離、立ち尽くす森の頬に一つのキスと一滴の涙をも、彼女は残してはくれなかった。
森は、ゆらゆらと揺れているエリスの青白い炎のようなスカートにじっと目をやっていた。彼の思索が何処を彷徨っていたのかは知る由もないが、過ぎ去った昔だけを彷徨っていたのではない事は確かだった。その怜悧な顔には、思い詰めたような暗い表情が現れていたが、思い出だけに耽るのなら、そういう事は有り得ないからである。しかし、何れにしても彼女は、何とも言えぬ程に、素晴らしい女性になる事は間違いない──あの頃も何という美人だった事か、全く何という美人、日増しに彼女は美しくなっていった。ところが、其処へ……あの忌々しい、とんでもなく場違いな男が現れてから、急に何もかもが踏み滲まれ、あの宝石のような日々がまるでひっくり返ったような有様になってしまったのである。ねえ、私の天使、私は身を焼かれる思いだった。地獄の業火に焼かれる思いだったのだよ。いや、今にも死にそうな思いだった。あの男が君を連れ去った事にではない。他でもない君が、私だけの、私のものだった君が、あの男と同じ方向を向き、汚れを知らぬ手でしっかりとあの男の手を握り締めていた事に、私はすっかり気が挫けてしまったのだ。私の天使、君は一体どうしてしまったのだろうね?あの男がどのように君を絆したのかは知らないが、君は一体何が不満だったのだろうね?──だが、それも直ぐに記憶から追い払った。森は元来、夢に生きる事に馴れている男ではなかった。

小雪は床に就いたが、眠ったのか眠らないのか、時々病人らしく寝返りを打っては咳払いをしていた。咳が出来ない時には、何かぶつぶつ呟くのだった。時には重々しく溜息を吐いたり、また、痰で息が詰まりそうになった。彼女の頭に浮かんだ思いは種種雑多であったが、どのような思いも帰するところはただ一つ──死という事であった。全てのものにとって避ける事の出来ない終末である死が、その時初めて抗し難い力を持って、彼女の前に現われた。この死は、彼女の前に夢現の中で呻きながら自分に猿臂を伸ばして来ている死は、これまで彼女が考えていたように、決して縁遠いものではなかった。そうした死は彼女自身の中にも存在するのだった──彼女はそれを感じた。それは、今日でなければ明日、明日でなければ三十年後の事かも知れないが、それでも結局は同じ事ではないだろうか?では、この避ける事の出来ない死とは、一体何ものであろうか。彼女はそれを知らなかったばかりでなく、嘗て一度も考えた事がなかった。いや、それを考える術も知らなければ、考えるだけの勇気もなかったのである。全てのものには終わりがあるという事を、死というものがある事を、彼女はすっかり学んだのであった。暗闇の中でベッドの上に起き上がり、上体を屈めて膝を抱いたまま、張り詰めた思いに息さえ殺しながら、じっと考え込んだりした。しかし、張り詰めた思いになればなる程、益々次の事がはっきりして来るのだった。即ち、それは疑いもなくその通りなのであり、人生に於けるたった一つの小さな事実──死がやって来れば、全ては終わりを告げるのだから、何も始める値打ちはないし、しかも、それを救う事も不可能なのだ。自分はこの事実を知った。それは恐ろしい事だが、事実には違いないのだ。それにしても、自分は未だ生きている。もうこうなったら、一体何をしたら良いんだろう?彼女は絶望的な調子で、心中で叫んだ。
首筋から止め処なく流れ出る血の影から一瞬、小雪は森の顔を眺めた。光が差す事のないあの平板な目に、突然優しさが宿るなどという事は、有り得ない事だった。しかし、その目は掻き曇り、いつもの金属のような清澄さを失っていた。『ところで、小雪』と、極めて自然な調子で森は言った。『君はこれまで、私がどういう人間か知りたいと思った事はないのかい?愛情は持ってくれているのだね、この私に対して?』病室のベッドの傍で、そのように言った彼が思い出された。彼の優しさは仮面と同様、被ったり取ったりと自由に出来るものであると彼女には思えた。感情の幅が広く、一瞬の内に対極へと移動する。だが、側から見てもそれを看取する事は出来ない。いつも笑っている仮面が、其処にはある為である──鴎外先生は私に何を言いたかったのだろう?忘れる事が難しい、囁き掛けるようなとろりとしたあの声。自身をひた隠しにし、無害な人間を装う演技をして見せる、何処か裏のある響き。もしかして先生は……と、小雪は其処で考え込むのを止めた。果てのない思考の流れと共に、首筋の傷跡に手を添えている事に気が付いた。
探偵社にて国木田と話をしている間に、天候が崩れ始めた。非常な濃霧が空を覆い、車軸を流すような豪雨が断続的に横浜の街の上に襲い掛かった。嵐を含んだ暑気がこの突然の蝶雨に続いた。海までがその深い青さを失い、そして濃霧の空の下で、目の痛くなるような、銀色若しくは鉄色の輝きを帯びた。この春のじめじめとした蒸し暑さは、夏の炎暑を望ましく思わせる程であった。丘の上に螺旋状に作られ、海に面して殆ど開けていないこの市中には、どんよりとした麻痺状態が漲っていた。埃が付着したショーウインドーの並んだ街々の間や、薄汚れた電車を見ると、空の下に取り込められた人間のような気がして来るのであった──福沢はふと小雪を一瞥した。彼女は与謝野に明るい声で何か言うと眼を伏せたが、直ぐにまたそっと見上げた……彼女が上眼遣いで見上げるようにして優しく、そっと忍び笑いを漏らす時、その眼の表情は実に魅力的だった。茶菓子の差し入れを手に探偵社を訪れ、社員達と安逸に話す姿は昔の姿、病魔に冒され、悪人共の巣窟で息を潜めていた頃のものとはすっかり異なっていた。他ならぬ此処が、君の居場所となる事が出来るのであれば、それは私の望外の幸福だ。君には未だ知らぬ世界があり、未来がある。福沢は本来の人生を取り戻した小雪を見て、些かの安堵を感じた。しかし、時折彼女は首筋に手を当て視線を妙に固定させる事があった。彼女を救いもし、傷付けもした男。組織を束ねる孤独者、こうして人と笑う事もなければ、食事を共にする事もない。その男の名をはっきりと意識する前に、福沢の血は騒ぎ、視野内の色彩が鮮明となり、節度の感覚が危なっかしく傾き出すのを感じた。あの時の森は、突然の彼女との別離に竦んだ切り身動ぎもせず、その表情からすると、惨めは極まった様子だった。ただ暴かれた男というだけではない、と福沢は思った。今し方まで大事な秘密にして置いた正に愛の夢が、突然人前に曝け出され笑いものにされた男であった。森は完全に小雪を殺すつもりだった。では何故、我々を追って来る事をしなかったのか。『矢張りその娘と共にいる事ですね。貴方のお考えは最もですよ。そうしなければ、貴方には何か残るものがありますかね』──森鴎外とて人類の一人である為、人間的な感情から逃れる事は出来ない。小雪、君はすっかり美しい女性になった。当時の事は忘れるべきだ。私は君の事を思い出すと、まるで私は病める心に薬を塗ったように、君の為に苦労をしても、君の為の苦労であればちっとも苦しくはないと思える。福沢は小雪を振り返った。自分が彼女に微笑み掛けている事には気付いていなかった。

Mint Condition - Breakin’ My Heart(Pretty Brown Eyes)